2020年9月18日金曜日

【読書感想文】我々は論理を欲しない / 香西 秀信『論より詭弁』

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論より詭弁

反論理的思考のすすめ

香西 秀信

内容(e-honより)
著者は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その著者が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手と人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

ぼくは理屈っぽい。

特に小学生のときは口ばっかり達者な生意気なガキだった。
「弁護士になれば口が立つのを活かせるから弁護士になる!」とおもっていた。
弁護士にならなくてよかった。府知事と市長をやって無駄に敵をつくっちゃう迷惑な弁護士になるとこだった。ああよかった。


子どものころ、よく親や教師から「それはへりくつだ」と言われた。

じっさいへりくつのときもある。言いながら自分でも「これは重箱の隅をつついてるだけだな」とおもうときもあった。

だが、ほんとに「あなたの言うことは筋が通らないんじゃないですか」というつもりでおこなった指摘が、教師から「へりくつだ」と言われたこともある。
教師が議論から逃げるための口実にされたのだ。

理不尽なものを感じた。
「じゃあどこがおかしいんですか」と訊いても「おまえのはへりくつだから相手にしない」と言われた。
「おまえの言うことはへりくつだ」と一方的に断罪し、どこがどう論理的に誤っていることは一切説明しないのだ。

教室では教師のほうが圧倒的に強い。
その教師が児童に議論に負けるなんてあってはならない。だから分が悪いとおもったら「おまえのはへりくつだ」と言って終わりにする。
とるにたらない理屈だからへりくつだし、へりくつだから取り合わなくていい。無敵の循環論法だ。

ぼくは学んだ。
世の中では理屈よりも立場のほうが強い、と。



『論より詭弁』にも書いている。

 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。

そうなのだ。論理的に正しい考えができることは、世の中ではほとんど役に立たない。

社長が言っていることが論理的にむちゃくちゃでも、ほとんどの従業員は指摘できない。

権力は論理よりも法律よりも強い。じゃなきゃブラックな職場がこんなにはびこるはずがない。


『論より詭弁』では、様々な「論理的に正しいこと」を取り上げ、その論理的な正しさは無駄だと喝破する。

たとえば「人に訴える議論」。
歩きタバコをしている人から「歩きタバコをしたらダメじゃないか」と注意されたとする。
たいていの人は「おまえだってしてんじゃねえか」と言うだろう。
論理学の世界では、これは詭弁だとされる。
「おまえが歩きタバコをしている」ことと、「おれが歩きタバコをしてもいいかどうか」には何の関係もないからだ。

これに対して、著者はこう語る。

 私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。相手もまた咥え煙草で歩いていたという事実は、私が咥え煙草で道を歩いていた事実を帳消しにはしない。したがって、私に期待される論理的行動は、恥じ入って慌てて煙草を消し、それを携帯用の灰皿に収めることだ。そうしてこそ、初めてこちらも、その男に対して、「あなたも、咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意し返すことができるのである。
 いかにももっともらしい説明だが、惜しむらくは、誰もこの忠告に従って論理的に振る舞おうとはしないであろうことだ。おそらく、よほどの変わり者を除いたほとんどの人が、先の私のように「それじゃあ、あんたはなぜ煙草を咥えて歩いているんだ?」「あんたにそんなことを言う資格があるのか」と言い返すだろう。それでこそ、まともな人間の言動というものだ。
 だが、こうした言動は、論理的に考えると、発話内容の是非と発話行為の適・不適とを混同しているということになる。「咥え煙草で道を歩いてはいけません」という発話内容の問題を、咥え煙草で道を歩いている人間にそんな発話をなす資格があるかという発話行為の問題にすり替えているというのだ。「人に訴える議論」(特に「お前も同じ」型)が、虚偽論で、ignoratio elenchi(イグノーラーツィオー・エーレンキ、ラテン語で「論点の無視、すり替え」)という項目に分類されてきたのもそのゆえである。
 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

そう、じっさいには我々は論理の正しさに従って動かない。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で動く。

立場を無視して論理的な正しさを考えるのは「空気抵抗も摩擦もない世界での物理学」みたいなもので、考えるのが無意味とまではいわないが、その物理学で設計した飛行機は空を飛ばない。



そもそも詭弁と正しい論調は、明確に分けられるものではないと筆者は言う。

 だが、事実と意見を区別することは、実はそれほど簡単なことではない。例えば、次の二つの文章を見てみよう。

 a Kは大学教授だ。
 b Kは優秀な大学教授だ。

 事実と意見を区別せよと主張する人は、おそらくaが事実で、bが意見だと言うのだろう。確かに、「K」が「大学教授」かどうかは、事実として検証可能である。これは、「K」が「優秀」かどうかのように、個人の主観で判断が分かれるものとは明らかに違うもののような気がする。が、ここで疑問なのは、「Kは大学教授だ」が事実であるとしても、それを発言する人は、なぜそんなことをわざわざ言おうとしたのかということだ。
 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択し、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。

そう、「おれは事実を述べただけだよ。何が問題なの?」という人がいるが、たいてい問題になるのは「事実」だ。

「彼は逮捕されたことがある」「彼は離婚したらしいよ。元奥さんは彼に暴力を振るわれたと言っている」というのが事実であっても、それを聞けばたいていの人は「彼」の信頼性を大きく落とすだろう。
仮に彼の逮捕が冤罪だったり、彼の元妻が嘘をついていたとしても。



結局、自分に都合のいい意見は「巧みな論理」で、反対派の意見は「詭弁」になってしまうんだよね。

 こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。

なんだかずいぶん身も蓋もない意見だけど、論理的に正しく生きていてもあんまり得しないってのは事実だよね。

その真実にもっと早く気づいていれば、もっと楽に生きていけたんだけどなあ。


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