2021年3月17日水曜日

【読書感想文】運動に巻きこまないでくれ / 大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』

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1984 フクシマに生まれて

大野 更紗 開沼 博

内容(e-honより)
難病体験を綴ったエッセイ『困ってるひと』が大好評を博した大野更紗。福島の原発を通して、中央と地方の関係に切り込んだ『「フクシマ」論』が高く評価された開沼博。同じ1984年に福島で生まれた注目の若手論客二人が、「3.11」「原発」「難病」「オウム」などを切り口に、六人の職者と語り合う!


 共に1984年生まれで福島県出身の社会学者二人による対談、およびゲストを招いての鼎談。


 おもしろい話題もあったけど、全体としてぼくは「とっつきづらさ」を感じた。
 このとっつきづらさはどこから来るのだろうと考えたんだけど、「社会学者の言葉」を使って語りあってるからなんだとおもう。特に開沼氏。
「周縁的な存在」とか「硬直化した既存の知の枠組み」とか。
 べつにわざわざ小難しい言葉を使おうとしているわけじゃなくて、社会学者同士のやりとりの中ではふつうに使ってる言語なんだろうけどさ。
 でもそれってギョーカイ用語とかギャル語と同じで、部外者に語りかけるための言葉じゃないんだよね。多くの人に手にとってもらう文庫に載せるのにふさわしい言葉じゃない。

 だからこの本全体に漂うのは「多くの人に語りかける」ではなく、「おれたちの話をおまえらにも聞かせてやる」というトーン。本人が意図してるかどうかは知らないけどさ。


 鼎談のパートは「社会学の外の人」としゃべってるからちゃんと共通語でしゃべってるんだけど、それ以外の文章はまったくなじみのない方言を聞かされているようで、読んでいる側としてはすごく居心地が悪かった。




 鼎談では、日本ALS協会理事である川口有美子氏を招いての『難病でも生きてていいんだ!』と、ドキュメンタリー映画監督である森達也氏の『この国の人たちは、もっと自分に絶望したほうがいい』がおもしろかった。

 川口有美子氏の話。

 ALSは自分で予後を選べる病気と言われています。生きるか死ぬか決めなければならない時、インフォームド・コンセント(患者が治療法などを医師からきちんと説明されたうえで同意すること)が必要になります。そこで、「呼吸器をつければ二十年生きられる。つけなかったら死ぬ。二十年自力では何もできないけれど生きるか、それが嫌だったら死ぬか、どちらを選びますか? ただ二十年生きるほうを選んだら、家族は二十四時間在宅介護をしなければならず、子どもは介護に縛られ結婚も就職もできません。その他にもこれだけ家族に迷惑をかけます」という話をされます。これでも医師の中立的な説明とされる。でも、こんなんじゃ、呼吸器をつけたいとはなかなか言えませんよ。どうやれば生きていけるかという説明ができる医師は少ない。残念なことに。

 ぼくは尊厳死賛成派だったけど、これを読んで考え方が変わった。
 たしかに「家族に迷惑をかけながら二十年生きますか?」と言われたら「それでも生きます」とは言いづらいだろう。でも、その選択が正しかったかどうかは、生きてみないとわからないんだよなあ。


 ある日突然目が見えなくなったら絶望するだろう。どうやって生きていけばいいんだろうと途方に暮れる。今までの生活をすべて手放す必要があるのだから。その段階で「尊厳死しますか?」とささやかれたら、うなずいてしまう人も多いだろう。

 でも、世の中には目の見えない人がいっぱいいるわけで、その人たちが日々絶望しながら生きているかというと、そんなことはない。目が見えなくたって仕事も娯楽も生きがいもたくさんある。

 絶望を感じるとしたら、それは「目が見えないことに対する絶望」ではなく「これまで手にしていたものを失う絶望」で、ない状態に慣れてしまえばなんとかやっていける。たぶん。
 四十年間ひとつの会社で正社員として働いていた人がある日派遣社員になったらすごく不安だろうけど、ずっと無職だった人が派遣社員になるのは好転だ。
 怖いのは「(ないという)状態」ではなく「(失う)という変化」なのだ。

 だから「だんだん身体が動かなくなって自力で呼吸することもできなくなります」って言われたらめちゃくちゃ怖い。すでにALSになっている人には失礼だけど、そんな状態になっても生きている意味ってなんなの? とぼくはおもってしまう。

 だけど、失ってしまえば意外と平気なのかもしれない。だいたい五体満足なら生きていることに明確な意味があるのかというと、そんなこともないしね。

 よくよく考えてみれば、ぼくらは生まれたときから「余命百年の不治の病」に冒されている。難病や余命わずかだから生きる価値がないのなら、そもそも全人類が生きる価値がないことになる。

 難病を抱えた生活をよくわからないからこわいんだろうね。身近に難病の人がいて、病気になってもそこそこ楽しくやっているということを見知っていたら、自分が病気になったときもだいぶ恐怖がやわらぐかもしれない。

 自分が尊厳死すべきかどうか、適切な判断を下せる人なんていないよね。きっと。
 自分は理性的な存在だとおもってるけど、理性なんてかんたんに揺らぐものだから。




 森達也氏の話。

 ただ、僕はドキュメンタリーの大切な役目の一つに、人とは少し違う視点を提供することがあると思っています。そういう意味では、3・11直後のみんなが被災者に寄りそうという流れの中で、あえて違うところから被災地の現状を見てみようという思いはあったかもしれません。ただし視点を提供しようというモチベーションよりも、自分が見たいとの思いのほうが強い。とことんエゴイスティックです。社会のためなど口が裂けても言えない。

 森達也氏の映画を観たことがないのだけれど、「オウム真理教信者がごくふつうの生活を送っているところ」「震災の被災地に行って被災した人に怒られるところ」など、ニュース映像ではまず見られないシーンを収めているんだそうだ。

 たしかに、オウム報道も震災報道も一色に染まったもんな。
「オウムは悪いことをする、我々とはまったくべつの常識を持ったやつら」
「今こそ日本がひとつに。助け合おう」
みたいなトーンに染まって、それ以外の意見はまったく許されない空気になった。

 そこで「いやオウムの信者だって大半はただ救いを求めただけの善良な市民ですよ」とか「チリやインドネシアで地震が起きたってみんなすぐ忘れるんだから、東北の地震だって忘れてもいいよね。俺には関係ないし」なんて口にしようものなら袋叩きにされる〝空気〟が支配していた。

 最近だと、新型コロナウイルスによる第一回の緊急事態宣言のときもそうだった。
「自粛しましょう。出歩くやつは私刑!」
みたいな空気に染まった。まったく科学的根拠のない意見が幅を利かせて、「ほんとにそれ効果あるの?」「スーパーとかまで閉める必要ある?」なんてことは大声で言えない雰囲気だった。ぼくもそれにまんまと乗っかっていたからえらそうなことはいえないんだけど。

 そういうときに、「オウム信者も我々と同じようにふつうに飯食って寝てるんだよ」「被災者だって辛抱強く耐え忍んでるだけじゃなくてイライラしたり愚痴を吐いたり利己的な行動をとったりするんだよ」と映像を通して伝える森達也氏のような人は貴重だ(くりかえし書くが映像は観たことない)。

 山本七平『「空気」の研究』には〝空気〟を打ち破るために「水を差す」ことの重要性が説かれていた。

 国中が一色に染まっているときってたいてい悪いことが進行中だからね。東日本大震災の復興ムードだってまんまと増税に利用されたし。




 冒頭に「とっつきづらさ」を感じたと書いたけど、最後まで読んでどっと疲れた。
 この疲れはあれだ、就活のときに味わったやつだ。
 キラキラしたビジョンに向かってまっすぐ走る行動的な人たちのお話ばっかり聞かされたときに感じる疲れだ。

 この本に出てくる人はみんな社会に対して問題意識を持っていて、活動的で、それ自体はたいへんけっこうなんだけど、
「さあみんないっしょに走ろうよ!」
という感じがたいへん煙ったい。

「どうやって私たちの運動に多くの人を巻きこむか」ってしゃべってるんだけど、世の中には巻きこまれたくない人がいるんだよ。「みんなを巻きこまなきゃ!」という考えこそが周囲を遠ざけている、なんてこういう人たちにとっては想像の埒外なんだろうね。きっと。


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