2020年9月11日金曜日

【読書感想文】我々は「死者」になる / 『100分de名著 ナショナリズム』

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ナショナリズム

100分de名著

大澤 真幸 島田 雅彦 中島 岳志 ヤマザキ マリ

内容(NHK出版ホームページより)
かつて「21世紀には滅んでいる」といわれたナショナリズム。ところが世界はいまも、自国ファーストや排外主義にまみれている--。今年の元旦に放送され、話題となった特別番組「100分deナショナリズム」。4人の論客がナショナリズムを読み解くための入り口となる名著を持ち寄って議論した。大澤真幸氏が『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)を、中島岳志氏が『昭和維新試論』(橋川文三)を、島田雅彦氏が『君主論』(マキャベリ)を、ヤマザキマリ氏が『方舟さくら丸』(安部公房)を。

啓蒙書や文学作品から「ナショナリズム」について考える、という企画。

中島岳志氏やヤマザキマリ氏の作品は好きなので期待していたのだが、あまりナショナリズムに真正面から向き合ってる論調ではなかったな……とじゃっかん裏切られた気持ち。

おかげで安部公房には詳しくなったが。
『100分de名著 安部公房』ならこれでよかったんだけど。



大澤真幸氏が読み解く『想像の共同体』はおもしろかった。

じつは大澤真幸さん、ぼくの大学時代の学部の先生だったんだよね。
でもぼくは大澤先生の授業をとってなかった。とっときゃよかったなあ。

逆に、ヨーロッパのいずれかの国に植民地化され、まとまった行政単位として扱われたという事実が、結果的に、植民地の人々に「我々○○人」という意識を植え付ける結果となった、と考えるほかありません。
 その極端な典型は、アンダーソンが専門的に研究していたインドネシアです。インドネシアは、三千もの島々から成り、そこにはムスリムもいれば、仏教徒やヒンドゥー教徒等々もいて宗教的にも多様で、さらに百以上もの言語が話されていた地域です。こんなに多様で分散していた人々の間には、もともと「我々インドネシア人」などというアイデンティティはありませんでした。彼らが「インドネシア人」になったのは、オランダに植民地化され、まとまった扱いを受けたから、という以外に原因は考えられません。特に目立った事実は、ニューギニアの西半分だけが、インドネシアに属しているということです。しかも国境線は、南北に直線になっている。どうしてこんな不自然なことになったかというと、それは、かつてオランダ王がニューギニアのこの地域までの「主権」を主張した、ということに由来しています。すると、現地の人々までも、そこまでが「我々」に運命的に所属していた、と思うようになるのです。

国ができるのは外国の存在があったから、外部の存在がなければ国としてまとまることはない。

たしかにインドネシアって、「ぜったい自然にこんな形になるはずがない」って形の国土だもんね。

複数の島にまたがってるくせに、ニューギニア島だけはまっぷたつ。
こんな形で、住民に国家意識が芽生えるはずがない。


インドネシアはわかりやすい例だけど、他の国もいっしょ。

日本だって、欧米の列強の脅威があったからむりやり国としてまとまっただけ。
「数百年前の日本では……」なんて言い方をするけど、人々が「我々は日本人である」という意識を持ちだしたのなんてせいぜい明治以降のはず。

日本の伝統だの日本古来だのいってるけど、日本は百五十年ぐらいの歴史しかないのだ。




大澤氏は、日本のナショナリズムは大きな弱点を抱えていると主張する。

それは戦後の日本人は「我々の死者」を持たないからだという。

 これは、無名の殉死者、つまり匿名のままに葬られた死者に敬意が払われることは近代以前にはまったく考えられなかったことで、ナショナリズムが近代的な現象であることをよく示している、ということを論じた箇所です。アンダーソンがいおうとしていた中心的な論点からは少しずれますが、ここからひとつのことがわかります。ナショナリズムは、国民という共同体が「我々の死者」をもつことを意味している、ということです。
「我々の死者」とは、次のような意味です。ひとつの国民が、「その人たちのおかげで現在の自分たちはあるのだ」と思えるような死者、自分たちは「その人たちの願望を引き継いで実現しようとしているのだ」と思える死者、そして自分たちが「その人たちから委託を受けて今、国の繁栄のために努力しているのだ」と思えるような死者。こういうものが、「我々の死者」です。

(中略)

 ほんとうに「我々の死者」などもたなくても別に困らないのでしょうか。そうではない、と僕は思います。自分たちが生まれる前の他者たちのことを思うことができない人間は、つまり自分たちの生まれる前の人たちからの連続性を思い、そのような死者たちの願望に縛られない人間は、逆のこともできなくなるからです。逆のこととは、自分たちが死んだ後にやってくる将来世代のこと、未だ生まれてはいない他者たちのことを配慮したり、考えたりする、ということです。過去の死者たちのことを思わない人は、将来世代のことを考えなくなります。今生きている、自分たちのことしか考えないわけです。
 現代の日本は、実際、そのような状況にあるのではないでしょうか。しかし、現在、僕らが直面している重要な問題のほとんどが、現在生きている人たち以上に、これから生まれてくる人たちに関わっています。人口問題にせよ、環境問題にせよ、安全保障や憲法の問題にせよ、すべてそうです。これらの問題についての現在の日本人の意志決定の影響を受けるのは、主として、現在の日本人の大半が死んだ後に現れる将来世代です。
 自分たちの後にくる未生の世代への異様な無関心。これが現代の日本人の特徴であるように思えてなりません。その原因はどこにあるのでしょうか。少なくともそのひとつの原因は、戦後の日本人が「我々の他者」を失ったことにあるのではないか。これが僕の仮説です。

日本は戦前戦中の考え方はまちがっていたのだという反省を出発点にして戦後の復興をスタートさせたので、戦前の日本人、特に戦死した人たちの理想や大義を引き継ぐわけにはいかなくなった。

だから日本は独特な方法で「我々の死者」を取り戻す必要がある、死者に対して裏切りながら謝罪をしていくことが必要だ……。


ふうむ。

どの国にも多かれ少なかれナショナリズムはあるが、日本の場合は特にナショナリズムが「戦前の軍国主義への回帰」と結びつきやすいので余計にややこしいんだよね。

愛国心自体は決して悪いものではないのだが、「軍国主義まで含めて過去を肯定」or「過去の全否定」みたいな極端な対立になってしまいがちので、「過去の日本人の営みのおかげで今の我々がある」とは言いづらく「戦後復興期にがんばった日本人のおかげで」というずいぶん半端な「我々の死者」への感謝の形になってしまう。

「軍国主義は誤っていた。あの戦争で死んだ多くの人たちは無駄死にだった。それはそれとして彼らは我々の仲間だし、我々は彼らに敬意を持つべきだ。だが同時に批判も忘れてはいけない」
という微妙なスタンスをとることを、両極端な人たちは許してくれないんだよねえ。


そういえば中島岳志さんがオルテガの『大衆の反逆』について書いた文章の中で、「死者の声」に耳を傾けるべきだと書いていた(100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』より)。

 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。

政治について語るとき、「今生きている人」のことしか念頭にない人が多い。右も左も関係なく。

我々が身のまわりについて考えるときはそれでいいが、国の方針を定める場合は「今生きている人」だけのことではいけない。
なぜならふつう国の寿命はひとりの人間の寿命よりも長いから。

ぼくも若いときは「もう死んだ人間のことなんて知ったことか」とおもっていたが、最近ちょっと考えが変わってきた。

大澤氏の言うように、死者について考えることは、まだ生まれていない我々の子孫について考えることである。
なぜなら、我々の子孫にとっての「死者」こそ私たちなのだから。
我々の考えたことやおこなったことを未来へと引き継いでもらいたいのであれば、我々もまた「死者」の考えや行動を汲みとらなければならない。

こんなふうに考えるようになったのは、ぼくが歳をとって昔よりも「死者」に近づいたからなのだろうか。
だとしたら年寄りがナショナリズムにはまってしまうのも加齢のせいなのかもしれないな。


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