幻の甲子園
昭和十七年の夏 戦時下の球児たち
早坂 隆
高校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)が昭和十六~二十年の間は「戦争のため中止」となっていたことは有名な話だ。
だが、昭和十七年に朝日新聞社主催ではなく、文部省主催で甲子園で野球の大会がおこなわれたことはあまり知られていない。ぼくはいっとき高校野球の本や雑誌を買い集めていた高校野球フリークだったが、昭和十七年大会のことは知らなかった。高校野球選手権大会ではないため、公式の記録には残っていないのだ。
昭和十六年大会は戦火拡大のため中止(選抜大会は開催)。翌十七年大会も中止となるかとおもわれたが、「大日本学徒体育振興大会」という名前の大会がおこなわれることになり、その中の一種目として甲子園球場で野球大会が開催されることになったのだ。
戦時下、さらには国の主催ということでそれまでの選手権大会とは異なる部分もあったという。
戦時中ならではのルールだ。死力を尽くして戦え。
この交代禁止ルールのせいで、二回戦の仙台一中ー広島商では両チームあわせて四十四の四死球、十対二十八というひどい試合になっている。気の毒に。投げている方も、守っている方も、観ている方もうんざりだっただろう。誰も得しない。
さらに準決勝の第二試合が雨天中止になったせいで(死力尽くさないとあかんのに雨降ったら試合やめるんかい)、翌日の午前中に準決勝の再試合、勝ったチームがその日の午後に決勝戦というむちゃくちゃな日程になっている。片方だけダブルヘッダー、しかもそのチームのエースは肩を負傷したまま投げている。
こんな無謀なことやってるんだもん、そりゃ戦争にも負けるわ。
また、ユニフォームの英語表記なども禁止されたという。
ちなみに、「戦時中は『ストライク』は『よし』、『ボール』は『だめ』と言いかえた」という話が教科書にも載っているのでよく知られているが、あれは職業野球(プロ野球)の話で、この昭和十七年大会ではふつうにストライク、ボールといった言葉を使っていたそうだ。
戦争中なので、当然ながら選手たちもその周囲の人たちも野球に専念できたわけではない。
このため福岡工業は、大会本番では監督不在で戦うことになったそうだ。容赦ない。
また、甲子園球場に来ていた観客が場内放送で徴兵されたことを告げられ、周囲の観客が拍手で見送るシーンがあったこともこの本で書かれている。
高校野球ファンなら、戦前の甲子園には満州や朝鮮や台湾からも代表校が参加していたことを知っているだろう。
幻の十七年大会にも台湾代表が出場していた。台湾代表・台北工。 彼らは台湾大会を勝ち抜いたが、甲子園大会に出場するかどうか、つまり本土に行くかどうかでひと悶着あったという。
大げさでもなんでもなく、まさに命がけの参加だ。
しかし、「死んでも本望だ」という言葉にはむなしさを感じてしまう。もちろん選手たちは本心からそうおもっていたのだろう。死ぬ危険があっても甲子園に行きたい、と。
2020年の選手権大会もコロナ禍のため中止になったが、あのときの選手だってほぼ全員が「感染したとしてもやりたい」とおもっただろう。
部外者からすると「命のほうが大事だろ」とおもうけど、十代の若者からしたら「全人生を投げうってでも出場したい」なんだろう。どちらが正しいとはいえない。
ただ、「甲子園に出られるなら死んでも本望だ」も、「特攻隊で命を捨てる」も、その気持ちはほとんど変わらないようにおもう。
若者が「死んでも本望だ」という気持ちを持つのはしかたないが、やっぱり全力で止めるのが周囲の大人の責務じゃないかとおもう。どれだけ恨まれても。
この本には「親の承諾書」の提出を拒んだ父親がひとりだけいたことが書かれているが、その父親こそほんとに思慮深くて勇気のある人だとおもう(まあその人も周囲に説得されて結局承諾書にサインしてしまうんだけど)。
この本には「幻の甲子園」の後の選手たちの人生も書かれている。その後の運命はばらばらだ。出征して命を落とした人、シベリア抑留された人、無事に生還してプロ野球選手になった人。出征したおかげで命を落とした人もいれば、出征したおかげで被爆を免れた広島商の選手も出てくる。
彼らの命運を分けたのは、才能でも努力でも意志でもない。運、それだけだ。誕生日が数日遅かった、徴兵検査のときに野球ファンだった人が便宜を図ってくれた。そんな些細なことで命を救われている。
まさに死と隣り合わせ。そんな時代だったにもかかわらず、いや、そんな時代だったからこそ、人々は野球に打ちこんでいた。いつ死ぬかわからない。死を回避する方法などない。そういう時代にこそ娯楽は必要なのだろう。選手だけでなく観客にとっても。
戦争と比べられるようなものではないが、コロナ禍の今の状況も当時と似ている部分がある。誰が感染するかわからない、もはや努力だけでは防ぎきれない、感染対策を理由に様々な娯楽イベントが中止になっている。
子どもたちを観ていると、気の毒になあとおもう。
うちの長女は小学校に入ったときからコロナ禍だったので、各種イベントは中止または縮小があたりまえ。友人宅との行き来もない。こないだ、『ちびまる子ちゃん』の家庭訪問のエピソードを観て「家庭訪問なんかあるんや」とつぶやいていた。存在すら知らないのだ。
知らなければまだいいが、中高生や大学生はかわいそうだ。数々の楽しいイベントが中止。
学校は勉強をする場だが、勉強だけする場ではない。命を守るのは重要だが、それと同じくらい楽しいことも大事だとおもう。
今は「学生は我慢を強いられるのもしかたない、経済活動はストップさせるな」になっているが、本当は逆にすべきじゃないかね。「命の危険があっても遊びたい」人はいっぱいいても、「命の危険があっても仕事をしたい」人はそんなに多くないんだから。
いい本だったけど、個人的にいらないとおもったのは試合展開の詳細。
選手交代ができないせいでこんなプレーが生まれた、みたいな「戦時中の大会ならでは」のエピソードはおもしろいんだけど、何回にどっちの高校が送りバントで二塁までランナーを進めるも無得点に終わった、なんていう八十年前の野球の試合の内容はどうでもいいです。試合内容自体は戦時中だろうと平和な時代だろうとあんまり変わらないからね。
「戦時中におこなわれた幻の甲子園の舞台裏」というコンセプトはすごくおもしろかったし、丁寧な取材をしていることも伝わってくるんだけどね。
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