魔女の宅急便
角野 栄子
みんなご存じ『魔女の宅急便』、の原作本。
もう映画のほうが何度も観た(いつも金曜ロードショーだが)ので、どうしても映画版と比較してしまう。
「あっ、ここは映画といっしょ」「ここは映画にはないエピソードだな」と。
ほんとは逆なんだけど。
毎晩寝る前に子どもに図書館で借りた本を読みきかせているので、年間三百冊ほどの児童書を読む。
それを数年続けているので、ここ数年に読んだ児童書は千冊を超える。
中には、大人が読んでもけっこうおもしろい作品もある。まったくおもしろくない作品もある(そういう本はたいてい子どももつまらなそうに聴いている)。
多作で、しかもぼくが読んでもおもしろい作品を書くのは、斉藤洋氏、そして角野栄子氏だ。
両氏の作品は、ファンタジー要素と現実感がバランスよく配合され、キャラクターが活き活きと描かれ、メリハリのあるストーリーが展開され、そこはかとないユーモアが漂っている。
角野栄子作品にははずれがない。
ぼくが子どものころから読んでいたおばけのアッチコッチソッチシリーズ、シップ船長シリーズ、アイウエ動物園シリーズなど、みんなおもしろい。
『魔女の宅急便』も……もちろんおもしろかった。
映画との違いを書く(『魔女の宅急便』原作小説は全六巻あるが、ぼくが読んだのは一巻だけなので一巻との違い)。
映画よりもファンタジー強め
映画は、魔女が空を飛べること、ジジがしゃべること以外はだいたい現実に即していた。
小説版は、もっと奇想天外な話が多い。
序盤こそ「おしゃぶりを届ける」「鳥かごとぬいぐるみを届ける」という映画でおなじみのエピソードだが、中盤からは「船がつける腹巻きを届ける」「新年を知らせる鐘の音を届ける」「春を知らせる音楽を届ける」など、運ぶものが意外なものに変わってくる(音そのものを運ぶわけじゃないけど)。
このあたりのエピソードはほんとにおもしろい。こっちこそが「魔女の宅急便ならでは」という感じがする。おしゃぶりとかぬいぐるみはべつに魔女じゃなくていいもんね。
キキが人間っぽい
映画のキキはものすごくいい子だ。
というより、いい子であろうとしている。
多少感情の浮き沈みはあるものの、誰にも嫌われないように、誰にも迷惑をかけまいと必死に耐えている。
オソノさんにもトンボにも絵描きのおねえさんにも全力では甘えられない。
キキが素直に感情を吐露できる相手はジジだけ。そのジジですら、後半はコミュニケーションできなくなってしまう。
観ていてたいへん息苦しい。
小説版のキキはもっと人間っぽい(魔女だけど)。嫌みも言うし、嫌なやつにはいじわるをしたりもする。
かえって安心する。
映画は教科書的だった
映画後半で描かれていた、ニシンのパイを届ける、ジジの言葉が理解できなくなる、宙づりになったトンボをキキが助ける、などのエピソードは原作小説(の一巻)にまったく出てこない。
とんぼ(小説版ではひらがな表記)はキキの友人ではあるものの、出番は二回ほど。あまりかかわりはない(続刊ではキキと結婚するらしいが)。
小説版を読んだ上で映画版について思いかえしてみると、あれはずいぶん教科書的なストーリーだったな、とおもう。
善意や努力が報われないことを学ぶ、それによって自信を失って魔法が使えなくなる、「必要とされる」ことを通して再び魔法が使えるようになる……。
はっきりと因果関係があり、わかりやすく成長が描かれる。
教科書の題材にするにはいいけど、はっきりいってつまらない。物語はもっと理不尽でいい。
高校の現代文の教科書に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が載っていた。
授業で、国語教師があれこれ解説してくれた。
カムパネルラはこのとき死んでいるのです、カムパネルラだけ切符を持っていないのは死んでいるからです、このシーンも死への暗示です……。
それを聞いてぼくはおもった。
つまんね。
いや、解釈するのはいい。解釈は自由だ。
だが「これが唯一の正解です。これ以外の解釈は間違いです」といった感じで解説されたことで、あの幻想的な物語が台無しになったような気がした。
べつにいいじゃん。銀河鉄道の旅とカンパネルラの死はなんの関係もなくたってさ。
小説版『魔女の宅急便』は、映画版よりももっともっと自由に解釈ができる。
わかりやすい意図も因果関係もない。
出来事のひとつひとつにいちいち意味があるわけじゃない。
ただ出来事があるだけ。
ただキキが飛ぶだけ。
ただ運ぶだけ。
それが楽しい。
童心にかえって楽しめた。
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