いまだ、おしまいの地
こだま
こだまさんの第二エッセイ集。
前作『ここは、おしまいの地』は達観や悟りのようなものが随所に感じられた。
どんな逆境におかれても、立ち向かうでもなく、くじけるでもなく、ただ黙って受け入れてゆく。苦境に置かれた自分を、他人事のように笑い飛ばしてしまう。
そんな柳のような強さを感じたものだ。
ところが、今作『いまだ、おしまいの地』を読んで心配になった。
〝おしまいの地〟での不遇な生活をどこか他人事のように楽しんでいたような乾いたユーモアが今作ではあまり感じられない。
まるで必死に「自分は大丈夫」と自らに言い聞かせているようだ。
その姿は、達観とはほど遠い。
仏教には「執着(しゅうじゃく)」という言葉がある。
物事にとらわれ、心がそこから離れられない状態。執着はすべての苦しみの原因とされる。
『ここは、おしまいの地』では執着から解き放たれているかのように見えるこだまさんが、『いまだ、おしまいの地』では執着にふりまわされている。
小説やエッセイが評価されて他者から期待されるようになったことで、一度は手放した執着をまた取り戻したのかもしれない。
なんだかずいぶん思い詰めているようあ……。
大丈夫か、このままだとどこかで破綻するんじゃないか、この人近いうちに失踪するんじゃないか……。
と心配しながら読んでいたのだが、2020年に入って世間がコロナ禍で騒ぎだしたあたりのエッセイから急におもしろくなった。
活き活きとしているのが伝わってくる。
そうか、この人はいろんなものを手にして期待をかけられているときより、失ったときにこそ光り輝く人なのだ。
自粛期間でいろんなものを失ったことで、かえって強くなったのかもしれない。
どうか今後も失ったものを笑いとばしてほしい、と無責任におもう。
こだまさんの失踪記も読んでみたいけどな……。
(あと諸々の事情でむずかしいのかもしれないけど、けんちゃんの話をまとめて読みたい)
やはり印象的なのは、詐欺に遭った顛末。
SNSで知り合ったメルヘン氏(仮名)にだましとられた数十万円を取り戻すべく、メルヘン氏の実家に乗りこむシーン。
大金をだましとられた被害者なのに、加害者やその家族の心境をおもいやり、自らの行動を責める。
まちがいなく善人の行動なんだけど、たいへん残念なことにこの世は善人が生きやすいようにはできていない。
少し前に、こんな光景を見た。
雨の中ホームレスのおじさんが自販機のゴミ箱から空き缶取りだしてて、そこに通りかかった小学三年生ぐらいの女の子がおじさんに自分の傘をさしかけてあげてた。
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) September 7, 2020
君はそんなに心優しくて大丈夫か、このせちがらい世の中を無事に泳いでいけるのかと不安になる。
自分の心が汚すぎるからなのか。
雨に打たれているホームレスのおっちゃんに傘をさしかけてあげる子。
おじさんもさしかけられた傘に気づいて
「えっ、あっ、ありがとう。でもええよ。大丈夫やから。やさしいな」
と驚いていた。
なんて心優しい子なんだろう。
道徳的には大正解だ。
でも。
世渡り的には不正解だ。たぶん。
もし自分の娘が同じことをやっていたら
「君がやったことはすばらしい。その優しい心はずっと持ちつづけてほしい。でもそれはそれとして、知らないおじさんに近づいて万が一あぶない目にあったらいけないから、今後はやめてほしい。あのおじさんを救うのは政治や行政の仕事だから」
と言ってしまうとおもう。
我ながら小ずるいオトナだなあとおもうけど。
小ずるい人間のほうがうまくやっていけて、ホームレスや詐欺の加害者に心から同情してしまう優しい人のほうが生きづらい。
まったく嫌な世の中だ。
そんな世の中にしている原因の一端はぼくのようなオトナにあるんだけど。
しかし詐欺をやる人って、ちゃんとだまされやすい人を選んでるんだなあ。
かんたんにだまされてくれる人、だまされたと気づいても「自分にも落ち度はあった」と感じてくれる人を狙ってるんだな。
「詐欺をするようなやつは家族親戚もろとも地獄の底まで追いかけてケツの毛までむしってやる」と考えてるぼくのような人間のところには来てくれないんだもん。
さすがはプロの仕事だ、と変なところで感心してしまった。
なつかしい、ネット大喜利のこと。
ぼくも同時期にネット大喜利にはまっていた。
こだまさんがブログで開催した大喜利に参加したこともある。
こだまさんが、ぼくが主催した大喜利イベントに参加してくれたこともある。
当時ぼくは大喜利を「趣味」だとおもっていたが、今にしておもうと「逃避場所」だった。
就活がうまくいかず、やっと就職したものの一ヶ月でやめ、実家で一年引きこもり、フリーターになって先の見えない暮らしをしていた。
ぼくがネット大喜利にはまっていたのはそういう時期だった。
夜遅くまでチャットをしたり、肌身離さずメモ帳を持ち歩いて大喜利の回答を考えたり、夢の中で回答をおもいついたときは飛び起きてメモをとったり(翌朝見るとぜんぜんおもしろくないんだこれが)、ときには大喜利のことで他の人と喧嘩をしたりもした。
人生の関心事の八割ぐらいを一円にもならないネット大喜利に捧げていたのだから、今おもうと狂っている。
でも当時は自分が異常だとはおもわなかった。なぜなら、同じように大喜利ばかりやっている人が他にもたくさんいたから。
もしかしたらあの人たちも狂っていたのかもしれない(まっとうな生活を送りながらたしなんでいた人もいっぱいいたとおもうが)。
こだまさんの追想を読んで、ああネット大喜利に居場所を求めていたのはぼくだけじゃなかったんだとちょっと安心した。
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