2018年9月7日金曜日

【読書感想文】原発維持という往生際の悪さ/山本 義隆『近代日本一五〇年』

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『近代日本一五〇年
―科学技術総力戦体制の破綻』

山本 義隆

内容(e-honより)
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。
近代化以後、日本の科学がどのように発展してきたかを追う書籍。
科学の中身のほうではなく、どちらかというと科学が政治や経済や軍事とどのように関わってきたかという点が主題。

これを読むと、日本の科学ってつくづく戦争とともに歩んできたんだなと思う。
 軍は幕府や西南雄藩が設立した兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場としての大阪砲兵工、東京砲兵工、海軍造兵、横須賀海軍工に改変した。軍工の最大の目的は、もちろん兵器の自給化にある。日本の近代化の軸は、産業の近代化・工業化であると同時に軍の近代化・西欧化であった。通常、産業の近代化がすなわち日本の資本主義化と見られているが、軍の近代化が日本の資本主義化にはたした役割は、きわめて大きい。「当時の日本の技術全体の前進にあたって、政府の軍事工場は、部分的に指導的な役割をはたす立場にあった」(星野、一九五六)。実際、軍による兵器自給化の欲求、およびもともとは軍事から始まった造船業こそが、明治期日本の重工業・機械工業・化学工業への大きな推進力であった。軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている。そして軍によるこの兵器自給の欲求が、やがて、そのための資源を求めてアジア侵略へと日本を駆り立ててゆく。
初期からしてこうだった。
学者や職人の間から勃興した科学を戦争に活用した西欧と違い、日本の場合ははじめから「他国に勝つ」という目的のために科学研究を国策として推進してきた。

兵器を作るために近代化し、兵器を作るための資源を求めてアジアへ侵出する。
「兵器を作るために戦争をする」なんて目的と手段が逆転しててばかみたいな話だけど、でも当時の日本人はそうでもしないと列強に食い物にされるという危機感を抱いていたのだろう。



戦争に巻きこまれたことで日本の科学は大きく発展した。
第一次世界大戦以降、戦争は総力戦となり、科学者も無関係ではいられなくなった。
戦場では化学兵器が用いられ、兵や軍備の輸送のために車や飛行機や船が使われ、それらは人力や馬力ではないエネルギーを必要とした。兵士の救護には医療知識が必要で、船や潜水艦を航海させるためには海洋知識が必要。戦闘機を飛ばすには航空物理学や気象学を知らなくてはいけない。
数学、化学、機械工学、地学、物理学、地学、気象学などありとあらゆる学問が戦争に駆りだされた。

そして日本が本格的に科学を学びはじめたのが、ちょうどその時代だった。
まだ黎明期だった科学界に国から多くの研究資金が支給されたのは、研究結果が戦争に役立ったからだ。学者たちは喜んで軍に協力した。

軍への貢献がすなわち悪だとは思わない。
結果的に日本の科学は大きく発展して、それが戦後の復興につながった部分も大きい。
ただし戦後の復興もまた戦争とともにあった。朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発したおかげで、アメリカの日本統治はずいぶんゆるくなり、一度は禁止された科学研究も許された。戦争のおかげで大量の金が入りこんできて、工業製品を作るのに役立った。「ものづくり大国ニッポン」は、「戦争に使えるものづくり大国」だった。
高度経済成長という平和な発展の裏には、他国の戦争という犠牲があったということを知っておかなくてはならない。決して平和に発展してきたわけではないのだ。



こうした歴史的経緯が、基礎研究や文系の学問に対する軽視につながっているのかもしれない。
日本はもう七十年も直接的な戦争をしていないが、「戦争に勝つために研究しろ」が「経済競争に勝つために研究しろ」になっただけで、やっていることはたいして変わっていないように見える。
戦時は戦争に役立たない学問がないがしろにされていたように、戦後は経済競争に役立たない学問もまたないがしろにされつづけている。

「科学、学問は国家が統制して発展させていくもの」という考えは今も日本に深く根を張っている。
それがときには、公害病のような「経済成長のために科学を暴走させる」事態も引き起こす。科学が政治や経済に対して中立であったならば、公害の原因はずっと早く明らかになっていただろう。
こうした姿勢は今も変わっていない。原発は日本経済のためになるんだからイチャモンつけんじゃねえよ、の理屈がいまだ幅を利かせている。

こうなってしまったのは、科学者を必要以上に研究にストイックな存在として持ちあげてきたことがあるのかもしれない。
科学者も人間である以上、世俗にまみれた存在だから金や地位や名声を欲しがるし、そのために嘘をついてしまうことや権力者に都合の良い解釈をしてしまうこともあるだろう。
……という認識を持っておけば、大学教授という肩書に騙されることも減るだろう。

科学は善でも悪でもない。
工事の道具として発明されたダイナマイトが武器として多用されたように、使い方によって科学は善にも悪にもなる。
原子力は原爆にもなるしエネルギーにもなる。そしてそのエネルギーには周辺一帯を人の住めない土地に変えてしまうほどの力がある。



この本では、最後の一章を割いて原子力について書いている。
この章だけでも多くの人に読んでほしい。
そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射線汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらには数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。通常の商品では、このどれひとつがあっても、市場には出しえない。
軍事研究と原子力研究に共通するのは「市場を通さずに国から金が下りてくる」という点だ。
税金で賄うから市場競争がはたらかず、どんなに高くても言い値で買ってくれる。電機メーカーからすると兵器と原子力は金のなる木なのだ。

メーカーからするとそんなおいしいものを手放すわけがないし、この利権を守るためならどれだけでも金をばらまく。どれだけ高くついたってかまわない。その分を兵器と原発関連の代金に上乗せすれば国が払ってくれるのだから。また電力会社は総括原価方式によって決してマイナスにならないように電気料金を設定できるから経費なんか気にしなくていい。
かくして巨大な利権が生まれ、あり余る金で政治家も報道機関も研究室も抱きこめる。

SNSなんかを見ていても、ちょっと原発に批判的なコメントをすると、とたんに「原子力堅持主義者」「武力強化主義者」が湧いてくる。
ことあるごとに「地震で停電になった! 原発があればよかったのに!」「北朝鮮がミサイルを撃ってくるぞ! 防衛費を上げろ!」と危機感をあおる。はたまた「福島の人を傷つける気か!」という感情論に持ちこもうとする。

金のなる木があればそれを守りたくなる気持ちはわからんでもないが、大学の研究者や報道機関までがそれに加担しているのを見ると悲しくなる。
研究資金ほしさに軍に協力していた時代、国や大企業を守るために公害病のでたらめな原因を上げていた時代から何も変わっていない。

過去に国のお抱え研究者がどんな嘘をついてきたかを知ればとても「原発は絶対に安全だ」なんて話を信じられる気になれないと思うが、それでも人は悲惨な現実からは目をそむけたくなってしまう。

専門知識がなくたって絶対安全なものなんてないことぐらいはわかるし、だったら「もしも事故が起こったら広範囲に数十年以上も回復不能なダメージを与えるもの」なんてやめようとなるのがふつうの感覚だろう。
「このボタンを押せば100万円あげます。でも1%の確率であなたは死にます。押しますか?」って訊かれたら、よっぽどお金に困っている人以外は押さない。
しかし原発に関しては目先の金欲しさにハイリスクな道を選びつづけている。日本という国はそこまでお金に困ってるのだろうか。

こんなリスキーダイス、いつまで振りつづけるつもりなんだろう。



また著者は、日本が頑なに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。
 一九九二年一月二九日の『朝日新聞』には「日本の外交力の裏付けとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。[核兵器の]保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部のまことに正直というか、あからさまな談話が記されている。核燃料サイクルにたいする日本の「異常なまでの執着心」の根っ子に潜在的核武装路線があるという想定は、けっして無理なこじつけではない。すくなくとも、外国からそのように受け取られても不思議はない。自覚していないのは、日本人だけである。
じっさいに転用可能な資源も技術も十分にあるし、核兵器禁止条約に署名しないのも将来的に核兵器を持つ可能性を考えてのことではないかと。
言われてみればそうかもしれない。
国民が「日本には非核三原則があるから」なんてのんきに構えているうちに、とっくに核武装の準備を整えているのだ。これが杞憂ならいいんだけどね。


原発をめぐる状況は第二次世界大戦末期とよく似ている。

こっぴどい敗戦を喫した理由としては、物資不足だとか科学力が劣っていたとか精神論重視だったとかいろいろあるけど、ぼくは「負けを認められなかった」ことに尽きると思う。
負けを認めないから正しい情報が共有されず、負けを認めないから過去の失敗から学ばず、負けを認めないから国土を焼き尽くされた。

原発も同じだ。とっくに「負け」フェーズに入っている。
安全神話が嘘だったことは福島第一原発事故ではっきりと露呈したし、いまだ廃炉の道は見えない。すでにヨーロッパ諸国は原発を放棄しつつあるが、負けを認められない日本はボロボロになった神話に必死にしがみついている。

電力消費量は減少しつつあり、代替エネルギーも増えている。もはや原発にこだわる理由はなくなっているのだが、それでも日本が原発を捨てられない理由は「ここで負けを認めたら今までやってきたことが無駄になる」という一点のみだ。
一言でいうなら往生際の悪さということになる。かくして戦況はどんどん悪化してゆく。

今のぼくらが大日本帝国軍の軍部を愚かだったとあざ笑うように、百年先の日本人も今のぼくらをあざ笑うだろうか。それともその頃の日本は人が住めない土地になっているだろうか。



科学技術は資本主義とともに成長してきた。
だが、人口減少社会に突入した今、資本主義は破綻をきたそうとしている。
「いいものをたくさん作ってたくさん売れば人々の暮らしも良くなって経済も成長する」というハッピーな時代はとっくに終わった。
経済成長をするためには、今の政権が力をやろうとしているように武器やカジノで「いかに他人から奪うか」または原発のように「いかに未来から奪うか」というやり方しかなさそうだ。

この先、科学の発展は人々の幸福に寄与してくれるのだろうか。
それとも一部の人がその他多数から富を搾取するために科学は使われるのだろうか。

残念ながら後者である可能性が高いような気がする。

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