反論理的思考のすすめ
香西 秀信
ぼくは理屈っぽい。
特に小学生のときは口ばっかり達者な生意気なガキだった。
「弁護士になれば口が立つのを活かせるから弁護士になる!」とおもっていた。
弁護士にならなくてよかった。府知事と市長をやって無駄に敵をつくっちゃう迷惑な弁護士になるとこだった。ああよかった。
子どものころ、よく親や教師から「それはへりくつだ」と言われた。
じっさいへりくつのときもある。言いながら自分でも「これは重箱の隅をつついてるだけだな」とおもうときもあった。
だが、ほんとに「あなたの言うことは筋が通らないんじゃないですか」というつもりでおこなった指摘が、教師から「へりくつだ」と言われたこともある。
教師が議論から逃げるための口実にされたのだ。
理不尽なものを感じた。
「じゃあどこがおかしいんですか」と訊いても「おまえのはへりくつだから相手にしない」と言われた。
「おまえの言うことはへりくつだ」と一方的に断罪し、どこがどう論理的に誤っていることは一切説明しないのだ。
教室では教師のほうが圧倒的に強い。
その教師が児童に議論に負けるなんてあってはならない。だから分が悪いとおもったら「おまえのはへりくつだ」と言って終わりにする。
とるにたらない理屈だからへりくつだし、へりくつだから取り合わなくていい。無敵の循環論法だ。
ぼくは学んだ。
世の中では理屈よりも立場のほうが強い、と。
『論より詭弁』にも書いている。
そうなのだ。論理的に正しい考えができることは、世の中ではほとんど役に立たない。
社長が言っていることが論理的にむちゃくちゃでも、ほとんどの従業員は指摘できない。
権力は論理よりも法律よりも強い。じゃなきゃブラックな職場がこんなにはびこるはずがない。
『論より詭弁』では、様々な「論理的に正しいこと」を取り上げ、その論理的な正しさは無駄だと喝破する。
たとえば「人に訴える議論」。
歩きタバコをしている人から「歩きタバコをしたらダメじゃないか」と注意されたとする。
たいていの人は「おまえだってしてんじゃねえか」と言うだろう。
論理学の世界では、これは詭弁だとされる。
「おまえが歩きタバコをしている」ことと、「おれが歩きタバコをしてもいいかどうか」には何の関係もないからだ。
これに対して、著者はこう語る。
そう、じっさいには我々は論理の正しさに従って動かない。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で動く。
立場を無視して論理的な正しさを考えるのは「空気抵抗も摩擦もない世界での物理学」みたいなもので、考えるのが無意味とまではいわないが、その物理学で設計した飛行機は空を飛ばない。
そもそも詭弁と正しい論調は、明確に分けられるものではないと筆者は言う。
そう、「おれは事実を述べただけだよ。何が問題なの?」という人がいるが、たいてい問題になるのは「事実」だ。
「彼は逮捕されたことがある」「彼は離婚したらしいよ。元奥さんは彼に暴力を振るわれたと言っている」というのが事実であっても、それを聞けばたいていの人は「彼」の信頼性を大きく落とすだろう。
仮に彼の逮捕が冤罪だったり、彼の元妻が嘘をついていたとしても。
結局、自分に都合のいい意見は「巧みな論理」で、反対派の意見は「詭弁」になってしまうんだよね。
なんだかずいぶん身も蓋もない意見だけど、論理的に正しく生きていてもあんまり得しないってのは事実だよね。
その真実にもっと早く気づいていれば、もっと楽に生きていけたんだけどなあ。
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