大人のいない国
鷲田 清一 内田 樹
哲学者で大阪大学の総長でもあった鷲田清一氏と、フランス文学者(というか思想家というか文筆家というか武道家というか)の内田樹氏の対談+二人がいろんなところに書いた文章の寄せ集め。
一応テーマは「大人のいない国」なのだが、あまりまとまりはない。ほとんど関係のない話も多い。
全体を貫く明確なテーマみたいなものはないんだけれど、まあそれでもいいじゃないか、という気もする。どんなことでも白か黒かではっきりさせようというのは"大人"の態度じゃない。
鷲田さんと内田さんは「最近の日本には成熟した大人がいない」と嘆く。
こういう語り口は好きじゃない。「最近の日本は……」というだけで聞く気がなくなる。だったら成熟した市民がたくさんいた時代っていつのどこなんだ、何をもってそう断定できるんだ、と訊きたくなる(これはこの本の中で「日本人が劣化した」と主張する人に内田氏がぶつけるのとまったく同じ論理だ)。
まあそれはそれとして、白黒つけたい人が多いなあということはぼくも同感だ。
そんなに何もかもはっきりさせなくてもいいじゃないか、もっとあいまいでいいじゃないか、と。
政治を見ていてもそうだ。
まるで賛成か反対のどちらかしかないような言説が多い。
賛成だ、反対だ、だったら採決で決めよう。
政治ってそういうものじゃないでしょ。
多数決で決めるなら政治家いらない。今はインターネットでかんたんに投票できるんだから全部の法案を国民投票で決めればいい。
折り合わない意見をすりあわせてほどほどのところで調整をつけるのが政治だ。お互い納得いかないでしょうがこのへんで手を打ちましょう、と。
「水面下の交渉」が悪いものであるかのように言われるが、それもちがうとおもう。
水面下の交渉が良くないとされるのは報道機関の都合だ。自分たちの知らないところで物事が決まったら報道機関は商売あがったりだから非難するけど、それはきわめて健全なことだ。
ぼくらが家庭やサークルや仕事でルールを決めるときは投票なんかしない。話し合いや阿吽の呼吸で決める。家庭内で投票をしなきゃいけないとしたら、その時点でもうだいぶこじれてると考えていい。
国会で議題に上がる頃にはすでに事前の根回しによって大勢が決している、というのが本当の政治だとぼくはおもう。
国会で丁々発止の論戦、なんてのはパフォーマンスにすぎない。
社内の会議で「まだ何も決まっていません。さあ今からみんなで話し合って決めていきましょう!」と提案するのは、仕事ができないやつだ。
優秀な人間は会議がはじまる前に各方面にキーマンに話をつけて、大まかな道すじを作っておく。会議では最終的な確認と微調整だけ、ということが多い。これこそが政治だ。
「水面下での交渉」や「ほどほどのところでの調整」に長けた人を選ぶのが間接民主制における選挙だ。
選挙は「正しい人」を選ぶものではない。
本来、採決で決めるのは最終手段のはずなのに(そうじゃなかったら議会の意味がない)、どうもそれが唯一絶対の方法になっている気がしてならない。
「決をとるという行為は、一見個人の意思を尊重しているように思える。
しかし!! 実は少数派の意志を抹殺する制度に他ならない!!」
ってトンパも言ってたじゃない(『HUNTER×HUNTER』より)。
この本の中では、「白黒はっきりつけないこと」「首尾一貫していないこと」「正解を決めないこと」の重要性がくりかえし語られている。
上に引用した文章は内田さんのものだが、鷲田さんも「対立の外に身を置く」ことの重要性を説いている。
うちの娘(五歳)と話していると、物事をすごくシンプルに理解したいんだなあと感じる。
「絵本に出てくるこの人はいい人?」「あれは悪いことだよね」「この前は〇〇だと言ってたじゃない」と。
でも、フィクションの中ならともかく、現実はたいていそうシンプルではない。
いい人が悪いことをすることもあるし、その逆もある。良かれとおもってやったことが悪い結果を招くこともある。時と場合によって同じ人がまったく正反対のことを言うときもある。
五歳には「清濁併せ呑む」なんて芸当がないから、物事をなんとかシンプルに切り分けて理解しようとしているんだろう。
なんでも単純化してしまうのは五歳だけじゃない。大人にも多い。
議論になるような出来事は、清濁併せもっている。戦争も原発も自衛隊も死刑も増税も医療も介護も、みんなメリットデメリットがある。
自宅の前に原発つくるって話なら原発稼働に反対するし、毎日停電が起きますよって言われたら原発稼働停止はちょっと待ってよっておもう。
それで「さあ原発稼働に賛成ですか、反対ですか、どっちか一方に決めてください」といわれても困ってしまう。
明確に割り切れるものならそもそも議論にならない。「タバコのポイ捨て、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」と訊かないでしょ。
ゼロか百かしかないのはきわめて幼稚で、大人のふるまいじゃない。
だから新聞社やテレビ局はまず「現政権を支持しますか? その理由を次の中から選んでください」っていう単純な世論調査をやめたらいいとおもう。
あれで明らかになるのは子どもの意見だけだから。
子どもと大人のいちばんの違いは、自分の感情をいかにコントロールできるかという点だとぼくはおもう。
以下、内田さんの文章。
これねえ。なんとかならんもんか。
怒りをあらわにするって、いちばん子どもっぽいふるまいじゃないですか。
うちの幼児なんか、毎日めちゃくちゃ怒ってますよ。
風呂に入れと言われたら「今入ろうとしてたのに!」と怒り、脱いだ服を洗濯カゴまで持って行けと言われたら「わかってる!」と怒り、そろそろ帰ろうと言われたら「いやだ!」と怒り、腹が減っては怒り、眠くなっては怒り、「眠いんだから早く寝ようね」と言われては「眠くない!」と怒っている。
ふつうの口調で言えばいいのに、全部怒る。怒ることで話を聞いてもらおうとする。
だからぼくも妻も、娘が怒っているときは放置する。無視して他の話をする。
「怒ることで他人をコントロール」しようとしても無駄だと教えるために。他人に要求を伝えたいのなら、むしろ落ち着いた語り口を採用しなければならない。
なのに、政治家や記者など「立派な立場」とされるポジションにある人が子どものように怒っている。
それも「私を侮辱するのか!」とかしょうもない理由で。それって幼児の「わかってるのに言わんといて!」と同じレベルだよ。
失礼な態度をとられたら、より慇懃に接するのが大人のふるまいだろうに。
ぼくが前いた会社の社長もこういう人だった。
どうでもいいことでスイッチが入っていきなりキレる人。
そうすると周囲の人は「あの人はやっかいものだから慎重に扱おう」と接する。それを本人は「大事に扱われている」と勘違いしちゃうんだろうなあ。爆弾を慎重に扱うのは爆弾に敬意を持っているからじゃないのに。
ぼくは、すぐ怒る人のことをばかだとおもっている。知性的な人間はそうそう怒らない。ほんとうに怒っているときこそそれを表に出さない。
成熟した大人の数は昔も今も少なかったんだろうけど、昔はまだ「怒りをあらわにするやつはばかだ」という認識が知識層の間にはあったんじゃないかな。
だからこそ「バカヤロー解散」なんてのが名前として残っているんだろう。総理大臣なのに感情的になったぜ、あいつばかだぜ、ってことでああいう名前をつけたんじゃないのか。
だけど今はえらい人がすぐ怒る。
アメリカ大統領も総理大臣も怒っている。「戦略的に怒ったふりをしてみせる」とかじゃなく、ただ怒りをあらわにしている。
こういう非知性的なふるまいが許容されているのはよくない。
ばかなことをしている人は、ちゃんとばかにしなければいけない。
感情のおもむくままに怒っている人はスーパーの床にころがって駄々をこねている幼児といっしょなのだから、ちゃんと言ってあげないといけない。
「そんなこという子はうちの子じゃありません!」
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