電気革命
モールス、ファラデー、チューリング
デイヴィッド・ボダニス(著) 吉田三知世(訳)
だじゃれを言いたいわけではないが、電気にまつわる人々の伝記。
電気の性質に気づき、活用し、改良を加えた人たちに関する逸話が並んでいる。
褒めそやすばかりではなく、悪いところも書いているのがいい。
今もその名が知られているモールスやエジソンの金に汚い部分とか(金に汚かったからこそ成功したのかもしれない)。
へえ。
エジソンって電気のことを(当時としては)熟知しているのかとおもっていたが、じつは仕組み自体はよくわかっていなかったんだね。
エジソンは技師であって研究者ではなかった。だから「こうすればああなる」という事象は知っていても、「なぜそうなるのか」はよくわかっていなかった。
まあ発明するのにはそれで十分なんだろう。
ぼくだってWeb広告の仕事してるけどパソコンがどういう仕組みで動くかまったくわかってないし。だからよく「パソコンが動かないんです」とか相談されるけど、ちっとも答えられないんだよね。「再起動してみたらどうですか」ぐらいしか言えない。
とはいえ、エジソンの発明した電球や、エジソンが改良した電話はほとんど同じ原理でごくごく最近まで使われていた(今も一部では使われている)そうで、百年間も使用に耐えるものをつくるなんて、エンジニアとしてはほんとに天才だったんだなあとつくづくおもう。原理をわかっていないのに、いやわかっていないからこそすごい。
エレクトロニクスってものすごく進歩しているようで、案外ほとんど進んでいない分野もあるんだなあ。
電気はレーダーを生みだし、戦争の性質を大きく変えた。
敵機の来襲や攻撃目標の選定など、肉眼ではとらえきれないものをレーダーでとらえられるようになった。
おかげでイギリスはナチスドイツを撃退することができた。イギリスがレーダーを使えずドイツがイギリス侵攻に成功していたら世界の勢力図も大きく変わっていただろう。
この顛末にはけっこうページが割かれていて、すごくおもしろい。
でもここだけテイストがちがうんだよなあ。サイエンスノンフィクションではなく軍記物小説のようになっている。
レーダーを発明したことを隠すために自国民に対しても積極的にデマを流したイギリス政府。
おかげでドイツ軍はレーダーの存在に気付くのが遅れ、戦況に大きく影響を与えた。
ドイツの諜報活動というレーダーに対してデマというレーダー遮蔽装置を使ったわけだ。
しかし結果的に成功したからよかったものの、政府が国民を騙すことを美談としてしまってよいのだろうかとちょっと気になる。「ニンジンが目にいい」程度の罪の小さい嘘だったらまだいいんだけどさ。
でも「国民を安心させるために日本は連戦連勝と虚偽の発表をした」大本営発表と本質的には変わらないわけで、楽しい話ではあるけれどいいことじゃないよね。
コンピュータの父とも呼ばれるアラン・チューリングの章より。
チューリング自身がコンピュータを完成させることはなかったが、彼の構想がコンピュータの開発につながった。
これ、今の我々にはわかりにくいんだよね。
パソコンやスマホに囲まれている我々は、「命じられたことを実行する機械」の存在に疑問を持つことはない。
「計算をしろと言われて計算をする機械がある」と聞かされても「そりゃそうでしょ」としかおもえない。
でもほんの数十年前までは、その考え方自体がとうてい受け入れられるものではなかったのだ。
「スイッチを入れたら灯りがつく機械」と「計算でもお絵描きでも映画上映でもできる機械」の間には遠い隔たりがあったのだ。
言われてみれば、ほんの二十五年ぐらい前でもそんな感じだったかもしれない。
当時小学生だったぼくのまわりにも機械はいくつもあったが、基本的に一機一用途だった。
文書を作るならワープロ、計算をするなら電卓、スケジュールを管理するなら電子手帳(懐かしい!)、日本語を調べるなら電子国語辞典、英語を調べるなら電子英語辞典、テレビ、ラジオ、カメラ、ゲーム機、ぜんぶ別々の機械だった。
それらすべてがひとつの機械に収まって、誰のポケットにも入っている時代がくるなんて想像もつかなかった(しかもそれが二十年たらずで実現するなんて!)。
チューリングの頭の中にはハードウェアとソフトウェアを別のものにする発想もあったようで、とんでもない天才だったんだなあ。今の時代にはそのすごさが伝わりにくいけど。
電気が変えたのは人々の生活だけではないという話。
これは著者の個人的見解だけど、機械化が人権の拡大に寄与した影響は少なからずあるだろうね。
職業に貴賤はないというけれど、やっぱり尊大にさせられる仕事や卑屈な気持ちにさせる仕事はぜったいにある。
たとえば靴磨き。今ではめったに見なくなったけど、ぼくが子どもの頃はまだ街中に座って靴磨きをやっているおじさんがいた。
あれぜったいに卑屈になるとおもうよ。他人の足元にひざまずいて手を真っ黒にして靴を磨くんだもん。「おれは人から必要とされる立派な仕事をやっている!」という気持ちにはなれないとおもう。やったことないから想像だけど。古今東西どんな社会にも「磨いてほしいのかい? こっちも忙しい身だからね。まあ条件次第だね」みたいな態度の靴磨きはいないにちがいない。
逆に政治家なんてのは「選ばれた」という意識があるし、困っている人が陳情にきたりするからどうしても自分が偉くなったと勘違いしてしまう。他人を生かすも殺すもオレ次第だぜ、みたいな気持ちになっちゃうんだろうなあ。
人権意識っていついかなる社会にでも適用できるものじゃないのだと改めて気付かされる。
未開文明で「男女平等、基本的人権、思想の自由」なんて唱えたって、科学技術がなければ「家の中で炊事洗濯をする人」「教育を受けずに働かないといけない子ども」「過酷で危険な労働に従事する人」がいないと生きていけない。そういう環境で等しく人権を、なんて意識を持ったとしても実現不可能であれば意味がない。
思想や権利って普遍の真実であるみたいについついおもってしまうけど、じつはテクノロジーに支えられてぎりぎり立っている、きわめて危ういもんなんだなあ。
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