あひる
今村 夏子
『あひる』『おばあちゃんの家』『森の兄妹』の三篇を収録。
『あひる』は以前『文学ムック たべるのがおそい vol.1』に収録されているものを読んだことがあるが、二度目なのにやはり怖かった。いや、二度目のほうがじわじわくる。
(以下ネタバレ)
あひるが家にやってきた。たちまち近所の小学生たちがあひるを見に集まってくるようになった。子どもが好きな両親もうれしそう。
ある日具合の悪くなったあひるは病院に連れていかれるのだが、数日後に戻ってきたあひるは前とどこか違う。ひとまわり小さくなっているし、くちばしの模様も違う。おそらく両親が別のあひるを連れてきたのだが、そのことについて何も言わない。子どもたちは気づかない。わたしはあひるが入れ替わったことに気づいているが、両親の雰囲気から何も言えない。やがてまたあひるの具合が悪くなり……。
なんだろう。そこはかとなく怖い。
たぶん、あひるが死んでしまったので別のあひるを買ってきただけなのだが。それなのに、「言わない」だけでこんなにおそろしくなるなんて。
お気に入りの椅子が壊れたからよく似たデザインの椅子を買ってきた、ならちっとも怖くない。わざわざ「別のを買ったよ」と言わないのもわかる。
だが、あひるだ。それもかわいがっているペットだ。〝壊れた〟からといって新しいものを買ってきて、何事もなかったかのように置き換えていいのだろうか。
悪いことをしているわけじゃない。あひるを殺したわけではない。いないと近所の子どもたちがさびしがるから別のあひるを連れてくるという発想も理解できる。でも、生き物はそうかんたんに置き換えてはいけない。明文化されていないけど、ぼくらの心にはそういうルールがある。
母から聞いた話。
母の実家では犬を飼っていた。ある日、犬が病気で死んでしまった。父親が仕事の取引先と「犬が死んじゃって子どもが悲しんでいるんだよね」的なことを言ったらしい。するとその数日後、取引先から新しい子犬が贈られてきたそうだ。
これも同じように怖い。取引先からしたらいいことをしたつもりなんだろう。だがその人は人間の心が理解できていない。かわいがっていた犬が死んだ一週間後に新しい犬が送りつけられてきて「やったー! 新しい犬だー!」となるとおもっている人はちょっと怖い。
(ちなみに母の父、つまりぼくの祖母はそこそこいいポジションにいる国家公務員だったので今だったら完全アウトの話だ)
生き物は「代わり」があってはいけないのだ。
ここで「代わり」を用意されるのがあひる、というのが憎い。
犬や猫が別の個体になっていたらさすがに誰でもわかるだろう。文鳥やハムスターだったらずっと気づかないままかもしれない。しかしあひるは絶妙に「気づかないかもしれないし気づくかもしれない」ラインだ。あひるはペットとしてはめずらしいから「よく似ているけど別のあひるかもしれない」とおもわないような気がする。ちょうどいいポジションの動物だ。
この小説、すり替わったあひるだけでなく、
「誕生日会の準備をしていたのに誰も来ない」
「深夜にやってきた男の子があひるに似た性格をしている」
「誰もあひるのすり替えに気づいていないのに、ひとりの女の子だけは当然のように気づいている」
「まるであひるの代わりのようなタイミングで赤ちゃんがやってくる」
など、じんわりと怖いことが随所にちりばめられている。いや、これって怖いのだろうか。よくわからない。
「幽霊が出る」「殺人鬼が近くにいる」みたいなはっきりした恐怖とは違う。だって何の実害もないんだもん。実害もないし悪意もない。なのになぜかぞわぞわする。
座敷わらしに出会ったような感覚。
いや、自分が座敷わらしになったような感覚といえばいいだろうか。座敷わらしになったことないからわかんないけど。
『おばあちゃんの家』『森の兄妹』も奇妙なファンタジーでよかった。児童文学のような平易な文章なのが余計に不気味だ。
今村夏子作品はどれを読んでも心が動かされる。だけど、それがどういう感情なのかうまく説明することができない。今村夏子作品を読んでいるときにしか刺激されない脳のツボがあるんだよな。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿