2021年9月1日水曜日

【読書感想文】小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』

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友だちリクエストの返事が来ない午後

小田嶋 隆

内容(e-honより)
人と人とがたやすくつながってしまう時代、はたして友だちとは何だろうか?永遠のテーマを名コラムニストが徹底的に考え抜きました!

 携帯電話やSNSにより、いつでも手軽につながれるようになった時代の〝友だち〟について考察した本。

 昔は、今ほど友だちの価値が重くなかったと小田嶋さんは書く(小田嶋さんの主観だけどね)。

 私が学生だった時代は「ぼっち」が基本であり、単独行動者であることがキャンパスを歩く大学生のデフォルト設定だった。私自身、昼飯はほぼ一人で食べていた。時間割によっては、一日中誰とも口をきかないままで帰って来る日もあった。それもそのはず、われわれの時代には、携帯電話が無かった。だから、特定のたまり場を持っていない学生は、キャンパス内で偶然知り合いに出くわさない限りは、「ぼっち」を余儀なくされた。(中略)
 とはいえ、誰もが多かれ少なかれ「ぼっち」であった私たちの時代の「ぼっち」は、現代のキャンパスを歩く「ぼっち」ほど孤立的ではなかった。
 わかりにくいいい方だったかもしれない。具体的な言葉でいい直す。つまり、誰もがつながれないでいた時代の「ぼっち」と違って、全員が携帯電話やラインを通じて常時ゆるやかにつながっていることが前提となっている現在の状況での「ぼっち」は、状況として「誰からも電話がかかってこない」本格的な村八分状況を意味しているわけで、だからこそ、「ぼっち」であることは、単なる暫定的な単独行状況ではなく、全面的な孤立ないしは村八分の恥辱として受けとめられているわけなのだ。
 私は、本書を「ぼっち」の人間の立場で書こうと思っている。


 ぼくは「大学生が携帯電話を持つようになった最初の世代」だ。ぼくの中学生時代は、大人も含めて携帯電話を持っている人はほとんどいなかった。高校一年生のとき、ポケベルを持っている生徒は半数よりやや少ないぐらい、PHS(携帯電話の簡易版みたいなやつ)を持っている生徒はクラスにひとりいたかどうか。
 だが高校一年生のときは「携帯電話を持っているのはクラスにひとりいるかどうか」だったのが、大学一年生では逆に「携帯電話を持っていないのはクラスにひとりいるかどうか」に変わっていた。その三年間で急速に社会が「携帯電話を持つ世の中」へと移行したのだ。


 そういう時代を生きてきたので「携帯電話のなかった時代」も知っているわけだが、小田嶋氏のこの文章には賛同できない。

 携帯電話によるコミュニケーションが一般的でなかった時代(つまりぼくの中高生時代)でも、やはり単独行よりも複数人で行動してるやつのほうが〝上〟という雰囲気はあった。
 まあそれは当人のキャラクターによるところも大きく、たとえばユーモアセンスがあったり運動神経がよかったりして周囲から一目置かれているようなやつの「ぼっち」は〝孤高〟という感じがして、何をやっても人より劣るやつの「ぼっち」は見下されていたわけだけど。
 それでも始終ひとりでいるよりも友だちに囲まれてるほうがいいよね、という感覚はほとんどの人が共通して持っていた。そこは古今東西いっしょだとおもう。


 だから携帯電話やSNSの普及と「ぼっち」の扱いの変化はあまり関係ないんじゃないか、というのがぼくの意見だ。

 むしろ今のほうが「ぼっち」が〝全面的な孤立ないしは村八分の恥辱〟と受け取られにくくなったんじゃないかな。
 だって今はキャンパスでひとりで歩いてる人が、数万人のチャンネル登録数を抱えるYouTuberだったり、世界中の人から注目されるインフルエンサーだったりする可能性があるわけでしょ。
「あいつはひとりで行動してるからさみしいやつだな」ってのはむしろ古い時代の価値観なんじゃないだろうか。まあ今の若い人の価値観なんて知らんけど。




 友だちとはガキのものだと小田嶋氏は喝破する。

 飯干晃一の言う「男の理念型」という言葉もほとんど同じ内容を指している。すなわち、「力」を崇拝し、「徒党」を好み、「身内」と「敵」を過剰に峻別し、「縄張り」に敏感な「ガキ」の「仲間意識」から一生涯外に出ない人間たちを、飯干は「男」および「ヤクザ」と呼んだわけで、別の言葉で言えば、男であることと、子どもであることと、ヤクザであることは、三位一体の鼎足を為す形で、完全に一致している。
 それゆえ、われわれは、子どもっぽく振る舞うか、悪ぶるかしないと「友情の芝居」を貫徹することができない。自然な、ありのままの大人の男であることと、誰かの友だちであることを両立させるのは、やってみるとわかるがひどくむずかしいものなのだ。なんと皮肉ななりゆきではないか。

 なるほど。言われてみれば、「男の友情」と「大人の付き合い」とは相反するものだ。
 ぼくも古くからの友人と話すことがあるが、話すことといえばウンコチンチンみたいな低レベルの話だ。仕事の悩みとか親の介護の話だとかを旧友に話す気にはならない。それは、中年になった今でも友人との関係が「ガキの仲間」であるからだ。

 そして「ワル」と「ガキ」が非常に近い存在であることも、まったくもってその通りだ。
 なわばりを張るとか、力で脅すとか、実利よりも面子を重視するとか、任侠の世界とガキの世界はよく似ている。
 そういや小学生のときは「この公園はうちの学校の校区なのに○○小のやつらが来てるぞ」みたいなことを気にしてたなあ。そうか、ヤクザのやっていることってあれの延長だったのか。


 仕事で知り合った人や娘の友人のお父さんと仲良くすることもある。酒を飲んだり、(子どもを含めてだけど)いっしょに遊んだりもする。
 でもその人たちのことを「友だち」とは呼べない。「親しい人」だ。なぜなら大人の付き合いだから。個人的には「忌憚なく悪口を言い合える関係」こそが友だちなのだが、仕事や子どもを媒介にして知り合った人とはそれはできない。親しくなることはできても友だちにはなれない。




 小田嶋氏は元アルコール依存症患者である。このままだと確実に死ぬと宣告されて完全に足を洗ったそうだが。

 酒をやめたのを機に、飲み友だちとの縁も完全に切れたのだという。

 ある年齢に達した男たちが、アルコール依存というわけでもないのに、どうしても酒場に通わずにおれないのは、たぶん、友だちがいないからだ。
「友だちだから飲むんじゃないのか?」
 違う。酒なら誰とだって飲める。たとえば、犬が相手でも、酒ならなんとか飲める。かなり嫌いな奴でも、酒を飲みながらだったら話ができる。ところがブツがコーヒーになるとそうはいかない。話の噛み合わない奴が相手だと、3分ともたない。
 というわけで、結論。
 コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。
 ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。
 たぶん、生前葬の列席者みたいなものだ。

 そうか。仲がいいから飲むのではなく、仲がよくないから飲むのか。
 そうだよな。大学の飲み会にしても職場の飲み会にしても、そこまで気心の知れない相手とめちゃくちゃ盛りあがることはある。それは酒があるから。
 酒は人間関係の潤滑油とはよくいったもので、潤滑油がないとギスギスする関係だからこそ潤滑油がいるのだ。元々スムーズにまわるのであれば潤滑油はいらない。

 ぼくはいっときは毎週のように誰かと酒を飲んでいたが、今ではほとんど飲まない。月に一度ぐらいになり、コロナ以後は三ヶ月に一度になった。
 なぜなら「無理して付きあわないといけない関係」をどんどん断ち切ってきたから。コロナのおかげもあるけど。
 家族とか旧い友人とかと話すときは酒はいらない。無理してテンションを上げる必要がないからだ。

 コロナ禍によって飲酒量が減った人は多いとおもう。
 それは単に感染拡大の場である飲み会が減ったからだけではなく、「緊張を強いられる相手と長時間過ごす場」が減ったからだろう。

 小田嶋さんは「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ」と書いているが、ぼくの定義では「同じ空間にいて5分沈黙が続いても平気な相手を友だちと呼ぶ」だ。


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