2020年3月5日木曜日

【読書感想文】電気の伝記 / デイヴィッド・ボダニス『電気革命』

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電気革命

モールス、ファラデー、チューリング

デイヴィッド・ボダニス(著)  吉田三知世(訳)

内容(e-honより)
同じ電信技術を追求しながら特許のために人生の明暗が分かれたモールスとヘンリー。聴覚障害者の恋人への愛から電話を発明したベル。宇宙は神の存在で満たされていると信じつつ力場を発見したファラデー。愛した上級生の死の喪失感をバネにコンピュータを発明したチューリング。電気と電子の研究の裏側には劇的すぎる数多の人間ドラマがあった!
だじゃれを言いたいわけではないが、電気にまつわる人々の伝記。
電気の性質に気づき、活用し、改良を加えた人たちに関する逸話が並んでいる。

褒めそやすばかりではなく、悪いところも書いているのがいい。
今もその名が知られているモールスやエジソンの金に汚い部分とか(金に汚かったからこそ成功したのかもしれない)。
 これらの発明のほとんどすべてにおいて、エジソンと彼の研究開発チームは重要な役割を果たしていたので、エジソンはご満悦だったに違いない。エジソンは、年老いてからは愚痴っぽくなったものの、機械が大好きで、社会に起こった一連の変化を総じて歓迎していた。だがじつは、彼にはまだ不満があった。当時の技術者でそのように考えていた者は極めて少数だったが、エジソンは、電気の効果の背後にある原理を科学的に解明したいと考えつづけていたのである。
 エジソンは、当時の最高の電気技師だと目されていたが、彼には導線の内部で何が起こっているかさえわからなかった。新聞記者たちに、彼の偉大な発明品が機能するほんとうのからくりを説明してくれないかと求められると、たいてい彼はただ笑ってごまかすのだった。そして、そういうことは、ご立派な大学教授の皆さんが解明すべきことであって、それがほんとうに解明されるころには、自分はとうに死んでしまっているだろうと話した。
へえ。
エジソンって電気のことを(当時としては)熟知しているのかとおもっていたが、じつは仕組み自体はよくわかっていなかったんだね。
エジソンは技師であって研究者ではなかった。だから「こうすればああなる」という事象は知っていても、「なぜそうなるのか」はよくわかっていなかった。
まあ発明するのにはそれで十分なんだろう。

ぼくだってWeb広告の仕事してるけどパソコンがどういう仕組みで動くかまったくわかってないし。だからよく「パソコンが動かないんです」とか相談されるけど、ちっとも答えられないんだよね。「再起動してみたらどうですか」ぐらいしか言えない。

とはいえ、エジソンの発明した電球や、エジソンが改良した電話はほとんど同じ原理でごくごく最近まで使われていた(今も一部では使われている)そうで、百年間も使用に耐えるものをつくるなんて、エンジニアとしてはほんとに天才だったんだなあとつくづくおもう。原理をわかっていないのに、いやわかっていないからこそすごい。

エレクトロニクスってものすごく進歩しているようで、案外ほとんど進んでいない分野もあるんだなあ。



電気はレーダーを生みだし、戦争の性質を大きく変えた。

敵機の来襲や攻撃目標の選定など、肉眼ではとらえきれないものをレーダーでとらえられるようになった。
おかげでイギリスはナチスドイツを撃退することができた。イギリスがレーダーを使えずドイツがイギリス侵攻に成功していたら世界の勢力図も大きく変わっていただろう。

この顛末にはけっこうページが割かれていて、すごくおもしろい。
でもここだけテイストがちがうんだよなあ。サイエンスノンフィクションではなく軍記物小説のようになっている。
 イギリス政府が、レーダーによる防衛システムを隠蔽するために、作り話を積極的に広めたのも功を奏した。新聞各紙に、特に夜間に正確に敵を迎撃することができるのは、ニンジンの視力改善効果によるものだという情報がわざと流され、それが掲載された(ニンジンが目にいいという話は、ここから始まったようだ)。英国空軍のメンバーたちの機転もあった。たとえば、フィリップ・ウェアリング軍曹が、敵機をフランスまで追っていた際に撃墜され、捕らえられてまもなく尋問を受けたときの機転の利いた受け答えについて、彼自身の説明を引用しよう。
「あるドイツ兵が尋ねました。『どうしておまえたちは、われわれが行くところにいつも先回りしているんだ?』と。わたしは、『われわれには強力な双眼鏡があって、それでいつも見張っているからさ』と答えました。それについてはそれ以上訊かれませんでした」
レーダーを発明したことを隠すために自国民に対しても積極的にデマを流したイギリス政府。
おかげでドイツ軍はレーダーの存在に気付くのが遅れ、戦況に大きく影響を与えた。
ドイツの諜報活動というレーダーに対してデマというレーダー遮蔽装置を使ったわけだ。

しかし結果的に成功したからよかったものの、政府が国民を騙すことを美談としてしまってよいのだろうかとちょっと気になる。「ニンジンが目にいい」程度の罪の小さい嘘だったらまだいいんだけどさ。
でも「国民を安心させるために日本は連戦連勝と虚偽の発表をした」大本営発表と本質的には変わらないわけで、楽しい話ではあるけれどいいことじゃないよね。



コンピュータの父とも呼ばれるアラン・チューリングの章より。
チューリング自身がコンピュータを完成させることはなかったが、彼の構想がコンピュータの開発につながった。
 チューリングの主張とは異なり、この機械は万能などではない」と批判する者が、この機械が実行できないような仕事の例を列挙したときには、チューリングはその批判者に、不可能と思われる仕事をいくつかの段階に分割して表現して、それぞれの段階を、チューリングと同じ明確で論理的な言葉で表現してもらえばよかった。そのうえで、チューリングがその分割された命令を機械に与えると、機械は着々と、指示通りに仕事を果たすだろう――そして、批判者が間違っていたことが明らかになる、というわけだ。今の世に生きるわたしたちは、一連の指示を実行する機械というものにあまりに慣れきっており、コンピュータにせよ携帯電話にせよ、打ち込んだ命令に従うものと思い込んでいるので、そのようなアイデア自体が受け入れられなかった時代があったということを忘れてしまいがちである。だが、チューリングが学生だったころは、生物ではなく、自らの意志で動くのではない機械に、そのような知的な仕事が成し遂げられると想像できる人間は、ほとんど存在しなかったのだ。
これ、今の我々にはわかりにくいんだよね。
パソコンやスマホに囲まれている我々は、「命じられたことを実行する機械」の存在に疑問を持つことはない。
「計算をしろと言われて計算をする機械がある」と聞かされても「そりゃそうでしょ」としかおもえない。
でもほんの数十年前までは、その考え方自体がとうてい受け入れられるものではなかったのだ。
「スイッチを入れたら灯りがつく機械」と「計算でもお絵描きでも映画上映でもできる機械」の間には遠い隔たりがあったのだ。

言われてみれば、ほんの二十五年ぐらい前でもそんな感じだったかもしれない。
当時小学生だったぼくのまわりにも機械はいくつもあったが、基本的に一機一用途だった。
文書を作るならワープロ、計算をするなら電卓、スケジュールを管理するなら電子手帳(懐かしい!)、日本語を調べるなら電子国語辞典、英語を調べるなら電子英語辞典、テレビ、ラジオ、カメラ、ゲーム機、ぜんぶ別々の機械だった。
それらすべてがひとつの機械に収まって、誰のポケットにも入っている時代がくるなんて想像もつかなかった(しかもそれが二十年たらずで実現するなんて!)。

チューリングの頭の中にはハードウェアとソフトウェアを別のものにする発想もあったようで、とんでもない天才だったんだなあ。今の時代にはそのすごさが伝わりにくいけど。



電気が変えたのは人々の生活だけではないという話。
 これによって、遠い遠い昔から変わることがないと思われていたいろいろな関係が変化しはじめた。召使たちが、ひざまずいて、冷たい水で衣類を洗濯したり、暖炉の煤を擦り取ったり、汚れた水の入ったバケツを持って階段を昇り降りしているのを目にすれば、彼らは、気の利いた会話をしたり読書をしたりする自由な時間のある人間とはまったく違う種類の人間だと思える。したがって、召使には投票を行なう「資格」などないと考えるのはごく自然なことだろう(日々の労働で疲れ切った召使たちのほうも、投票権を要求するなど身に余ると感じることだろう)。だがしかし、電気3ポンプと電気モーターで動く洗濯機が登場し、続いて電気冷蔵庫に電動ミシン、そして次々といろいろな電化製品が生まれるようになると、単純な家事労働はどんどん減っていき、それと共に召使も姿を消し、自分を他人より下だと感じる気持ちも薄らいでいった。労働者階級の成人男子に投票権を与えてもいいのではないかという機運が高まり、やがて、以前はまったく無謀な考えでしかなかった、女子の投票権というものが検討されるようになったのである。
これは著者の個人的見解だけど、機械化が人権の拡大に寄与した影響は少なからずあるだろうね。
職業に貴賤はないというけれど、やっぱり尊大にさせられる仕事や卑屈な気持ちにさせる仕事はぜったいにある。
たとえば靴磨き。今ではめったに見なくなったけど、ぼくが子どもの頃はまだ街中に座って靴磨きをやっているおじさんがいた。
あれぜったいに卑屈になるとおもうよ。他人の足元にひざまずいて手を真っ黒にして靴を磨くんだもん。「おれは人から必要とされる立派な仕事をやっている!」という気持ちにはなれないとおもう。やったことないから想像だけど。古今東西どんな社会にも「磨いてほしいのかい? こっちも忙しい身だからね。まあ条件次第だね」みたいな態度の靴磨きはいないにちがいない。
逆に政治家なんてのは「選ばれた」という意識があるし、困っている人が陳情にきたりするからどうしても自分が偉くなったと勘違いしてしまう。他人を生かすも殺すもオレ次第だぜ、みたいな気持ちになっちゃうんだろうなあ。

人権意識っていついかなる社会にでも適用できるものじゃないのだと改めて気付かされる。
未開文明で「男女平等、基本的人権、思想の自由」なんて唱えたって、科学技術がなければ「家の中で炊事洗濯をする人」「教育を受けずに働かないといけない子ども」「過酷で危険な労働に従事する人」がいないと生きていけない。そういう環境で等しく人権を、なんて意識を持ったとしても実現不可能であれば意味がない。

思想や権利って普遍の真実であるみたいについついおもってしまうけど、じつはテクノロジーに支えられてぎりぎり立っている、きわめて危ういもんなんだなあ。

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