女たちは二度遊ぶ
吉田 修一
なぜかは自分でもよくわからないのだが、吉田修一さんの小説はすごく心地がいい。
決して「いい話」じゃない。
『元職員』も『怒り』も『パレード』も『悪人』も、登場人物の大半は悪いやつ、ずるいやつ、怠け者のやつだった(『横道世之介』は例外)。
読んでてぜんぜんスカッとしないんだよ。むしろ逆で、じわっと嫌な気持ちになる。善人が理不尽に不幸な目に遭って、悪人がこそこそ逃げまわるようなストーリーが多い。
なんか湿度が高いというか。不快指数の高い小説なんだよね。
でも、蒸し風呂に病みつきになってしまうように、吉田修一作品もなぜだか無性に読みたくなる。読んでいる間はじわっと嫌な気持ちになって、だから読みおわったときには一種の爽快感がある。はあ、やっとこの不快感から抜けだせた!
吉田修一作品の「嫌な感じ」がぼくにはちょうどいい。
出てくる人間が「こんな極悪非道なやつ許せない!」というほどじゃなくて、「どうしようもないクズだけどこいつの気持ちもちょっとわかってしまうな。ぼくも置かれた状況によってはこういうことしちゃうだろうな」っていうレベルの悪人なんだよね。
『女たちは二度遊ぶ』は短篇集だが、やはりダメな男ばかり出てくる(タイトルに『女たちは』とあるが基本的には男の話だ)。
飲み屋で泥酔した女をホテルに連れていく男、だらだらと借金を重ねてしまう男、彼女が妊娠したときに堕胎してほしいと直接言えずに男友だちに代弁してもらう男……。
十一の小説が収録されていて十一人の男が出てくるが、ほとんどがダメ男だ。定職についていない男や大学に行かない大学生ばかりだ。
そして出てくる女たちは、彼らにとって「そんなに大事じゃない女」だ。
一応言っておくと、ぼくはそこそこ真面目に生きてきた。大学も四年で卒業したし、仕事を無断欠勤したこともないし、退職するときは一ヶ月以上前に伝えたし、行きずりの女と寝たこともないし、それどころかナンパをしたこともない。
だから「無断欠勤をくりかえす男」や「女をひっかけてヤリ捨てる男」の話を読むと、軽蔑すると同時に一抹のうらやましさも感じる。ぼくができないことをやっているから。
一応まじめに生きてきたとはいえ、嘘をついてバイトを辞めたり、不実な態度で女性を傷つけたりしたことがある。だから「そっち側」の男の気持ちもよくわかる。ちょっと環境が違えば自分も「そっち側」で生きていたとおもう。
特に印象に残ったのは『泣かない女』。
ここに出てくる男はなかなかのクズ野郎だ。彼女を妊娠させてしまった男友だちの代わりに彼女に「中絶してほしい」と電話し、自分が彼女を妊娠させたときはやはり男友だちに代弁を頼む。
責任感ゼロ。男のぼくから見ても最低のやつだとおもう。さすがのぼくでも、もし同じ境遇に立たされたらちゃんと頭を下げるぐらいのことはする。
でも、ここまでのクズではなくても、たいていの男は「まあなんとかなるっしょ」ぐらいの気持ちでセックスしちゃってるんだよね。というかなんも考えてない。性欲で頭いっぱいで、一ヶ月先、一年先のことなんかまったく考えてない。
みんなクズなんだよね。
「誰の心の中にもあるクズの部分」を書くのが、吉田修一さんはほんとにうまい。
ところでこの『泣かない女』に出てくる「赤ちゃんをパチンコ屋の駐車場に置き去りにしたせいで死なせてしまった母親が、少し後にとった行動」のエピソード、めちゃくちゃ怖い。
なんだろう。まったく理解不能な行動なのに、フィクションとはおもえないリアリティがあるんだよな。
これ実話に基づいた話じゃないよね? 実話でないことを願うが……。
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