「親が本好きなら子どもも本好きになるというのはウソ。ソースは私。うちは両親とも本好きで家に大量の本があったが、私はまったく読まないまま成長した」
という内容のツイートを見た。そしてそれがそこそこ広まっていた。
「親が本好きなら子どもも本好きになる。ひとりの例外もない」なら、たしかにウソだろう。
だが、「親が本好きなら子どもも本好きになる傾向がある」なら数件の反例をもって否定することはできない。
世の中には「AすればBになる!」といった記事やテレビ番組があふれている。
その意味はたいてい「AすればBになることが多い」である。
特に医療や教育に関しては「Aすれば100%Bになる」なんてほぼありえない。ありえるとしたら「青酸カリを大量に摂取すると100%人は死ぬ」とか「毎日20時間ゲームをしている子は100%東大に合格できない」とかの極端な話だけだ。
でも「AすればBになる可能性が少し上がる」だと見出しにキャッチーさがないから、あえて言い切る。ほとんどの人は「こういう説もあるのね」と適当に聞き流す。
ところが、冒頭のツイートをした人は「AすればBになる!」を文字通りの意味で受け取ってしまったようだ。
だから「親が読書好きなら子どもも読書好きになる」という記事だか番組だかを見て、「私はそうじゃなかった。例外がひとつでもあるからAならばBとは言えない!」と考えてしまった。
この考えは、論理学的には正しい。「AならばB」は、たったひとつの反例「AなのにBでない」を挙げれば覆せる。
ただ、この人は修辞技法というものを理解していない。
人に物事を伝えるためには、ときに正確さを犠牲にする必要がある。
たとえば隠喩。「その夜のぼくらは迷子の子犬だった」
たとえば擬人法。「夜の闇が彼の姿を包んだ」
たとえば誇張法。「死んでも君を離さない」
どれも正しくない。でも伝わる。「じっさいにはあと数分したら君を離してしまうけれど今はいつまでも君を離したくないという気持ちを持っている」というよりも「死んでも君を離さない」のほうが簡潔に、切実に、伝わる。
我々が一般に使う表現は、論理学的な正しさとはまた別のところにあるのだ。
だから「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」という記事を見ても、たいていの人は「たったひとつの例外もないんだな。親が読書好きなのに本好きにならなかった子どもは世界中にひとりもいないんだな」とはおもわない。
「親が本を読んでいる姿を自然に見せることで子どもが本好きになる確率が有意に上がるんだろうな。もちろんいくばくかの例外はあるだろうけど」と受け取る。
修辞技法の使い方、受け取り方は学校ではあまり教わらない。様々な文学表現に触れるうちに、自然と身につけるものだ。
だから、冒頭のツイートをした人が「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」を文字通りの意味にしか解釈できなかったのはある意味しかたのないことかもしれない。なにしろ彼は本をまったく本を読まないそうなのだから。
結局、何が言いたいかというと、やっぱり読書って大事なんだなあってこと。本を読まないと修辞技法を理解できない!(反証は受けつけません)
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