『人間の建設』
小林 秀雄・岡 潔
日本最高の天才数学者と呼ばれる数学者の岡潔氏と、日本有数の思想家・批評家である小林秀雄氏による対談(発表は1965年)。
まったく専門分野の異なるトップランナー同士の対談ってわくわくするね。お互い噛み砕いてわかりやすく語ってるんだろうけど、難解すぎてさっぱりわかんねえ。50年以上前の対話だから、ってのもあるんだろうけど。
そうはいっても、今の時代にも通ずる話も多い。
「なるほど、そういうものですか」と素直に拝聴できる。すごい人が語っているという先入観がそうさせるのかもしれない。
ぼくがこの『人間の建設』を手に取ったのも、まさにときどき難しい本を読みたくなるから。本を選んでいるとしばしば、「これはぼくには十分に理解できねえだろうな」と思う本を読みたくなる。
それは己の成長のためとか高尚な動機があるからじゃなくて、シンプルに「むずかしいものが読みたい!」って欲求に応えているだけだ。
言われてみれば、学校って「勉強が嫌いな生徒に勉強をさせる」ためのシステムで動いてるよなあ。進学校はどうだか知らないけど、ぼくが通っていた公立学校はそうだった。
程度の差こそあれみんなそれぞれ「勉強したい」「むずかしいことに挑戦したい」という欲求を持っているはずなのに、それを伸ばすようなやり方はとられていない。
「勉強ってつまんねえだろ。でもやらなきゃいけねえんだよ、やれオラ」ってやり方をやってるから勉強嫌い養成機関になってしまうのだろう。
大勢をいっぺんに教えようと思ったらそういうやり方をとるしかないのだろうか。もう少し「勉強好きな子向け」のやり方に変えられないものだろうか。
ぼくには4歳の娘がいるけど、勉強を「やりなさい」と言わないように気を付けている。数字やカナのドリルを買い与えて「これやってもいいよ」と言うと、娘は嬉々としてドリルをやっている。あっという間に1冊終わらせて、またドリルやりたいと言ってくる。
これが自然な姿なのだろう。わからなかったことがわかるようになる、できなかったことができるようになる。おもしろいに決まっている。
もし「必ずドリルは1日3ページやらなきゃいけません!」ってなノルマを課したら、子どもはすぐに勉強嫌いになるだろう。
ぼく自身、母親からは「この本読んでいいよ」と言われ、父親からは「これおもしろいんじゃない?」と算数や論理学のパズルを与えられたので、読書も算数も好きになった。
だから娘に対しても勉強のおもしろさを忘れないでほしいと願っているのだけれど、どこかで勉強を強制される日が来るわけで、いつか勉強のおもしろさを忘れてしまわないかと不安でしかたがない。
数学の世界というとガッチガチの論理の世界で一分のゆらぎも許されないようなイメージがあるけれども、意外とそうでもないという岡潔さんの話。
数学にも感情が必要なんてほんまかいな。感情からいちばん遠いところにある学問のような気がするが。
とはいえ、今の時代に教育を受けた人の中にも地動説や進化論を否定している人がいるわけで、論理や知性というものには限界があるという話はわからんでもないような。
ぼくは数字を扱う仕事をしているけど、専門家同士の話でない場合は数字を出さないほうが納得してくれるケースも多いしなあ。「これやったらアクセスが増えるんスよ。コストも下がりますし。結果、良くなることが多いスね」みたいな適当なトークのほうが、詳細な表やグラフを持っていくより効果的だったりする。
数学だって最終的には人が納得しないことには公理として通用しないわけだから、意外と感情に訴えかける必要があるのかも。
数学者の知性を上回る感情的説得ってどんな手段なのか、さっぱり見当もつかないけど。
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本書の≪…アインシュタインだってやはり井の中の蛙じゃないか…≫を、水墨展「風うたう」の「宇宙の底」に【寒山拾得】的に投影したい・・・
返信削除≪…犬…≫から、「数学が見つける近道」マーカス・デュ・ソートイ著 富永星訳 に≪…犬…≫が出てくる。
返信削除【 犬は微分積分学をするのか? ・・・ 動物の脳が、正式な数学言語の力を借りずにこれらの近道を見つけられるように進化してきたというのは、じつに驚くべきことだ。自然は、最適解を出せる者をひいきにする。・・・ 】 から、
数学の基になる自然数を大和言葉の[ ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と ]からの送りモノとして眺めると「数のヴィジョン」になるとか・・・
[言葉の量化]と[数の言葉の量化]の最適解を求めて・・・