モモ
~時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語~
ミヒャエル・エンデ(著) 大島 かおり(訳)
『はてしない物語』でも知られるミヒャエル・エンデの代表作。
この話、中学校の国語の教科書に載っていたなあ。
しかし教科書の悪いところで、物語の中盤しか載っていなかったので「なんとなくおもしろそうだな」とは思いつつもぜんぜん意味がわからなかった。
いやほんと教科書ってひどいよね。ばかが作ってんのかな。
前半部分がばっさりカットされて
「時間どろぼうから逃れたモモはカメのカシオペイアとともに”どこにもない家”にやってきます」
みたいなあらすじしか書いてないんだもの。
それだけ読んで「あーなるほどそういう話ね」ってなるわけないだろ!
『モモ』は子ども向けのお話だけど、つくづくよくできた寓話だと思う。
物語の中であつかわれている時間の感覚に関しては、大人のほうがずっと共感できるんじゃないかな。
人間はずっと忙しくなりつづけている。
昔は一日がかりだった東京ー大阪間の移動が、新幹線や飛行機によって二時間ちょっとで移動できるようになった。
じゃあその分人々の暮らしには余裕が生まれたのかというと逆で、みんなせわしなくなっった。
昔だったら長い時間をかけて遠くに行って、ちょっと仕事をして、その土地のうまいものを食って、夜は酒を呑んで宿に泊まって翌日またたっぷり時間をかけて鉄道に乗って帰る、なんてスケジュールだったのが、今では東京ー大阪でも余裕で日帰りで行ける。朝早く出て、二時間ちょっとで目的地についてあわただしく仕事を済ませて、夕方の新幹線に乗ってその日のうちに帰ってくる。なんてあわただしさだ。
(昔のサラリーマン生活に関しては経験したことないから想像だけど。)
コンピュータの登場で計算は以前とくらべられないぐらい早くなった。昔なら一日がかりだった計算も、数秒で終わる。
じゃあその浮いた時間は余暇に使えるようになったのかというと、そんなことはない。業務の量はぜんぜん変わらない。むしろ昔より増えてるんじゃなかろうか。
あれおかしいな。
時間を短縮すればするほど余裕がなくなっていくぞ。時間が余るはずじゃないのか。
ぼくの時間も、時間どろぼうにかすめとられてるんじゃないのか。
AI(人工知能)の精度はどんどんよくなっている。AIに関するニュースを耳にしない日はない。
しかし「AIによって人間は苦役的な労働から解放される。思索や芸術など、真に生産的な活動に打ちこむことができる!」なんてハッピーな未来を提示する人は誰もいない。
みんな知っているのだ。便利になればなるほどぼくらの自由がなくなっていくことを。
ぼくらの時間はどこにいっちゃったんだろうね。この先どれぐらい残ってんのかな。
最後に、ミヒャエル・エンデのあとがきを引用。
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ぼくらの時間はどこにいっちゃったんだろうね。この先どれぐらい残ってんのかな。
最後に、ミヒャエル・エンデのあとがきを引用。
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