2020年9月9日水曜日

【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』

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京大変人講座

常識を飛び越えると、何かが見えてくる

酒井 敏 ほか

内容(e-honより)
常識を飛び越えると、何かが見えてくる。京大の「常識」は世間の「非常識」。まじめに考えると、人間も生物も地球も、どこかおかしい。だから、楽しい。

こんなタイトルだが、「変人」が出てくるわけではない。

「変でもいい」「普通とちがうからこそいいこともある」といったテーマで、様々な分野の研究者が知見を披露している本だ。


以前、大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本を読んだ。
これも、大阪大学のいろんな分野の研究者がワンテーマについて語るという本だが、正直いっておもしろくなかった。

なぜなら、ほとんどの研究者が「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」というお題から早々に逃げ、むりやりドーナツにからめて得意分野に逃げこんでいただから。


だが『京大変人講座』のほうはどの項もおもしろかった。
たぶんお題が「変でもいい」というゆる~いテーマだったからだろう。

だから
「人間が今生きているのは我々の祖先が“酸素があっても生きられる”という(当時としては)変な生き物だったからだ」
「不便なことには不便であるがゆえの価値がある」
といった、それぞれの得意分野を思う存分語れる。

どの人の話もおもしろい。



山内裕氏によるサービス経営学の話より。

 実は、サービスにおいて、提供者側が客を満足させようとすると、かえって客は満足しなくなるというパラドクス(逆説)が起こります。「満足させよう」とするサービス側の気持ちが透けてみえてしまうと、客は満足しないのです。同じように、相手を笑わせよう、信頼させようとすればするほど、客の気持ちは逆の方向へ向かってしまいます。
 これを「弁証法」と呼びます。
 もし鮨屋のおやじが、お客さんに笑顔で接し、喜ばせようとし、心を配って、満足させようとがんばったら、むしろ、提供者である鮨屋のおやじは客から「この人は私を喜ばせようとする意図を持っている」と受け止められます。
 そこに生まれるのは、上下関係です
 提供者は従属する側――要するに立場が弱くなってしまいます。さらにいえば、自分に従属する人からのサービスは、価値が低く感じられてしまうものです。
 提供者側が満足させようとサービスすると、その満足はお客にとって意味がなくなってしまう。これは、サービスにおいて必ず発生する問題です。
 その点、鮨屋のおやじは、職人として「自分のために仕事をしているんだ。客のことなんか関係ねえよ」という姿勢を貫くからこそ、客がその価値をありがたく認める図式ができあがっているのです。
 さて、カジュアルなレストランやファストフード店であっても、お客を拒否するサービスを展開していることはすでに述べたとおりですが、一方で、サービスが高級になればなるほど、闘いの局面が増していくという現実もあります。
 なぜなら、高級になればなるほど、いわゆる「サービス」と呼ばれるものが提供されなくなっていくからです。減っていくのは「笑顔」であったり、「情報」であったり、「迅速さ」であったりします。
 意外な感じがしますね?
 もちろん、高級なサービスにまったく笑顔がないわけではありません。しかし、プロフェッショナルであるほど表情はキリリと引き締まり、むやみやたらと笑顔を向けたりはしない傾向があります。頼りがいや信頼感は高まる一方、親しみやすさという要素は確実に減っていきます。 また、情報量も確実に減ります。カジュアルなレストランのメニューには、「季節のおすすめ」の紹介があったり、「定番!」というアピールがあったり、料理の解説や写真が添えられていて、にぎやかです。
 一方、高級なフレンチレストランで出てくるメニューには、料理名が並んでいるだけで、解説も何もありません。選択肢もそれほどない。とにかく情報量が少ないのです。

たしかになあ。
言われてみれば、高級店のほうがサービスが簡素であることが多い(高級なサービスを利用したことはあんまりないけど)。
ファミレスとかスーパーとかコンビニのほうが過剰に笑顔やあいさつを振りまく。

そしてたぶん、「ここの店員は礼儀がなっとらん!」みたいな説教をする客が多いのも、安い店のほう。

「高い店のほうがより多くのサービスを求められる」とおもってしまいがちだけど、じつは逆なのだ。


そういや仕事をしていても、こっちが下手に出たらとことんつけあがって無理難題をふっかけられるとか、もう断られてもいいやとおもって強気に出たら案外それが通ったりすることとかある。

色恋沙汰でも同じかもしれない。
こっちからぐいぐい「重いもの持ってあげるよ」「車で送ってあげるよ」「なんかほしいものない?」みたいな男より、「べつにどっちでもいいけど」みたいな男のほうがモテたりする(顔面の美醜はおいといて)。

『ハッピーマニア』シゲタカヨコも「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」って言ってたけど、仕事も恋愛も尽くしすぎたらダメなんだな。



川上浩司氏のシステム工学の話もおもしろかった。

便利すぎるものはかえって不便、という禅問答のような話。
川上さんは、あえて不便なものをつくり、不便さの便利を見いだそうとしているそうだ。

*カスれるナビ
 正確で詳細な情報をリアルタイムで表示してくれるカーナビ。これは便利すぎるのではないかということで、不便さをとり入れてみたのが「カスれるナビ」。
 このナビは、通った道がしだいにかすれていきます。道を間違って戻ろうとしても、ちょっと消えているのです。何度か同じところを通るとかすれがどんどんひどくなり、三度も通るとその周辺はほぼ真っ白で見えなくなります。

 この「カスれるナビ」で実験をしてみました。あるグループにはカスれるナビを渡し、別のグループにはカスれない普通のナビを渡して、一人ずつ町歩きをしてもらったのです。戻ってきたら、実際に通った場所の写真と、通っていない場所の写真を見せて、本当にあった景色なら○、そうでないなら×と答えてもらいました。
 すると、カスれるナビを手にして町歩きをしたグループのほうが、有意に正しく解答したという結果になりました。私の仮説ですが、「いつも手元に正しい情報がある」という状況があるとき、人は深層心理で「この情報を頭に入れる必要はない」と判断するのではないでしょうか。

更科 功『絶滅の人類史』によれば、人類の脳は昔よりも小さくなっているのだそうだ。

一説によれば、文字が発明されたことで外部に記録できるようになり、大きな脳を必要としなくなったからだとか。

それが事実だとすると、今後はもっともっと脳が縮んでいくだろう。

スマホがあれば計算もしなくていい、スケジュールもスマホで管理するからおぼえる必要なし、地図もおぼえなくたってスマホで地図検索、わからないことはすぐにスマホで調べられる、漢字も書けなくていい、外国語も自動翻訳。
便利だが、脳はどんどん必要なくなる。

これからは、ちょっと不便なサービスが流行るかもしれないな。



ぼくもはるか昔に京大に通っていたが、その頃に比べると京大の校風であった「自由」は失われているように感じる。

といっても中にいるわけではないので、タテ看規制とか寮の建て替えの件とかのニュースを見るかぎり。

ぼくが学生の頃は校舎内にバーがあったり、地下教室に学生が集って酒盛りをしたり、一夜にして謎の建造物ができていたり、無法地帯なところがあって、大学側も半ばそれを黙認していた。

「単位はやるから授業は出なくていい」と公言する教授がいたり、入学式で「授業に出ていい成績をとるのは二流。一流は授業なんか出ない」と煽ってくる教授がいたりと、「ふつうから外れてるほうがえらい」みたいな気風があった(ごく一部だけどね)。


でも国全体の方針として大学にも「カネになる研究をする」「学生を使いやすい会社員にする」ことが求められるようになり、漏れ聞こえてくる話では京大もその例外ではないらしい。

京大も含め、日本の大学の競争力はどんどん低下している。
「選択と集中」は明らかに失敗だった。
「当たり馬券だけを買えばいいじゃん」というやりかたは通用しないのだ。


だから「変でもいい」「役に立たなくてもいい」「ふつうはやらないことをやる」という、この姿勢は大事だ。

『京大変人講座』は今後もシリーズとして刊行されていくらしい(すでに二冊目が出版されている)。
ぜひとも長く続けて、京大の「変」を取り戻してほしい。

「そんなもん研究しても社会に出たら役に立たん」と言うやつには、
「社会に出たら役に立たんから大学で研究するんじゃないか!」と言い返してやってほしい。

ま、大学時代は労働法というおもいっきり実学を専攻していたぼくが言うのもなんですけど……。

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