冗談みたいな漫画喫茶があった。
大学四回生のときだ。ひとり暮らしをしていたマンションの近くに漫画喫茶ができた。チェーン店ではなく、個人経営の漫画喫茶。おばちゃんふたりぐらいでやっていた。漫画は何百冊かはあったが品揃えはあまりよくなかった。
冗談みたいというのは、利用料金の安さだ。
なんと何時間いても780円。24時間営業ではなかったが、朝から晩までいても780円。
そしてドリンク飲み放題。
さらに驚くことに。なんと食べ物も食べ放題だったのだ。
置いてあったのは手作りのカレーとかチャーハンとか。たぶんおばちゃんが作ったのだろう。大鍋にどんと作って置いてあった。
はじめて友だちと行ったときのことをおぼえている。
え? 何時間いても780円? ドリンク飲み放題? えっ、ご飯も食べられるの? しかも冷凍のやつじゃなくて手作りの料理じゃん。ほんとに780円? だってこんなの一食食べるだけで元取れるじゃん。お代わりしたらもう黒字じゃん。だまされてない?
だがだまされてはいなかった。何時間か滞在して、漫画を読んで、飯を食ったけど、請求されたのは780円だけだった。さらにおばちゃんは笑顔で「また来てね」と言いながら次回半額券をくれた。
こんなに安いのにまだ値引くの!? いったい何が目的なんだ!?
数日後、また行った。
なにしろこちらは金のない貧乏大学生だ。たらふく食えば自炊するより安いぐらいだ。そのときもやはり780円。カレーを三杯ぐらい食ったのに。
だがぼくがその漫画喫茶に行ったのはその二回だけ。
卒論を書いていて忙しかったのもあるし、なにより安すぎてなんだか申し訳なかったから。
ぼくが行けば行くほどあの気のいいおばちゃんたちは苦しむんじゃないだろうか。こちらが得をするということは向こうは損をするということだろう。べつにこっちが心配する必要はないのだが、あまりに常軌を逸した価格設定に心配になったのだ。
もしかしたら漫画喫茶というのは表の顔で、ヤバい商売でもやってるんじゃないだろうか。
おばちゃんに「ゴルゴの79巻さがしてるんだけど」と秘密の合言葉をいえばこっそり奥の部屋に通されてそこは札束が飛びかう裏カジノルームになっているとか……。
いやいや。もしそうだとしたら、余計に漫画喫茶の価格設定はふつうにしたほうがいい。手作りカレーなんか出して目立たせないほうがいい。
はっ、まさか。あのカレーに依存性のある香辛料でも入っているのか。
そして中毒者がさらなる強烈なスパイスを求めたとたんに「これ以上はグラム5万だ」と言われるとか……。
だがぼくの心配は杞憂に終わった。
漫画喫茶はほどなくしてつぶれたのだ。二ヶ月ぐらいの命だった。
あの漫画喫茶はほんとうにあったのだろうか。もしかして狐にでもだまされていたのだろうか。
だがいっしょに行った友人も〝冗談みたいに安い漫画喫茶〟のことをはっきりおぼえていた。現実にあったことなのだ。
なんのことはない、「あまりに商才のないおばちゃんたちによる道楽経営」だったのだろう。
ああよかった。それにしてもほんと冗談みたいな漫画喫茶だったなあ。
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