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2019年3月1日金曜日

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』

『夜明けの街で』

東野 圭吾

内容(e-honより)
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。ところが僕はその台詞を自分に対して発しなければならなくなる―。建設会社に勤める渡部は、派遣社員の仲西秋葉と不倫の恋に墜ちた。2人の仲は急速に深まり、渡部は彼女が抱える複雑な事情を知ることになる。15年前、父親の愛人が殺される事件が起こり、秋葉はその容疑者とされているのだ。彼女は真犯人なのか?渡部の心は揺れ動く。まもなく事件は時効を迎えようとしていた…。
『赤い糸』では介護、『手紙』では加害者家族の生き方、『さまよう刃』では少年法など社会問題とからめたミステリを手掛けてきた東野圭吾さん。
『夜明けの街で』はミステリ×不倫。
ミステリと他のテーマをかけあわせることによって、次々に新鮮な味わいを提供してくれる。そしてそのどれもが高い水準を保っている。
名料理人、という感じ。

ちなみにこのタイトル『夜明けの街で』は、サザンオールスターズの不倫をテーマにした『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』の歌詞の一部から。
舞台が横浜だったり、『LOVE AFFAIR』の歌詞に出てくるスポットが使われていたり、「秘密のデート」という言葉が何度も出てきたり……と、ずいぶん曲へのオマージュを感じさせられる小説。曲を知っていたほうがずっと楽しめるので、読む前に聴くべし。



「不倫相手の女性が15年前の殺人事件の犯人かもしれない」というのが本書のいちばんの謎。
でも正直いって、殺人事件の真相よりも不倫の行方のほうが読んでいて気になる。
はたして妻には気づかれていないのか、気づいていて素知らぬふりをしているだけなのか……。読みながらゾクゾクしていた。

ぼくは不倫をしたことはないが、どんなことがあろうとも自分はぜったいに不倫はしない! と言いきれるだけの自信もない。魅力的な女性に言い寄られたら毅然としてつっぱねることができるかどうか、我が事ながらたいへん心もとない。まあ幸か不幸か、独身時代も含めてそんな機会はないけど。

ぼくは自分の意志をぜんぜん信頼していない。だから、そもそも浮気のきっかけになるような状況に近寄らないようにしている。女性と一対一で会うなんてことはしない、どうしても会わなければならないなら昼間にする、飲み会が終わったら二次会三次会に行かずにさっさと帰る(飲み会が嫌いだからだけど)、好みの女性と会ったらまず子どもの話をする(自分に言い聞かすため)……。
まあそんなことしなくてもぼくみたいなしみったれと不倫してくれるような女性はいないとは思うが、気をつけておくのに越したことはない。

ぼくはタバコを一本も吸ったことがないし、パチンコを一度もやったことがない。麻薬も一度もやったことがない。
それは自分の意志にまったく信頼を置いていないからだ。「一度やったらハマってしまうかもしれない」とおもっているから、意識的に遠ざけるようにしている。不倫もそれと同じだ。ハマってしまいそうだから怖い。

不倫なんてしても99%良いことはない。誰もがわかっている。
バレれば家庭や金銭を失うし、へたしたら仕事や友情も失うことになる。バレなくたって罪の意識は残るだろう。

それでもしてしまう。もう本能的なものとしか考えようがない。麻薬と同じで、理性で太刀打ちできるようなものではないのだろう。こえー。



ミステリとしては、正直イマイチ。
東野圭吾作品の中でもかなり下位に位置する出来栄えだった。「十五年も××をしていた」(ネタバレになるため伏字)というのは無理があるし、真相が明らかになったところで「えーまさかあの人が!?」というような驚きもない。

ホラーとして読む分にはじつにスリリングでおもしろかった。
ぞくぞく。

ただ、結末ははっきりいって生ぬるい。さんざん身勝手な立ち居振る舞いをしてきた男がこれだけで許されるのかよ、と拍子抜けする。ぼくはもっとえげつない展開が見たかったぜ。
東野圭吾氏も男なので温情を見せてしまったのかなあ。

女性作家ならきっとこういう結末にはしなかっただろうな。

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【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』



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2019年2月28日木曜日

【読書感想文】宇宙時代なのにテープで録音 / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』

たったひとつの冴えたやりかた

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア (著)
浅倉 久志 (訳)

内容(e-honより)
やった!これでようやく宇宙に行ける!16歳の誕生日に両親からプレゼントされた小型スペースクーペを改造し、連邦基地のチェックもすり抜けて、そばかす娘コーティーはあこがれの星空へ飛びたった。だが冷凍睡眠から覚めた彼女を、意外な驚きが待っていた。頭の中に、イーアというエイリアンが住みついてしまったのだ!ふたりは意気投合して〈失われた植民地〉探険にのりだすが、この脳寄生体には恐ろしい秘密があった…。元気少女の愛と勇気と友情をえがいて読者をさわやかな感動にいざなう表題作ほか、星のきらめく大宇宙にくり広げられる壮大なドラマ全3篇を結集!

ほんとにしゃれたタイトルだね(原題は『The Only Neat Thing to Do』)。翻訳SFってかっちょいいタイトル多いよねえ。
『夏への扉』『世界の中心で愛を叫んだけもの』『星を継ぐもの』『あなたの人生の物語』とか。
その流れを受けているんだろう、星新一のショートショート集もしゃれたタイトルがついていた。『だれかさんの悪夢』『ちぐはぐな部品』『おのぞみの結末』『ありふれた手法』とか。スマートだよなあ。



『たったひとつの冴えたやりかた』

両親に内緒で宇宙探検に出かけた少女。だが、あることをきっかけに脳内にエイリアンに寄生されてしまう。とはいえそのエイリアンはとっても紳士的・友好的で、害をなすどころか体内の掃除までしてくれる。すっかり友だちになった少女とエイリアンだが思わぬ罠が……。

少年冒険小説のような明るい導入から、意外性のある展開、徐々に迫る不気味な予感、そしてさわやかな悲哀が漂うラスト……とめまぐるしくテイストが変わる小説。
うん、おもしろい。
ところどころに挟まれる「たったひとつの冴えたやりかた」という台詞が、最後の最後で重い意味を持つ。




『グッドナイト、スイートハーツ』

凶悪な敵に襲われた宇宙船を助けに向かった男。そこで出会ったのは、数十年前に別れた恋人(冷凍睡眠や美容手術のおかげで互いに老けていない)、さらに賊の人質になっていたのはかつての恋人のクローンだった……。

うーん……。
「宇宙が舞台なのにめちゃくちゃ世間せまいな!」という感想しか出てこない。
宇宙の果てで数十年前の知り合いとばったり。さらに知り合いが数十年前につくったクローンともばったり。
正月に田舎町に帰省したときぐらいの頻度で知り合いに出会うスペース・オペラ。



『衝突』

異星人とのコンタクトを、「万能翻訳機」みたいなものに頼らずに、基礎的な言語だけでおこなうもどかしさを描いていたのはおもしろかった。テッド・チャン『あなたの人生の物語』を思いだした。あちらのほうがずっと説得力があったが。



三篇すべてに言えることなんだけど、え? それだけ? という感じで終わってしまう。もうひと展開あるだろうな、と思って読んでいたら何もなし。

三十年以上前の小説だからしょうがないんだけど。
少年少女向けかも。まっすぐに前を向けなくなったおっさんにはちょっと単調すぎたよ。


小説の味わいとはあんまり関係ないけど、宇宙を縦横無尽に飛びまわる世の中が舞台なのに、録音をするときにテープを使っているのがおもしろい。長時間の録音をするときはテープ入れ替えたりしてんの。はっはっは。ダセぇ。
宇宙飛行とか冷凍睡眠とかエイリアンとのコンタクトとかに関しては自由自在に想像して書いているのに、録音はテープ。カセットテープしかなかった時代には、音をデータのまま保存しておくというのは想像できなかったんだろうなあ。

人間の想像力には制限がないようで、やっぱり制限がかかってしまうということがわかるおもしろい事例でした。

2019年2月27日水曜日

【読書感想文】話しかけてくるなり / 俵 万智『生まれてバンザイ』

生まれてバンザイ

俵 万智

内容(e-honより)
俵万智さんが、赤ちゃんを生んで、唄った母の歌。
妊娠中、出産後、子育ての間に詠んだ短歌を集めたオムニバス。

俵万智さんは好きなので『プーさんの鼻』は読んだことがあったはずだが、当時は子どもがいなかったのであまりぴんとこなかった。
五歳と〇歳の二児の父となった今では、同じ短歌を読んでもやはりいろいろ感じるものがあっておもしろい。
朝も昼も
夜も歌えり
子守歌
なべて眠れと
訴える歌
子どもが生まれる前は、子守歌ってほのぼのした優しい気持ちでうたう歌だとおもっていた。
でもじっさいはそうじゃない。
頼むから寝てくれ。おい早く寝ろよ。切迫した懇願であり脅迫であり祈りである。
子守歌をうたっている時間は、こちらの睡眠が削られている時間。戦いの時間なのだ。

ついてってやれるのは
その入り口まで
あとは一人でおやすみ
坊や
子どものとき、怖い夢を見るたびに母親のところに行っていた。「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてくれた。

今、娘が「こわいゆめをみた」とぼくをおこしにくる。眠いのに起こすなよ、と思う。めんどくせえな、と思う。でも「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてあげる。

そうか。母親もこんな気持ちだったのか。

記憶には残らぬ今日を
生きている
子にふくませる
一匙の粥
子どもにいろんなことをしてあげながら、「どうせこいつはおぼえてないんだろうな」と思う。
〇歳児はとうぜんだし、五歳児だって今ぼくと遊んだことや行った場所をほとんどぜんぶ忘れてしまうかもしれない。
子どもを持つ前のぼくなら、だったら意味ないじゃんと思っていたかもしれない。でも今はそうは思わない。
ぜんぶ忘れられたっていいさ。だってこっちはずっとおぼえてるからな!

みどりごと散歩をすれば
人が
木が
光が
話しかけてくるなり
子どもと歩いていると、それまで気づかなかったことに気づく。
タンポポが咲いていることや、街路樹に鳥が巣をつくっていることや、小さい段差があること。
ひとりで歩いているときは目に入ってもまったく意識をしない。だけど、子どもに世界を教えるつもりで歩いていると、タンポポが鮮明に意識される。まるで自分も生まれてはじめてタンポポを見たかのように。

それを「話しかけてくるなり」と表現するのはさすが。



赤ちゃんの歌を集めたオムニバスのはずなのに、なぜか後半には恋の歌が集められている。しかも初期の『サラダ記念日』や『チョコレート革命』などから。
子どもとの関わりを詠んだ歌の後に「恋の歌」を読むと、ずいぶんうすっぺらく感じてしまう。
いやべつに子育てのほうが恋愛より崇高だとかいうつもりはないんだけど、やっぱり同じスタンスでは味わえないよね。なんでこれ収録したんだ。じゃまでしかない。

収録されている短歌は子どもが三歳ぐらいまでの歌ばかりなので、「恋の歌」を入れるぐらいなら幼児~少年期の歌ももっと入れてほしかった。

後半さえなければいい本だったのになあ。

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【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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2019年2月25日月曜日

【読書感想文】貧乏クジを引かされたのは読者だよ / 香山 リカ『貧乏クジ世代』

貧乏クジ世代

この時代に生まれて損をした!?

香山 リカ

内容(e-honより)
その数、なんと一九〇〇万人!「第二次ベビーブーマー」「団塊ジュニア」と称される一群を含む70年代生まれ。いま二十代後半から三十代前半の彼らは、ひそかに「貧乏クジ世代」とも揶揄される。物心ついたらバブル景気でお祭り騒ぎ。「私も頑張れば幸せになれる」と熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたが、世は平成不況で就職氷河期。内向き、悲観的、無気力…“自分探し”にこだわりながら、ありのままの自分を好きになれない。「下流社会」「希望格差社会」を不安に生きる彼らを待つのは、「幸運格差社会」なのか。

この本でとりあげられる「貧乏クジ世代」とは、いわゆる第二次ベビーブーマーであり、いわゆる団塊ジュニア世代であり、いわゆるロストジェネレーション世代である。
1970年代生まれ、だいたい中高生ぐらいにバブルを経験している時期。「大人たちがバブルに浮かれているのは見ていたけど、自分たちが社会に出たときにはバブルははじけていてその恩恵にあずかれなかった世代」だ。

その世代について分析した本……かと思いきや。

いやあ、ひどい本だった。
ぼくもいろんなひどい本を読んできたという自負があるけど(どんな自負だ)、この本は相当上位にランクインするな。

なにしろ「こんな話を聞いた」とか「私の周りにこんな人がいる」とか「私はこうだった」レベルの話がひたすら並び、それをもとに世代論を展開している。
 ところが貧乏クジ世代の場合、どうもその視線がいきなり現実の未来や社会を越えて、霊的世界や運命的世界にまで飛んでしまうことがあるようなのだ。「私がツイていないのは守護霊がよくないから」「今年は私みたいな水星人は最悪の運勢らしい」「オレはAB型だから対人関係がうまくいかないのはしたない」。こうやって、「うまくいかないのは家族や周りの人のせい」から、「社会のせい」を飛び越えて、いきなり「霊や宿命のせい」と結論づける。内向き志向と並んで、貧乏クジ世代の思考パターンにはこの“超越志向”もあるようだ。
 考えてみれば、彼らが生まれた一九七〇年代は、七三年のホラー映画『エクソシスト』の公開や『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)の出版、UFOや宇宙人の大ブームなど、オカルトや超常現象への人びとの関心が一気に高まった時代でもあった。
 しかし、このころは高度成長に支えられ、「私にも未知なる超能力があるかもしれない」「いつかUFOに乗れる日がくるかもしれない」と、人びとはそこに自分たちの新しい可能性や未来を見つけようとしていた感がある。そして貧乏クジ世代は、七九年に創刊されたオカルト雑誌『ムー』(学習研究社)を眺めたり、「口裂け女」のウワサを聞いたりしながら、子ども時代を過ごすことになったのである。
は?
言っておくが、この文章の前後のどこにも「70年代生まれはオカルトにはまりやすい」ことを示すデータはない。ないのはあたりまえだ。著者の頭の中にしかない思いつきなんだから。
だいたい70年代にオカルトへの関心が高まったんなら、オカルトにはまってたのは70年代生まれじゃなくてその上の世代じゃねえか。乳幼児がオカルトブームを牽引してたと思ってんのか?
著者の頭の中がいちばんの “超越志向” だよ。

 いまはどうなのだろう。国内にも世界にも、問題は山積み。むしろ私の時代以上に、大きな事件や戦争が次々に起きる。しかし、貧乏クジ世代の人たちは、内面化しがちなこの年齢特有の視線を、なかなか外向きに変えられずにいるように見える。
 書店に行っても、その世代向けに書かれた本の多くが、「社会をこう読む」ではなくて、「上司とはこう話す」「彼女にはこう接する」といった、あまりといえばあまりに等身大なマニュアル本。あるいは、いわゆる自分探し、自己啓発系の本。視線はさらに足下に、もしくは心のなかにと向きつつあるようだ。
 これはいったいどうしてなのか。私が三十歳だったころのように、彼らは「こうしちゃいられん!」などとそう単純には立ち上がらないということか。そうやって立ち上がっては結局、社会をよくすることができなかった”先輩“たちを、あまりにもたくさん見すぎたということか。いずれも理由の一つだとは思うが、もうちょっと別の原因もありそうだ。
これもひどい。ツッコミどころしかない。
私の時代」ってなんなんだよ。それ言っていいのは天皇だけだよ。
その世代向けに書かれた本」ってどうやって判断したんだよ。
ように見える」「あるようだ」「ありそうだ」って大学生が論文に書いてまず怒られるやつだよ。Wikipediaなら[要出典][未検証]とかタグつけられまくるやつだよ。
大きな事件や戦争が次々に起きる」「本の多くが~」も根拠ゼロ。「最近の若者はなっとらん」レベルの意見。

「自分の観測範囲内の人たち+根拠のない推測」と「私が三十歳だったころ+美化された思い出」を比較して、「この世代は~」と語っている。あきれて話にならない。

また、この「この根拠ゼロの分析」の後に、「精神科医からのアドバイス」みたいなのがくっついていて、余計に不愉快。
著者の妄想でしかない症状に対して、対策を教えられてもねえ。

この根拠ゼロ+クソつまらない話が延々続いて、この前置きはいつまで続くのかとおもっていたら、とうとう中盤までこの調子だった(半分ほどで読むのをやめたので最後がどうだったかは知らない)。
ぼくは「よほどのことがないかぎりは一度読みはじめた本は最後まで読む」ことを心がけているので途中で投げだすのは五百冊に一冊ぐらいなのだが、これはその貴重な本の一冊に見事光り輝いた。

エッセイとしてならまだしも、これを新書として出すなよ……とため息が出る。ここまでひどいと、もう著者に対しての怒りは湧いてこない。どうしようもない人なのだから。
これをノーチェックで出版した出版社に怒りが湧いてくる

この本の刊行は2005年。そういやその頃って新書ブームとか言われて質の低い新書が濫造されていた時期だったなあ……。新書貧乏クジ世代だ。

いやあ、ほんとひどい本だった。この人の本は二度と読まんぞ!

2019年2月21日木曜日

【読書感想文】米軍は獅子身中の虫 / 矢部 宏治『知ってはいけない』

知ってはいけない

矢部 宏治

内容(e-honより)
この国を動かす「本当のルール」とは?なぜ、日本は米国の意向を「拒否」できないのか?官邸とエリート官僚が国民に知られたくない、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?3分でわかる日本の深層!私たちの未来を危うくする「9つの掟」の正体。4コママンガでもわかりやすく解説。
『知ってはいけない』とはずいぶん陰謀論めいたタイトルだ。そして書かれている内容も陰謀論っぽい。

・米軍は日本の好きなところに基地をつくることができる
・在留米兵にとっては、日本全土が治外法権。米兵が日本でおこなった犯罪を日本の警察や裁判所は裁くことができない
・米軍が必要と判断したら、日本の軍(つまり自衛隊だね)は米軍の指揮の下で戦わなくてはならない

これが陰謀論ならいいんだけどね。
しかし孫崎享『戦後史の正体』など他の本の記述と照らしあわせると、この本に書かれていることはたいていが真実なんだろう。日本人としては残念ながら。
実際、戦後日本の動きを見ているかぎり、否定しようがないし。

『知ってはいけない』では、戦後(占領下にあった時期を戦後と呼んでいいのであれば)に日米間(というより日本政府と米軍間)でとりかわされた条約や密約をもとに、こうした事実を明らかにしていく。
 ところが日本だけは、米軍ヘリやオスプレイの墜落事故のケースを見てもわかるように、敗戦後七〇年以上たってもなお、事実上、国土全体が米軍に対して治外法権下にあるのです。
「何度もバカなことをいうな」
 と言われるかもしれません。
 しかしこれもまた、確かな根拠のある事実です。このあとご紹介する日米合同委員会という秘密会議で、左のような密約が日米間で合意されているからです。

「日本国の当局は、所在地のいかんを問わず米軍の財産について、捜索、差し押さえ、または検証をおこなう権利を行使しない」
(日米合同委員会の公式議事録 部分 一九五三年九月二九日)
 つまり、この会談でクラークは、
「戦争になったら日本の軍隊(当時は警察予備隊)は米軍の指揮下に入って戦うことを、はっきり了承してほしい」
 と吉田に申し入れているのです。そのことは、次の吉田の答えを見ても明らかです。

「吉田氏はすぐに、有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状ではその司令官は合衆国によって任命されるべきであるということに同意した。同氏は続けて、この合意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきであるとの考えを示し、マーフィー〔駐日大使〕と私はその意見に同意した」

 戦争になったら、誰かが最高司令官になるのは当然だから、現状ではその人物が米軍司令官であることに異論はない。そういう表現で、吉田は日本の軍隊に対する米軍の指揮権を認めたわけです。こうして独立から三ヵ月後の一九五二年七月二三日、口頭での「指揮権密約」が成立することになりました。
社会の教科書では憲法、その下にある法律にもとづいて国は動くと書かれているけど、本当は、戦後日本はそうなっていない。
日米間の条約や、あるいは公式な文書ですらない "密約" が法律、さらには憲法よりも高い地位を占めていて、その方針によって戦後日本の枠組みが作られているのだ。

どうして政治家がこんなに憲法を軽視するのか疑問だったのだけれど(特に現政権は)、戦後数十年にわたって憲法を無視した密約に従って動いてきたんだもんな。そりゃないがしろにされるわ。

よく自虐的に「日本はアメリカの植民地だ」なんて言うけれど、大げさでもなんでもなく、アメリカ軍が日本で好き勝手にしていいというルールが幅を利かせているわけだから、ほんとうに植民地なのだ。
アメリカ軍は日本の好きなところに基地をつくれるのだ。基地問題は沖縄だけの話ではない。



アメリカの植民地だった国は他にもたくさんあるが、独立後も「アメリカ軍が好きなときに好きなだけ飛行機を飛ばせる」なんて条件を受け入れているのは日本と韓国だけだそうだ。

それは、朝鮮戦争が大いに関係がある。
日本が占領下にあったときに朝鮮戦争が起こったため、アメリカ軍はぜったいに日本に基地を残しておきたかった。だから「基地を置いてもよい、軍用機を飛ばしてもよい、有事の際は日本軍がアメリカ軍の指揮下に入る、という条件を呑むのであれば日本を独立させてやってもよい」という取り決めがなされ、かくして日本は実質的な植民地となることを引き換えに独立を果たした(それを独立といっていいのかわからないが)。
そして朝鮮戦争はまだ終わっていない。「休戦」しているだけだ。だからアメリカ軍による実効支配は今も続いている。

矢部宏治さんはこれを戦後レジームならぬ「朝鮮戦争レジーム」と呼んでいるが、なるほど、そういう視点で見ると日米の関係がすっきりと見えてくる。



思想の左右に関係なく、こういった歴史背景は知っておかないといけないよね。
こういうことを知らずに憲法改正なんて議論できるわけがない。
 こうした大西洋憲章の理念を三年後、具体的な条文にしたのが、国連憲章の原案である「ダンバートン・オークス提案」でした。この段階で「戦争放棄」の理念も条文化され、世界の安全保障は国連軍を中心に行い、米英ソ中という四大国以外の一般国は、基本的に独自の交戦権は持たないという、戦後世界の大原則が定められました(第8章・12章)。
 これはまさしく日本国憲法9条そのものなんですね。ですから憲法9条とは、完全に国連軍の存在を前提として書かれたものなのです。
 日本ではさまざまな議論が錯綜する憲法9条2項についても、この段階の条文を読めば、あっけなくその本来の意味がわかります。要するに、日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです。

これすごく大事。
「日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです」

なるほどなー。「みんなが銃の代わりに花束を持てば世界中がハッピー!」なんて能天気なもんじゃないんだなー。
ということは国連軍が誕生しなかった以上(今後もたぶん創設されないでしょう)、憲法九条を維持しつづけるのはかなり苦しいものがある。
だったら憲法改正! というのも短絡的で、今の日米関係のまま自衛隊を正規軍にしたってアメリカ軍の下部組織になるだけ。

日米安保条約を破棄して、自衛隊なんていう嘘ではなく「軍」として憲法に明記。ただし侵略戦争は明確に否定、みたいなことができたらいいんだろうなー。
すごくむずかしいけど、でもそれって他の国がみんなやってるごくごくふつうのことなんだよな。ふつうの国がやってることを日本だけができてないってのが相当異常なんだとまずは理解することから始めなければ。


歴史を見ると、米軍が日本人を守る気なんてさらさらないことがよくわかる。
中国やロシアが脅威だと言ってるけど、アメリカもそれと同じくらいの脅威だ(国家元首の理性だけを見たらアメリカがいちばん危険だと思う)。
米軍基地だらけの日本は、獅子身中の虫を飼ってるようなものだ。
「憲法九条があるから日本は大丈夫!」もかなりおめでたい思考だけど、「アメリカ軍が守ってくれるから大丈夫!」はそれ以上におめでたい。


歴史の教科書の副読本にしてほしい一冊。
これを読むと戦後日本の歩んできた道がクリアに理解できるようになる。

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【読書感想文】 池上 彰 『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』



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2019年2月19日火曜日

【読書感想文】福田 ますみ『モンスターマザー』

モンスターマザー

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い 

福田 ますみ

内容(e-honより)
不登校の男子高校生が久々の登校を目前にして自殺する事件が発生した。かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親は、校長を殺人罪で刑事告訴する。弁護士、県会議員、マスコミも加わっての執拗な攻勢を前に、崩壊寸前まで追い込まれる高校側。だが教師たちは真実を求め、反撃に転じる。そして裁判で次々明らかになる驚愕の真実。恐怖の隣人を描いた戦慄のノンフィクション。

『でっちあげ』の作者による骨太のノンフィクション。
『でっちあげ』では、福岡「殺人教師」事件を取り扱っていた。小学校教師が児童をいじめていたとしてセンセーショナルに報道されたが、結局その"犯行"のほとんどが虚言癖のある母親によるでっちあげだった、というものだった。

『モンスターマザー』も構図は似ている。
男子高校生が家出をくりかえし、やがて自殺。母親は、男子高校生が所属していたバレー部内のいじめが原因だと主張し、メディアも大きく報じた。母親に味方する地方議員、弁護士、ルポライターも現れ、彼らは県や校長や先輩生徒を相手どって訴訟。

ところが事態は急展開。
学校内でいじめがなかったこと、母親の常軌を逸した言動に男子生徒が困惑していたことについての証拠や証人が次々に現れ、学校側のほぼ全面的な勝訴となった。それどころか母親は逆に民事訴訟を受けて敗訴。母親の言うことを真に受けてまともな調査をせずに校長を殺人罪で告訴した弁護士は懲戒処分となった。
(Wikipedia)「丸子実業高校バレーボール部員自殺事件」

裁判では学校、校長、先輩生徒が勝訴したものの、多くの犠牲を強いられた。裁判には長い期間を要し、傷つけられた名誉は快復していない。
母親は賠償金を一銭も払っておらず、懲戒処分になった弁護士は裁判で命じられた謝罪広告を出していない。なんとも気の滅入る話だ。



この本にはほぼ学校側一方だけの話しか載っていないので鵜呑みにするのは危険だが(母親や弁護士がろくに取材に応じないのでしかたないのだが)、多くの証人の発言、客観的な事実を鑑みると、他人に対して攻撃的で平気で嘘をつく、相当問題の多い母親だったのだろう。
 まず学校側がさおりに対し、心労をかけたこと、担任の出欠誤認について謝罪し、話し合いの場の設定が遅くなったことも詫びた。そして校長が、持参した謝罪文をさおりに手渡した。
(中略)
 しかしさおりは、文面に目を通すなり、それを突き返した。
「この内容では不十分です。これでは話し合いには応じられません」
 そして、立花担任が自分の非を認めていること、校長・教頭の謝罪、県教委の教学指導課が子供を捜すことを最優先にせよと指導をしているにもかかわらず実行しなか出ったこと、捜索について保護者からの要望を断ったことなどを新たに謝罪文に加えて、午後6時までにメールで送ってほしいと要求した。
 それだけではない。
「担任を代えていただきたい、子供もそう願っている。でも、子供には直接聞いてもらいたくない。私の許可を必ず取ってください。子供は信頼していた先生に裏切られ恐怖の心でいます」
この一件だけ見ても、「クレームをつけることに慣れている」と感じる。
そういえば少し前に子どもを虐待死させたとして大きくニュースになっていた父親も、学校に対して謝罪文を要求していたらしい。
こうしたクレーマーはトラブル慣れ・裁判慣れしている上に基本的に他人と信頼関係を築くことができないので、「あのときこういったじゃないか!」という言質を取りたいのだろうな。

だが「ひどい母親もいるね」で片付けてしまっては、何の解決にもならない。また同じようなことがくりかえされるだけだ。平気で嘘をつく親、他人を攻撃することに一切のためらいを感じない親は一定数存在するのだから。

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」が大きな問題になった原因のひとつは、母親に多くの支援者が集まったことだ。
地方議員、弁護士、ルポライターが母親の言い分を信じて事を大きくしたために風評被害は拡大した(しかも彼らの多くは何の謝罪もしていない)。

学生が自殺したと聞くと、我々はほとんど反射的に「子どもが自殺? いじめだな! 学校が隠蔽しようとしているな!」と思いこんでしまう。テレビも新聞もこのシナリオに従って報道する。もちろんそういうケースもあるが、ほとんどはそんな単純な理由で人は死なない。親やきょうだいや交友関係や読んだ本や遺伝的気質や、いろんな影響を受けているはずだ。
けれどぼくらはわかりやすいストーリーが大好きだ。
「子どもを亡くしたかわいそうな母親 VS 事実をもみ消そうとする冷酷な学校」というわかりやすい筋書きを思いえがいてしまう。
 本書の事件が起きたのは2005年、『でっちあげ』の事件が起きたのは2003年である。当時も今も、学校現場でのいじめを苦にした青少年の痛ましい自殺は後を絶たず、深刻な社会問題になっている。マスコミが「いじめ自殺」を大きく取り上げるのは、いじめの卑劣さへの憤りが根底にあるにしても、一にも二にも、世間の耳目を引く恰好のネタであるがゆえだ。
 だからこそ、報道はヒートアップし、いじめ自殺に関する多くのレポートが生まれた。
 しかし、それらはいずれも、教師や学校、教育委員会を加害者として糾弾している。
 いじめ被害者の訴えを無視して適切な指導を行わず、結果的に被害者を自殺に追い込んだ教師。いじめをあくまで隠蔽しようとする、姑息で事なかれ主義の学校や教育委員会。
 要するに、子供や保護者は圧倒的に善であり弱者であり、それに対して学校は、明力な子供や保護者を抑圧する権力者として描かれている。
 きわめて単純な二項対立である。こんなにきれいに正と邪を色分けできる現実なんてあるのだろうかと首を傾げてしまう。
インターネットで、この事件について検索してみた。最近のものに関してはこの本の感想が多いが、十年ほど前のサイトやブログを見ると、ほとんどが「なんてひどい学校だ!」と憤る声ばかりだ(そして書きっぱなしで訂正も反省もない)。
先入観なしにものを見ることがいかにむずかしいか、教えてくれる。

母親を支援していた人も、学校側を中傷していた人も、学校を糾弾した議員も、きっと善意でやっていたのだろう。「かわいそうな被害者を支援するすてきなあたし」に酔っていたのだろう。だからこそ真相に気づきにくくなるし、気づいた後でも己の過ちを認められない。
たぶん、その人たちの大半は反省などしていないだろう。そしてまた同じようなことをくりかえすだろう。

自分も、タイミング次第ではそちら側にいっていただろう、という気もする。ぼくだって、高校生が自殺したというニュースを見たらまずはいじめじゃないか、学校に責任があるんじゃないか、と考えてしまう。ただぼくには行動力がないから何もしないだけで。

善意の人というのはおそろしい。
(ただし弁護士と医師の罪はきわめて重い。弁護士は少し調査すればわかることを調べずに思いこみだけで告訴しているし、医師は言われるがままに適当な診断書を書いている)



ところでこの本、読み物としてはすばらしい本なんだけど、ノンフィクションとしてみると危うさも感じてしまう。

学校側にしか取材できなかったというのもあるんだけど、あまりにも一方的な視点。おまけに学校側の人物に肩入れしすぎ。

全面的に学校側・教師の対応が正しかったかのように書いているが、ぼくから見ると学校の初期対応も最善のものではなかったように思う(学校側に自殺の責任があるとは思わないが、もっといい対応はあったんじゃないかな)。

教師たちの大きな問題にしたくない、警察沙汰にしたくないという思いのせいで(それは保身というより生徒のためだったかもしれないが)事が大きくなってしまった。

「学校の中のことは学校内で解決」というのは小さな問題ならうまくいくかもしれないが、悪質クレーマーのような悪意ある破壊者がやってきたときにまるで歯が立たない。
情報発信手段の向上などで、学校の問題を内部で閉じこめておくことはむずかしい時代になった。
早めに問題を外に出して専門家に介入してもらうことが、学校にとっても生徒や保護者にとってもいいはずだ。

『モンスターマザー』を読んでも「じゃあまたこういう親が現れたらどうしたらいいの」という問いには答えられない。
ひどい親とひどい弁護士がいたんですよ、だけではなく、どう対応すればよいかという視点もあればなおよかったように思う。



この本が特にノンフィクションとして惜しいと感じるのは、著者が学校側の正しさを伝えようとするあまり、「教育熱心な先生だった」とか「生徒の死に心から胸を痛めている」といったような、踏みこみすぎた描写をくりかえしているところだ。
そんなのは客観的に判断できるようなものじゃないのでなんとでも書ける。主観と事実がごちゃまぜになっているので、かえって嘘くさく感じてしまう。

ショッキングな事件だからこそ、事実だけを冷静に積みかさねてほしい。
他人の感情を勝手に推測しないでほしい。
どうしても気持ちを書きたいのであれば、作者の主観だということをはっきりさせてほしい。
学校側の人たちに感情移入してしまう気持ちはわかるけど、それは読者がやることであって、書き手はもっと突きはなした書き方をしないと。

事実に頼らず感情を揺さぶるような書き方をして同情を集めようとするって、それって『モンスターマザー』の母親がやってることと同じじゃないの?

せっかくいいノンフィクションなのに、変に説得力を持たせようとした結果かえって説得力がなくなってるの、もったいないなあ。

2019年2月13日水曜日

【読書感想文】構想は壮大なんだけど / 北森 鴻『共犯マジック』

共犯マジック

北森 鴻

内容(e-honより)
人の不幸のみを予言する謎の占い書「フォーチュンブック」。偶然入手した七人の男女は、運命の黒い糸に絡めとられたかのように、それぞれの犯罪に手を染める。錯綜する物語は、やがて驚愕の最終話へ。連作ミステリーの到達点を示す傑作長篇。
(ネタバレあり)

学生闘争、ホテルニュージャパン火災、帝銀事件、三億円事件、グリコ・森永事件といった昭和を騒がせた事件を縦軸に、「フォーチュンブック」という人の不幸を予言する本を横軸に組み合わせた連作短篇ミステリ。

うーん……。
やりたかったことはわかるんだけど、壮大なスケールに作者自身がついていけなかったという感じがする。

たしかにスケールが大きい割に構成は緻密なんだけど、作者の自己満足感が強すぎる。


よくがんばったな、とは思うんだけどね。がんばって風呂敷広げたな。くちゃくちゃだけど一応畳んでるしな。よくやった。
だけどおもしろさとはまた別。
いろんな事件を放りこみすぎて無理だらけになっている。世間狭すぎるし。
三億円事件の犯人とグリコ・森永事件の犯人が同一人物とかね。嘘が過ぎる!

最後のほうに「なんとこれが三億円事件なんです! どやっ!」みたいな種明かしがあるんだけど、昭和の事件を扱っていってたら三億円事件が出てくるのは容易に想像がつくので「やっぱりね」としか思えない。意外性ゼロ。むしろ出てこないほうが驚く。

陳 浩基『13・67』は香港で実際にあった出来事をたくさん盛りこんでいるけど、それはあくまで舞台背景であって本題ではないしな。
実在の事件を複数盛りこむってのはとっちらかるだけでいいことないよ。ほら、三谷幸喜脚本ドラマ『わが家の歴史』もクソつまらなかったじゃない。



そして登場人物たちをつなぐ「フォーチュンブック」という本なんだけど……。これ、いる?
べつになくてもよかったんじゃないかね。
「あいつの死はフォーチュンブックに予言されてた」みたいな描写は多々あるけど、「フォーチュンブックがあったせいで〇〇が起きた」みたいなのはほとんどないし(一話目ぐらいかな)。
なくても十分成立したと思うんだけど。
この小道具がなかったら嘘っぽさもいくらか軽減されてたんじゃないかな。
そしてこのタイトル。『共犯マジック』って……。
は? どういうこと?
全部読んでもまったくぴんとこない。タイトルはわりとどうでもいいと思っている派だけど、それにしてもこれはあってなさすぎじゃない?



いろいろ辛辣なことを書いたけど、点数をつけるとしたら百点満点で六十点ぐらい。決して悪い作品ではなかった。
だからこそいろいろ言いたくなるんだよなあ。せっかくの大がかりな構想なんだから、もっとうまく料理できたんじゃないかって。

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【読書感想】陳 浩基『13・67』



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2019年2月8日金曜日

【読書感想文】同一労働同一条件 / 秋山 開『18時に帰る』

18時に帰る

「世界一子どもが幸せな国」オランダの家族から学ぶ幸せになる働き方

秋山 開

目次
Prologue 「幸せ」のためにオランダが選んだ働き方とは?
1 生産性を重視した仕事の基本
2 オランダ型ワークシェアリングの仕組み
3 「同一労働同一条件」が優秀な人材を集める理由
4 オランダ式テレワークがもたらした効果
5 ソフトワークを実現する「チーム主義」とは?
6 社員の「モチベーション」を重視すると企業は成長する
7 「世界一子どもが幸せな国」のソフトワーカーの生き方
Epilogue 「2人目の壁」を突破するために必要なこと

ぼくは大学で労働法を専攻していたんだけれど、ちょうどそのころ「オランダではワークシェアリングが導入されている。これを日本にも!」という話をよく聞いた。
日本は不況のまっただなかで終身雇用の崩壊だとか派遣切りだとかが話題になっていたころだったから、これぞ今後の働き方!と思ったものだ。

それから十数年。ワークシェアリングなんてとんと聞かなくなった。
その間、日本では高齢化がさらに進み、若手の数は減り、女性の社会進出は進んだ。ワークシェアリングを必要とする労働者は前よりも増えているはず。しかし働き方改革だなんだと呼び声の勇ましさとは対照的に、働き方はまったく多様化していない。
正社員で働くなら残業もセット。派遣社員だと二年で契約切れ。パートタイマーでは食っていけない。
たとえばシングルマザーの「保育園の送り迎えがあるから長くは働けないけど子どもを養えるぐらいは稼がないといけない」なんて要望は実現不可能というのが日本の現状だ。決して贅沢を言ってるわけではないのに。



だがオランダでは多種多様な働き方が認められているという。
 このようにオランダでは、30年以上もの間、働き方の改革が進められてきました。その結果、男性であろうと女性であろうと関係なく、「どういうふうに働きたいのか」「どれくらい働きたいのか」「どこで働きたいのか」を自ら決めることができるようになったのです(もちろん職業によって制限はありますが)。
 翻って今の日本はどうでしょうか。残念ながら、労働者が主体的に労働条件や環境を求めたり決めたりということは簡単ではありません。「子どもが生まれて間もないのに転勤を言い渡された」「仕事が終わっていても、上司が帰宅するまで家には帰れない」「毎年、有給休暇が余る。それどころか休日出勤の代休すら取れない」といったことは、日常茶飯事ではないでしょうか。
 こういった日本の現状に鑑みれば、働く個人が主体的に自分の働き方を決めることができるオランダというのは、まさに日本が参考にすべき事例なのではないかと感じます。
「夫は正社員として家計を支えて会社の命令なら残業でも転勤でもおこない、妻は専業主婦として家事と育児に専念」
なんてのは戦後数十年のごく短期的な”常識”だったのに(当時ですら幻想に近かったと思うが)、いまだにその例外的な”常識”に基づいた制度がまかりとおっている。

ぼくは以前どブラック企業に勤めていた。年間休日は約八十日。月に百時間を超えるサービス残業。インフルエンザでも休めない。
その会社は結婚を機に辞めた(そしてほどなくして潰れた)。「生活できない」と思ったからだ。

次の会社はいくぶんマシだったが、やはり月に八十時間ぐらいの残業があり、幼い子どもがいても飲み会や社員旅行は強制参加だった。

そして今は、残業は月に一時間程度(つまりほぼゼロ)。強制参加の飲み会もない。
子どもを保育園に送ってから出社し、帰ってから子どもといっしょに晩ごはんを食べ、子どもといっしょに風呂に入り、子どもといっしょに寝る。すごく幸せな暮らしだ。

これが誰にとってもあたりまえになればいい(仕事をしたい人はすればいいけど)。
「給料はそこそこでいいから残業ゼロがいい」という人は多いはずなのに、そんなごくごく控えめな希望ですらなかなか叶えられない。
そんなにむずかしいことじゃないはずなのに。


五人で食事をするのに椅子が四つしかない。どうすればいいか、答えはかんたんだ。
なのに「席が足りないからひとつの椅子にふたりで座ろう」とか「交代で立ちながら食事をしよう」とかやってるのが日本の企業だ。それを毎日くりかえしている。そして、食いづらいとか食うのが遅いとか文句を言ってる。

席が足りないなら椅子を増やせばいい。人手が足りないなら人を増やせばいい。
解決策はいたってシンプルだ。



『18時に帰る』には、さまざまな働き方のケースが紹介されている。
短時間勤務、週四日勤務、テレワークなど。

兼業主婦はもちろん、男性正社員、さらには管理職や経営者までもが家庭の事情にあわせて短時間勤務を選んでいる。
これを支えているのは、ただひとつのシンプルな原則だ。
 これは、今から約20年前の1996年に労働時間差別禁止法(Wet  onderscheid arbeidsduur)によって定められたもので、同法によってフルタイムワーカーとパートタイムワーカーの待遇格差が禁止されました。
 これにより、賃金や手当、福利厚生のみならず、企業が有する研修制度や職業訓練、年金制度などについても、同じ条件で雇うことが義務づけられたのです。働き方に大きく関わる産休・育休制度、介護休暇、有給休暇についても、同様の権利が与えられています。
日本では「同一労働同一賃金にしよう!」なんて叫ばれているけど、オランダはその先をいっていて、”同一労働同一条件”が実現されている。短時間勤務であっても時間あたりの賃金を同じにするのは当然で、雇用形態や福利厚生も同じ権利が認められるのだ。

この原則が徹底されているから、「出産のタイミングで休職する」「子どもが小さいうちは出勤時間を減らす」「親の介護があるから時短勤務する」といった選択が可能だし、なにより子育てが終わったら以前と同じ条件で復帰できるというのが大きい。

日本の働き方だと、「子どもが小さくてもフルタイムで働きつづける」か「パートにして、子育て期間だけでなくその先のキャリアも諦める」の二択しかない場合が多い。
”同一労働同一条件”を実現させないと、やれ働き改革だ一億総活躍社会だと声高に旗を振っても何の意味もない

国会でやるべきことはただひとつ、オランダと同じように労働時間差別禁止法を成立させること。政治家の旦那様連中である経団連の言うことなんか無視して。かんたんでしょ?



もちろんオランダにはオランダの問題があるのだろう。
この本には「オランダの働き方はこんなにすばらしい!」という話しか出てこないが、不満を抱えている人だって当然いるだろう。
(ちなみに”同一労働同一条件”を実現させた後のオランダの経済成長率は、世界的に見ても高い水準を維持している。多様な働き方を選べるようにすることは少なくとも経済的にマイナスにならないようだ)

とはいえ、選択肢を多くすることはまちがいなく労働者にとってよいことだ。
そしてそれは、企業にとってもプラスになる。
 ユトレヒト大学のプランテンガ教授の会話に、とても印象的な話がありました。それは次のような内容です。「働くことに幸せを感じている従業員を増やすことが、企業の生産性を高めるのです。
 なぜなら育成してきた人を失うのは、企業にとってとても大きな損失だからです。まして育児や出産で失うのは、本当にもったいないことです。
前述した、ぼくが勤めていたブラック企業ではどんどん人が辞めていっていた。
たくさん辞めてたくさん採る。求人サイトには常に求人が載っていて、人材紹介会社にも年間何千万という紹介料を払っていた。
社員が辞めるたびに引継ぎコストが発生するし、個人が持っていたノウハウは失われる。
なんて無駄なんだ、新規採用に使う金を、今いる社員を辞めさせないために使えよとずっと思っていた。

だがブラック企業の経営者というのは、合理的な考えが嫌いなのだ。どちらが本当にお得か、なんてことは気にしていない。とにかく「自分が苦労したのに自分のところの社員が苦労していないのが気に入らない」の一心でブラック化に磨きをかけているのだ。
だからどれだけ儲けようと社員には分配しない。待遇も良くしない。

こういう会社がのさばってきたのが日本社会だ。
しかし風向きは変わりつつある。労働者人口が増えつづけていた時代は終わった。若い人はどんどん減ってゆく。不況になったとしても、昔ほど若者が就職に困ることはない。
労働者の立場が相対的に強くなり、労働者が企業を選べるようになってゆく。

こうした流れについていけない会社はどれだけ利益率が高かろうが、人がいなくなってつぶれる。
これからは「社員が辞めない会社」だけが生き残っていく時代になるのだ。

ぼくは経営者ではないが、幸いなことにある程度なら社員の働き方を決められる立場にある。
オランダ式の自由な働き方を導入してみようと思う。



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2019年2月7日木曜日

【読書感想文】選挙にマイナス票を導入という思考実験 / 森下 辰男『ハイド氏は2票方式で落選させる』

ハイド氏は2票方式で落選させる

森下 辰男

内容(Amazonより)
選挙で棄権ばかりしている有権者でも、議員にしたい人物に投票するだけでなく、議員にしたくない人物を落選させる☓投票用紙があればきっと投票に行くでしょう。小著は議員にしたい候補者を〇票で選出する現行の1人1票の投票方式を憲法の精神に反する不完全で差別的な制度と断定して、議員にしたくない候補者に☓の票を入れて落選させる、有権者1人に2票〇☓方式の投票制度を披露しています。この制度の面白さはサッカーをラグビーの楕円球でしたり、ゴルフのコンペを卵型のボールでするようなスリリングな政治家の淘汰論です。

Amazon Kindleでのみ販売。たぶん自費出版なんでしょう。
個人が手軽に本を出せるようになったのはいいことだ。

とはいえいろいろ読みにくくて、「編集者の仕事って大事なんだなあ」と痛感する結果に。

中盤までは選挙制度改革の話だけど、ひたすら同じことのくりかえし。
そして後半は政権批判、自民党の改憲草稿批判、原発政策批判と、テーマとほぼ関係のないことを好き勝手書きつらねているだけ。
怒りに任せて書き散らしているので、反政権派のぼくですら読むに耐えない。

「2票方式」自体は悪くない制度なのに、この本では同意を集められないなあ。



このブログでもさんざん書いてるからここでは長々と書かないけど、ぼくは今の選挙制度に不満を持っている。特に小選挙区制には大反対だ(読みたい方は記事下のリンクよりどうぞ)。

国民の一割が支持する政党は、国会でも一割の議席を占めるべきだ。それが民主的な選挙というものだろう。
ところが今の選挙制度はまったくそうなっていない。小選挙区制では、一割に支持される政党は一議席も獲得できない。数百万、数千万もの票が死票になってしまう。
国民の三割にしか支持されていない政党が国会では圧倒的多数派を占め、独断専行ですべてを決めることができる。こんな制度はどう考えたっておかしい。

選挙制度が悪いから民意が政治に反映されないし、民意が政治に反映されないから投票率は下がるし、投票率が下がるからますます民意が政治に反映されなくなる。

……いかん、長々と書かないといいつつ書きだしたら止まらない。



『ハイド氏は2票方式で落選させる』で訴えていることはいたってシンプル。
ある候補者が立候補した場合、その候補者に好感、好意を持っている人が〇票を投じるのなら、その候補者の悪行、醜聞を知っていて悪感情を持っている有権者も☓票を投じることができなければ不公平で、有権者を差別することになります。 したがって公平で正しい選挙は、有権者が候補者を〇と☓の2票で審判して、〇と☓の差し引きの得票数で当落を決めることです。
ほぼこれだけ。これだけの内容を、手を変え品を変えあれこれ語っているだけ。
(本筋とは関係ないが、上にあるようにバツだけ半角で表記しているのがすごく読みにくい。「☓票」と書いてあるのをずっと「エックス票って何のことだ?」と思いながら読んでいた)

ぼくも以前、似たような制度(【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら)を考えついたことがあるので、すごく納得できる。
マイナス票を入れられるというのは政治に緊張感があっていいと思う。

現行の選挙制度だと
「7割から嫌われても3割から熱狂的に支持されれば当選する」
ということになり、そんな制度で選ばれた代表が国民の支持を得ているかとはとても言えないだろう。

とはいえ、「2票方式」が民主制を守るためにはいい制度だとしても、実現可能かと考えたらまあ無理だ。
なにしろ「良くも悪くも注目されやすい現職」が今よりずっと不利になる制度だからだ。

与党に不利、現職に不利。
そんな選挙制度改革が国会で通るわけがない。満場一致で否決されるかもしれない。

となれば「2票方式」を公約にする党をつくって支持を集めるしかないわけだが、仮にその党が第一党になったとしても、権力を手にしたとたんに撤回する可能性が高い。自分が不利になる制度なんて誰も導入したくないでしょ。

『ハイド氏は2票方式で落選させる』では「そのためにはSNSでみんなが声を上げればOK!」みたいに書いてるけど、いやいやSNSってそんな万能じゃないよ。ただの情報発信ツールだから。

ということで実際の選挙に導入するのはまず不可能だろうけど、こういう思考実験自体はおもしろい。

会社の役員会議とかで「2票方式」を取り入れてみてもいいかもしれないな。
会社や学校なんかであたりまえのように使われるようになれば「じゃあ国政もこっちのほうがいいよね」ってなるかもしれないね。
その前に「2票方式」のいろんな欠点も見えてくるだろうし。

2019年2月6日水曜日

【読書感想文】ゴキブリ出て騒いでるの大差ない / 貴志 祐介『雀蜂』

雀蜂

貴志 祐介

内容(Amazonより)
11月下旬の八ヶ岳。山荘で目醒めた小説家の安斎が見たものは、次々と襲ってくるスズメバチの大群だった。昔ハチに刺された安斎は、もう一度刺されると命の保証はない。逃げようにも外は吹雪。通信機器も使えず、一緒にいた妻は忽然と姿を消していた。これは妻が自分を殺すために仕組んだ罠なのか。安斎とハチとの壮絶な死闘が始まった―。最後明らかになる驚愕の真実。ラスト25ページのどんでん返しは、まさに予測不能!

「驚愕のラスト」という謳い文句の小説はまずつまらないという法則があるが、『雀蜂』もご多分に漏れずがっかりさせられる出来だった。
貴志祐介作品って当たり外れが大きいなあ。

スズメバチとの戦い、しかも過去に刺されたためこれ以上刺されたらアナフィラキシーショックで死ぬかもしれないという設定自体はスリリングで悪くない。
狂犬病のセントバーナードと戦うスティーブン・キング『クージョ』を思いだした。『クージョ』はシンプルな設定なのに長篇で読むに耐えうる出来だった。さすがはキング。

一方の『雀蜂』はというと……。
舞台は冬の雪山。主人公が目覚めると、家の中には大量のスズメバチ。どうやら妻が浮気相手と共謀して自分を殺すためにスズメバチを仕掛けたらしい。という話。

まず、主人公が命を賭けて戦う理由が理解できない。
『クージョ』の場合は、
「屋外の車の中に閉じこめられた」
「外に出ると狂犬病のセントバーナードが襲いかかってくる」
「このままだと車内の温度がぐんぐん上がって子どもの命が危ない」
という設定があるので、命賭けでセントバーナードと戦うことに説得力がある。

『雀蜂』のほうは
「家の中にスズメバチがいるが、全部の部屋にいるわけではない」
「電気は通じているし数日食いつなぐ食糧も十分にある」
「数日待てば人が来る」
「殺虫剤などハチと戦う武器も多少ある」
「雪山なので窓を開ければハチは活動できなくなる」
という条件なので、戦う必要がまったくない。
せめて、なぜ舞台を夏にしなかったのかと言いたい。殺人ではなく事故死に見せかけるとしても夏のほうが自然だろう。

根幹となる「命を賭けて戦わなければならない理由」に説得力がないので、どれだけ主人公が一生懸命戦っても「この人なにばかなことやってんの」としか思えない。
本人は必死でも、読んでいる側としては「キャー、ゴキブリ!」と騒いでるのと大差ないように思えちゃうんだよなあ。



「ラスト25ページのどんでん返し」については、むりやりオチをつけたという感じで、まあひどいものだった。(一応理由付けがあるとはいえ)語り手が読者に対して嘘をつくというのは小説のルール的には反則だし。

さらに「ラスト25ページ」のくだりでは、オオスズメバチが飛びまわってる中で平然とおしゃべりしてたり、のどに穴が空いて大量出血してる人を警察がほったらかしにしてたり、ツッコミどころしかない。

スズメバチの知識が得られること以外にはおもしろみは感じられなかったなあ……。


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2019年2月4日月曜日

【読書感想文】虐げる側の心をも蝕む奴隷制 / ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』

ある奴隷少女に起こった出来事

ハリエット・アン ジェイコブズ(著) 堀越 ゆき(訳)

内容(e-honより)
好色な医師フリントの奴隷となった美少女、リンダ。卑劣な虐待に苦しむ彼女は決意した。自由を掴むため、他の白人男性の子を身篭ることを―。奴隷制の真実を知的な文章で綴った本書は、小説と誤認され一度は忘れ去られる。しかし126年後、実話と証明されるやいなや米国でベストセラーに。人間の残虐性に不屈の精神で抗い続け、現代を遙かに凌ぐ“格差”の闇を打ち破った究極の魂の物語。

アメリカにあった奴隷制のことを、ぼくは知っていた。
奴隷貿易がおこなわれ、奴隷制の維持を訴える南部と奴隷解放の北部に分かれ、アメリカを二分する南北戦争がおこなわれ、リンカーンが奴隷解放宣言を出したと。
教科書に書いてあったし、リンカーンの伝記も読んだ。

しかし知識として知っていることと理解することはまったくの別物だと、『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んでぼくは痛感した。

「黒人は奴隷として虐げられていた」
その一文がぼくの頭の中にあるだけで、その奥にどれだけ多くの人がどれだけ長い間苦しんでいたかということをまったく想像したことがなかった。

 多くの南部婦人の例にもれず、フリント夫人は完全に無気力な女だった。家事を取りしきる意欲はないが、気性だけは相当激しく、奴隷の女を鞭で打たせ、自分は安楽椅子に腰かけたまま、一打ちごとに血が流れ出るまで、平然とそれをながめていた。彼女は教会に通っていたが、聖餐のブドウ酒とパンを口に入れてもらっても、キリスト教徒らしい考え方は、なじまなかったらしい。教会から戻ったばかりの日曜日でも、指定した時間に夕食の用意が整わなければ、夫人は台所に陣取り、食事ができるのを待った。そして、料理が残らず皿に盛られるのを見とどけると、調理に使われたすべての深鍋や平鍋につばを吐いてまわった。こうすることで、鍋のふちに残った料理や肉汁の一さじが、料理女とその家族の口に入らないようにと気を配った。
 チャリティのまだ幼なかった息子のジェイムズは、感じの良さそうなご主人に売られたと思ったが、やがてご主人は借金を抱えるようになり、ジェイムズは、裕福だが残虐なことで知られる別の奴隷所有者に売られてしまった。この男のもとで、犬の扱いを受けながら、彼は大人になった。ひどい鞭打ちのあと、あとで続きを打ってやると脅かされ、その苦痛から逃れるために、ジェイムズは森の中に逃げこんだ。考えられる限り、最も悲惨な状態に彼はいた――牛革による鞭打ちで皮膚は裂け、半裸で、飢えに苦しみ、パンの耳すら口に入る手だてはなかった。
 数週間後、ジェイムズは捕まり、縛られて、主人の農場に連れ戻された。数百回の鞭打ちのあと、パンと水だけを与え牢に閉じ込めておくいつもの処罰は、この憐れな奴隷の不届きには軽すぎると主人はみなした。よって、奴隷監督の気の済むまで鞭で打たせたあと、森に逃亡した期間だけ、ジェイムズを綿繰り機の鉄のつめにはさんで放置することに決めた。この手負いの生き物は、頭からつま先まで鞭で切り裂かれたあと、肉が壊死せず治るようにと、濃い塩水で洗われた。そして綿繰り機の中に押し込められ、あおむけになれないときに横に向けるだけのわずかな隙間を残して、ギリギリと鉄のつめは締められた。毎朝、一片のパンと水を入れた椀を奴隷が運び、ジェイムズの手の届くところに置いた。奴隷は、そむくと厳罰に処すと脅されて、彼と口をきくなと命令されていた。
 四日が過ぎたが、奴隷はパンと水を運びつづけた。二日目の朝、パンはなくなっていたが、水は手つかずなことに奴隷は気がついた。ジェイムズが四日五晩締め上げられたあと、四日間水が飲まれておらず、ひどい悪臭が小屋からする、と奴隷は主人に報告した。奴隷監督が確認のためにやられた。圧縮機のねじを開けてみると、そこには、ねずみや小動物にあちこちを食べられた死体が転がっていた。ジェイムズのパンをむさぼり食べたねずみは、その命が消える前にも彼をかじったのかもしれない。
こういった描写を読むと、とても軽々しく「まるで奴隷のような生活だ」なんて言う気になれない。
人間扱いされないどころか、家畜よりもひどい扱いが黒人奴隷に対しておこなわれていたのだ。

それも、たった百数十年前に。
今では自由の国と呼ばれているアメリカで。



この本の作者であるリンダ(作者の偽名)は、アメリカ南部の奴隷の子として生まれている。
幼少期はいいご主人に恵まれたこともあり(奴隷としては)幸福な生活を送っていたが、ご主人がなくなり、ドクター・フリントという医師の家に売られた(正確にはドクター・フリントの幼い娘の所有物となった)ことから運命が暗転する。
母親は死に、奴隷としてさまざまな侮蔑的な扱いを受ける。さらには十代半ばにして性的な関係を迫られ、苦悩する。

リンダはドクター・フリントの束縛から離れ、ある白人と関係を持ち、子を産む。ドクターを怒らせ、売らせようとしたのだ。
しかしドクターはリンダを決して手放そうとしなかったため、自分ばかりか子どもまで不幸になると考えたリンダは脱走を決意する。

結果的に脱走は成功するが、立ちあがることすらできない屋根裏部屋に七年も隠れなければならなかったり(食事やトイレの描写が一切ないのだがどうしていたのだろう?)、子どもとは離れ離れになったり、自由州であるはずの北部に逃げてからも追手におびえながら暮らしたり、その脱走劇も決してハッピーなものではない。

何の罪も犯していない人間が、自由を手に入れるため、子どもを守るために多くのものを犠牲にしなければならなかったのだ。

ことわっておくが、リンダは奴隷の中では比較的恵まれた境遇にあった人だ。
幼い頃は教育を受けさせてもらっているし(それが逃亡生活にも役立っている)、おかげで仕事も他の奴隷よりよくできたようで奴隷保有者からも一目置かれている。また黒人・白人問わず言い寄ってくる男もいることから、容姿も優れていたのだろう。多くの支援者にも恵まれている。
なにより、彼女は運が良かった。だからこそ脱走にも逃亡にも成功している。
極悪非道の「ご主人」として描かれているドクター・フリントにしても、当時の奴隷保有者としてはまだマシな部類だったんじゃないかと思う。頭の中には差別意識が詰まっているとはいえ、リンダに対して暴力や性的暴行をくわえたという描写はほとんどない(書かなかっただけかもしれないが)。医師という職業についていたわけだし、きっと理性的な人物だったのだろう。

そんな(比較的)恵まれた環境にあったリンダですら、今の日本人からすると直視できないほどのひどい目に遭わされているのだ。
いわんや他の黒人奴隷たちのおかれた境遇は、想像するに余りある。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の原著が刊行されたのが1861年。『若草物語』の刊行されたのが1868年。どちらも自伝的作品なので、同じ時代の同じ国の少女の物語である。
しかし、かたやお父様の帰りを待ちながら仲良く助けあって暮らす姉妹であり、かたや逃げだせばねずみに食い殺されるまで折檻される環境で子孫の代まで永遠の奴隷として生きていかなければならない少女の物語。
北部と南部、白人と黒人というだけでこれほどのちがいがあると考えると、なおいっそう奴隷制の残酷さが浮き彫りになる。



特に印象に残ったのはこの文章。
 読者はわたしの言うことを信じても良いかもしれない。わたしはわたしの知っていることしか書かないから。いやらしい鳥ばかりが入った鳥かごで、二一年間も暮らしたのだから。わたしが経験し、この目で見たことから、わたしはこう証言できる。奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ。それは白人の父親を残酷で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。黒人に関しては、彼らの極度の苦しみ、人格破壊の深さを表現するには、わたしのペンの力は弱すぎる。
 しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊に気づいている奴隷所有者は、ほとんどいない。葉枯れ病にかかった綿花の話はするが我が子の心を枯らすものについては話すことはない。

この本を読了した後では、「奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ」この言葉がなおいっそう重くのしかかる。

黒人奴隷たちを虐待する白人も、そのほとんどは奴隷制がなければ、穏やかで礼儀正しい人たちでいられたはずだ。
奴隷制があり、生まれたときからその制度にどっぷり浸かっていたからこそ、彼らは冷酷で無慈悲で不節操な生き方をすることになった。それは彼ら自身にとってもすごく不幸なことだ。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の中で最大の悪役として描かれるドクター・フリントも、奴隷制度がなければむしろ人徳のある医師として生きていたんじゃないかと思う。
人を人として扱わないことは、虐げられる側だけでなく、虐げる側の心をも蝕んでいく



この本、一度は自費出版で刊行されたものの大きな話題にはならず、人々からほぼ忘れられた。
しかし出版から126年後に歴史学者がこの本がノンフィクションであることを明らかにし、それをきっかけにアメリカでベストセラーになったそうだ。
そして、訳者はプロの翻訳者ではなく、翻訳とは無関係の会社員。たまたま原著に出会い、翻訳しようと思い立ったのだという。

たまたま無事に逃げることができた黒人女性が書いた本が、たまたま学者の目に留まって再販され、たまたま一人の日本人が出会ったことでこうして日本語で読むことがができる。
偶然のつなわたりのような経緯をたどってこの良書が文庫として読めることに心から感謝したい。

こういう世界を見せてくれるからこそ、本を読むのはやめられない。

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2019年1月31日木曜日

【読書感想文】"無限"を感じさせる密室もの / 矢部 嵩〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

矢部 嵩

内容(e-honより)
卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。

(ネタバレ含みます)

女子中学生が意識を失い、気づいたときには閉ざされた部屋の中にいた。ドアには貼り紙。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”

……と、コンビニに置いてある安っぽいマンガみたいな手垢にまみれた導入だなと思っていたが、さすがは奇才・矢部嵩。安易なデスゲームにはさせない。

米澤穂信『インシテミル』を読んだときにも感じたんだけど、そんなに都合よくサバイバルゲームはじまらねえだろっておもうんだよね。
ふつうの人にとって「人を殺す」って相当なハードルの高さだよ。極限まで追い詰められないと殺し合いなんてはじまらねえよ。「(文字通り)死んでも人は殺さない」って人も相当するいるとおもうよ。「殺られる前に殺るのよ!」なんて発想にいたるのはむしろ少数派なんじゃねえの?
なのにフィクションの世界だと、変なマスクかぶった人が「さあゲーム(殺し合い)の始まりです!」と言うだけで、あっさりその無理めな設定が通用してしまう。

こういうところに常々不満を抱いていたので、〔少女庭国〕の展開には感心した。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”
の貼り紙に気づいた女生徒たちは、けれどいっこうに殺し合いをはじめない。
いつ始まるんだと思っていると、ついに殺しがはじまるが詳細な描写はなくたったの数行であっさり説明されるだけで、そのまま話は終わってしまう。
ん? なんだこりゃ? 幽遊白書の魔界統一トーナメントか?

……と思っていたらはじまる第二章。
そこにはまた別の部屋に閉じこめられた女子中学生がおり、壁にはやはり貼り紙が。

これが延々続く。
この世界では部屋は無限にあり、閉じこめられた女子中学生も無限に存在する。
となると、女子中学生がとる行動も無限にあるわけで、〔少女庭国〕はその ”無限” を書いてみせる。

二人で殺しあう世界もあれば、十人で殺しあう世界もある。殺しあわずにそれぞれ死んでゆく世界もあれば、どんどん人や土地が増えてゆく世界もある。
中にはこんな一大文明が発達する世界も。
 フィクションの他では語り部が芸能として親しまれた。現世の景色を忘れかけるほど長くこの地で過ごしてしまったものに対し目に浮かぶように在りし日の自分たちを思い出させる語り部の存在は貴重だった。聞けば思い出すしかし自分からは掘り起こせないような些細な日常や学校や町の記憶を引き出すことの出来る饒舌なべしゃりと豊富なあるあるネタの持ち主はとりわけ希少で、歌、絵などのトップレベルのものと並んで人気を集めた。いずれも初めは労働階級のガス抜きとしての意味合いが大きかったが、やがて暇を飽かすようになった支配者層が芸の上手を囲い込み独占したり、特に気に入った芸者のパトロンとなって庇護したり、抱える芸人の質や量で権威を示したり、それらの女子を集め社交を行うようになっていった。奴隷階級から一芸を示しランクアップを果たす例もあり、そうした一連の風潮から娯楽の作り手を志願するものが大量に生まれ、最終的には需要を供給が上回る様相を呈し、花形の裏で人気のない作り手から順に食われていく生存競争を生んだ。研究班も娯楽係も後室の卒業生が奴隷身分から抜け出すようなシステムを生み出す契機となったが、そのことは次第に社会基盤の弱体化を招いていった。

もちろん本のページは有限なので実際には有限なのだが、ありとあらゆる行動パターンが書かれることで、まるで無限の選択肢をすべて提示されたかのような気になる。

「クローズドな世界」を描いていたはずなのに、気づいたら時間も場所もシチュエーションもどんどん拡大して、いつのまにか無限を目の当たりにしているのだ。
なんともすごい小説だ。よくこんな奇天烈な話を書こうと思ったし、出版しようと思ったものだ。

とはいえ、「すごい」と「おもしろい」はまたちがうわけで、物語としておもしろかったかというとそれは微妙なところでして……。

2019年1月30日水曜日

【読書感想文】部活によって不幸になる教師たち / 内田 良『ブラック部活動』

ブラック部活動

子どもと先生の苦しみに向き合う

内田 良

内容(Amazonより)
「自主的、自発的な参加」に基づく、教育課程外の制度である部活動。しかし、生徒の全員加入が強制され、土日も行うケースは珍しくない。教師も全員顧問制が敷かれ、サービス残業で従事する学校は多い。エビデンスで見る部活動のリアルとは?強制と過熱化から脱却するためには?部活動問題の第一人者、渾身の一冊!週に3日2時間!土日は禁止!「ゆとり部活動」のすすめ。

ぼく自身、「熱心な部活動」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。

中学校では陸上部。
陸上部というのは基本的に個人競技なので、運動部のわりに「やりたいやつはやればいい」という雰囲気が強い。リレーや駅伝を除けば、サボっても自分の成績が悪くなるだけだから。
顧問があまり熱心でなかったこともあって、ほどほどに手を抜きながらやっていた。

高校では「ちょっとおもしろそう」ぐらいの軽い気持ちでバドミントン部に入ったものの、コーチ(顧問とはべつにコーチなる存在がいた)が怒鳴りまくっている部だったのでこりゃたまらんと思って二週間で退部した。こっちはべつに全国大会に行きたいわけじゃなく羽根つきを楽しみたいだけだったのだ。
で、野外観察同好会という部(同好会という名だが一応部扱いだった)に入会。ここは居心地が良かった。なにしろ三年間で活動日が四日しかなかったのだ。最高。

かくして高校時代は友だちの家でだべったり、勝手に弓道部にまぎれこんで気楽に弓をひいたり、本屋に足しげく通ったり、陸上部にまぎれて走りたいときだけ走ったり、公園でサッカーや野球やテニスやバドミントンをしたり、学校近くの川でパンツ一丁になって泳いだり、最高の放課後生活を送っていた。
あんな充実した時間はもう味わえないだろう。部活をやらなくて心底よかったと思っている。



というわけで個人的には部活反対派だが、他人に「やめなよ」とは言わない。やりたい人は好きにしたらいいと思う。
中学生のときは「部活をやらないと内申点が……」みたいな脅し文句を聞いて真に受けていたが、今思うとくだらないと思う。内申点なんて「同じ点数だったら部活を真面目にやってたほうを合格させる」ぐらいの話だろう。受験のために部活をやるんだったらその時間に勉強するほうがずっと効率的だ。

しかし「部活はやりたい人だけやればいい」というのは生徒の話であって、教師にとって部活はそう言えるものではない。

仲の良い友人がいた。月に一、二度は遊ぶ間柄だった。酒の席が好きで、飲み会に誘えばよほどのことがないかぎりは来てくれた。
だが彼が公立高校の教師になってからはほとんど会っていない。年に一度も会わない関係になってしまった。
なにしろまったく時間がないのだから。
平日は遅くまで仕事、土日も部活。平均すると週に6.5日ぐらいは仕事をしないといけないと言っていた。これでは遊ぶ時間などとれるはずがない。

彼はろくにやったこともないバスケットボール部の顧問にさせられ、土日も部活に参加。
もらえるのは交通費と昼食代で消えてしまう程度の手当だけ。
「そりゃひどいな」とぼくは言ったが、彼は「若手は断れないからなー」とむなしそうにつぶやくだけだった。
彼は部活によって不幸になっているように見えた。

彼だけが特殊なのではない。ごくごく平均的な教師の姿だ。
 想像してほしい。もし職場の上司からあなたに突然、「明日から近所のA中学校で、バレー部の生徒を指導してほしい」とお願いがあったら、あなたはどう返すだろう?
 「私には、そんな余裕ありません」とあなたが答えれば、「いや、もうやることになってるから」と返される。「バレーなんて、ボールをさわったことくらいしかないです」と抵抗したところで、「それで十分!」と説得される。
 そして条件はこうだ──「平日は毎日夕方に所定の勤務時間を終えてから2~3時間ほど無報酬で、できれば早朝も所定の勤務が始まる前に30分ほど。土日のうち少なくとも一日は指導日で、できれば両日ともに指導してほしい。土日は、4時間以上指導してくれれば、交通費や昼食代込みだけど一律に3600円もらえるから」と。
こんなむちゃなことが日本中の学校でまかりとおっている。



部活と教師をめぐる問題については、大きくふたつある。

ひとつは「やりたくなくてもやらないといけない」という問題であり、
もうひとつは「やりたい人がどこまでもやってしまう」という問題だ。

いやいややらされるのもよくないが、どこまでもやってしまうのもよくない。必ずどこかにひずみが出る。

『ブラック部活動』には、教師のこんな言葉が紹介されている。
だって、あれだけ生徒がついてくることって、中学校の学級経営でそれをやろうとしても難しいんですよ。でも、部活動だと、ちょっとした王様のような気持ちです。生徒は「はいっ!」って言って、自分についてくるし。そして、指導すればそれなりに勝ちますから、そうするとさらに力を入れたくなる。それで勝ち出すと、今度は保護者が私のことを崇拝してくるんですよ。「先生、飲み物どうですか~?」「お弁当どうですか~?」って。飲み会もタダ。「先生、いつもありがとうございます」って。快楽なんですよ、ホントに。土日つぶしてもいいかな、みたいな。麻薬、いや合法ドラッグですよ。
これはたしかに気持ちがいいだろう。だから他のことを投げ捨ててでものめりこんでしまう。

なぜ歯止めがきかないのか。それは部活が「グレーな存在」だからだ。
授業に関しては教育方針が細かく定められている。週に何時間、年間に何時間、どういった教科書を使ってどこまでやるのか。日本全国の公立中学校でほぼ同じ教育が受けられるようになっている。

だが部活に関しては明確な規定がない。形式としては「放課後の時間を利用して教師と生徒が勝手にやっている」という扱いだ。
規定がないということは限度がないということだ。朝五時から夜の十時までやったとしても、生徒・顧問・保護者がそれぞれ納得しているのであればそれを規制する決まりはない。
どんなに熱心な教師が訴えても「数学の授業時間を週三十時間にしてください!」という要望は通らないが、野球部の練習を週三十時間やれば熱心な先生だと褒めたたえられる。

ぼくの中学生時代、前日の部活や朝練で疲れはてて、授業中に寝ている生徒が多かった。
学生の本分は学業なのだから、勉強に支障の出るような部活はするべきではない。
教師だって部活に割く時間があるのなら休息するなり授業をより良くすることに使うほうがいいはずだ。
こんなあたりまえのことが守られていないのが現状だ。

明らかに狂っているのだが、あまりにも長く続きすぎていて、深く関わっている人ほど狂っていることに気づけなくなっている。



最近、あちこちの学校で教師が不足しているという話を聞く。
そりゃそうだろう。ぼくにとって教師なんてぜったいにやりたくない職業のひとつだ。子どもに何かを教えることは好きだが、そのために自分の時間や命を削りたくない。
 勤務時間が週60時間というのは、おおよそ月80時間の残業に換算できる((60時間-40時間)×4週間)。そして週65時間の勤務つまり月100時間の残業を超えるのは、小学校で17.1%、中学校で40.7%にのぼる(図1の②よりも下方に位置する教員)。多くの教員がいわゆる「過労死ライン」の「月80時間」「月100時間」を超えていることになる。
 基本的に小中ともに厳しい勤務状況である。そのなかでもとりわけ、中学校教員の6割が「月80時間」の残業というのは、まったくの異常事態である。
半数以上が過労死ラインを超えている職場。
誰がどう見ても異常だ。制度に欠陥があるとしか考えられない。
しかし外から見たらどれだけ異常であっても、渦中にいる教師たちにとってはこれが日常なんだよね。

もちろん月80時間の残業のすべてが部活のせいではないが、半分以上は部活が原因だろう。
一刻も早く教師から部活指導の義務をひっぺがしてやらないと、教師が疲弊し、人員は不足し、学校教育は劣化してゆく。誰も得をしない。

こうして部活指導に警鐘を鳴らす本も出て、少しずつ世の中は変わりつつあるように見える。
ぼくは、部活を断る教師を応援したい。

学校は勉強をするところなんだから、教師も生徒も、部活ではなく勉強で評価される"あたりまえ"の学校になってほしいなあ。

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2019年1月29日火曜日

【読書感想文】そう、"まだ"なだけ / 『吾輩は童貞(まだ)である』

吾輩は童貞(まだ)である

童貞について作家の語ること

筒井康隆 平山夢明 中島らも 原田宗典 武者小路実篤 谷川俊太郎 森鴎外 小谷野敦 室生犀星 中谷孝雄 結城昌治 開高健 車谷長吉 穂村弘 しんくわ 寺井龍哉 みうらじゅん 横尾忠則 澁澤龍彦 三島由紀夫 川端康成 バカリズムのオールナイトニッポンGOLD

収録作品
・筒井康隆 「現代語裏辞典」
・平山夢明 「どんな女のオッパイでも、好きな時に好きなだけ自由に揉む方法」
・中島らも 「性の地動説」
・原田宗典 「夜を走るエッチ約一名」
・武者小路実篤 「お目出たき人(抄)」
・谷川俊太郎 「なんでもおまんこ」
・森鴎外 「青年(抄)」
・小谷野敦 「童貞放浪記」
・室生犀星 「童貞」
・中谷孝雄 「学生騒動」
・結城昌治 「童貞」
・開高健 「耳の物語(抄)」
・車谷長吉 「贋世捨人(抄)」
・穂村弘 「運命の分岐点」
・しんくわ 短歌
・寺井龍哉 短歌
・みうらじゅん 「東京アパートメントブルース」
・横尾忠則 「コブナ少年(抄)」
・澁澤龍彦 「体験嫌い」
・三島由紀夫 「童貞は一刻も早く捨てろ」
・川端康成 「月」
・バカリズムのオールナイトニッポンGOLD 「エロリズム論」

武者小路実篤、森鴎外、三島由紀夫、川端康成などの文豪から童貞界の大家であるみうらじゅんまで、さまざまな人たちが「童貞の思い」について書いた文章を集めたアンソロジー。
なかなか読みごたえがあった。どんな文豪においても「童貞卒業」というのは男の一生において避けては通れないメインイベントなのだ。
いいアンソロジーだ(しかし編者の名前がないのはなぜ?)。



まずこのタイトル『吾輩は童貞(まだ)である』についてだが、実にいいタイトルだ。童貞と書いて"まだ"と読ませるのはすごく優しい。
そう、「まだ」なだけなんだよね。だけど童貞にとっては童貞と非童貞の間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。童貞にとっては、「一線」を超えた先にはめくるめく夢の世界が広がっているような気がするのだ。

このごろは聞かなくなったがぼくが子どものころは、知的障害児のことを「知恵遅れ」と言っていた。
今だと差別用語なのかもしれないが、「知恵遅れ」には「差はあるが決定的な断絶があるわけではない」というような寛容さを感じる。乳歯が抜けるのが遅い子や声変りが遅い子がいるように、違いはあれど彼我は地続きになってるというニュアンスを感じる。
「健常者」「障害者」と分けてしまうと、もうまったくべつの人間、という感じがしてしまう。当事者がどう思うかは知らないけど。

「童貞(まだ)」にも同じような寛容さを感じる。



中島らも『性の地動説』より。
そして、そこには今まで僕たちが見聞きしていた「肉体関係を結ぶ」だの「体を合わせる」だの「抱く」だの「寝る」だのの文学的抽象的表現はなくて、「陰茎を膣に挿入する」ということがはっきりと書かれていた。子供たちはみんな一様にショックを受けたようだった。一瞬の沈黙が通り過ぎたあとに、けんけんごうどうの大論議が始まった。まず最初に出た意見は、「これは嘘だ」というものだった。たとえば小説や映画の中では忍術や魔法やSFなどに超常的現象がたくさん出てくるが、現実にはそんなことは起こらない。それと同じで、この石原慎太郎の書いていることは、想像力が生みだした小説上のフィクションだという説である。なぜならば、そんなえげつないことを人間がするわけがない。おしっこをするところにそんなものがはいるわけがない。そんなことをしたら相手の女の人は血が出て死んでしまうにちがいない、というのである。この意見には多くの子がうなずいた。一人、中世の地動説に近いような説を持ち込んだ松野君はたいへんな苦況に立たされたのである。必死になって論厳しようとするのだが、いかんせん松野君が握っている証拠はこの石原慎太郎の本一冊だけである。自説を証明するには決定的にデータが欠けているのだった。
ぼくも小学四年生のときに同じような論争をしたことがある。
なぜか男女数人で話しているときに「セックスって知ってるか?」という話になったのだ。その場にいた誰もが、セックスに関する正確な知識を持ちあわせていなかった(知らないふりをしていただけかもしれないが)。

そこで我々が出した知識は
「男と女が重なるらしい」「すっぽんぽんでやることらしい」「エックスの字に交わるそうだ」
というものだった。
”エックスの字” に関しては完全なるデマだが、たぶん ”セックス” という音に引っ張られたガセネタなのだろう。

そして、「そんなことして何がおもしろいんだ?」と口々に言いつつ、ぼくの内心には「何がおもしろいのかはわからんがやってみたい」という思いが湧いてきていたのだった。
その気持ちはそれ以後もずっとぼくの中にある。父親となった今でも、何がおもしろいのかわからない。でもやってみたい。



三島由紀夫は『童貞は一刻も早く捨てろ』の中でこう書いている。
 そもそも男の人生にとって大きな悲劇は、女性というものを誤解することである。童貞を早く捨てれば捨てるほど、女性というものに関する誤解から、それだけ早く目ざめることができる。男にとってはこれが人生観の確立の第一歩であって、これをなおざりにして作られた人生観は、後年まで大きなユガミを残すのであります。
この意見にはぼくは反対だ。
たしかに童貞は女性というものを誤解している。だが童貞を卒業したからといって女性が理解できるようにはならない。

はじめてセックスをした男は「この程度のもんか」と思う。
しかし、そこから「この程度のものに人生の多くを費やすのはもったいない」と思う男はそう多くない。
「この程度のものならもったいをつけずにどんどんやればいい」と思う。または「今回はこの程度だったがどこかにもっとすばらしいセックスが待っているのではないか」と夢見る。
童貞の誤解から解けても、男は一生勘違いをしつづける生き物なのだ。

だから、いろんな作家が童貞について語るこの本を読んで「あーそうそう。こんな気持ちなんだよね」と思うけれども、「ほんと童貞のときってバカだったよなあ」と笑い飛ばすことができない。だって今も同じような気持ちを持ちつづけてるんだもん。

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2019年1月25日金曜日

【読書感想文】アヘン戦争時の中国みたいな日本 / 岡田 尊司『インターネット・ゲーム依存症』

インターネット・ゲーム依存症

岡田 尊司

内容(e-honより)
最新の画像解析により、衝撃的な事実が明らかになった―インターネット依存者の脳内で、覚醒剤依存者と同様の神経ネットワークの乱れが見られたのだ。二〇一三年、アメリカ精神医学会も診断基準に採用。国内推定患者数五百万人の脳を蝕む「現代の阿片」。日本の対策は遅れている。

少し結論ありきで論調が進んでいて、データとしては疑わしいものも多い。
「スマホ依存の人ほど脳の活動が鈍い」みたいな話が再三出てくるが、因果関係が逆なのかもしれないし。

とはいえスマホやゲームにどっぷりはまるのは良くない、ということについては異論がないだろう。
スマホにかぎらずなんでもやりすぎはよくないのだが、スマホゲームに関しては「場所や時間を問わず使える」「依存しやすいように作られている」という側面もあるため、とくにはまりやすいし、深刻化しやすい。

ぼくから見ると、電車のホームでスマホゲームをしながら歩いている人なんかはもう完全に暇つぶしの域を越えていて依存症としか思えない。
歩きスマホをするぐらい熱中するのを依存症の定義としたら、日本人の二割ぐらいは依存症じゃないだろうか。
阿片戦争直前の中国は男性の四分の一がアヘン中毒だったといわれているので、もうそれに近いぐらいのスマホ中毒者がいることになる。

だがアヘンとちがい、スマホやゲームへの依存は今の日本では大きな問題になっていない。
 行為の依存症として最初に認められたのは、ギャンブル依存症である。ギャンブル依存症の場合も、疾患として認められるまでには時日を要したが、社会がその弊害を認識していたことで、まだ抵抗は小さかった。ただし、病名はできても、本当の意味で病気」だという認識は薄かった。それを変えたのが、脳機能画像診断技術の進歩である。それによって、脳の機能に異常が起きていることが明らかとなり、今では治療すべき疾患という認識が確立されている。保険適用を受けることもできる。
 それに対して、インターネット依存やゲーム依存の場合には、気軽に楽しめる娯楽や便利なツールとしてのメリットの部分が大きく、教育や社会、文化に恩恵をもたらす希望的な側面がむしろ強調されてきた。「社会悪」とされるギャンブルや麻薬といったものとでは、そもそもその位置づけが大きく違っていたのである。それだけに、ギャンブルや麻薬依存と変わらない危険性をもつなどということは、なかなか受け入れられなかったのである。
スマホやオンラインゲームは麻薬や覚醒剤のように法に触れるものではないし、タバコのように周囲に迷惑をかけるものではない。
それが逆に、依存症という問題を認識しづらくさせてしまう。


ぼくが前いた会社に、オンラインゲームによく課金をしている人がいた。
どれぐらい課金しているのか訊いたことがある。その人が「多い月だと十五万ぐらいいっちゃいますね~」と笑いながら話すのを聞いて、ぼくを含めその場にいた人たちはドン引きしていた。

後で「あれはヤバいよね」「ゲーム廃人じゃん」「しかもあの人結婚してて子どももいるのに」とみんなでささやきあった。
大金持ちなら月に十五万課金したって屁でもないんだろうが、同じ会社にいるぐらいだから給料もだいたいわかる。どう考えたって課金しすぎだ。
しかも額の多寡はあれど、毎月課金しているという。

だが、誰も本人に「やめたほうがいいですよ」とは言わなかった。
いい大人が自分の意思でやっていることなのだから他人がとやかく言うべきではない。それは大人としては正しいふるまいかもしれないが、すごく不誠実な対応だったではないだろうか。本人に嫌われてでも、止めてあげるべきだったのかもしれない。
どう考えたって月に十五万の課金はやりすぎだ。娯楽やストレス発散といった段階を超えている。

しかし仮にぼくが「ぜったいやめたほうがいいですよ」と言ったって、おそらく彼は「そうですね」と受け流して課金を続けるか、「余計なお世話ですよ」と言ってぼくと距離をとるかのいずれかだっただろう。
 一時的な熱中とは異なるまず理解しておく必要があるのは、単なる過剰使用と依存症は、質的に異なるものだということだ。離脱症状や耐性といった現象は、心理的なレベルというよりも、生理的な現象であり、身体的なレベルの依存を示す証拠とされるものである。そのレベルに達すると、報酬系の機能が破綻することで、理性的なコントロールは不能に陥り、快楽や利得より苦痛や損失が大きくなっていても、その行為をやめられなくなる。
「一過性の熱中なら、悪い影響が出てくると、その行為にブレーキをかけるというフィードバックが働く。ところが、依存症が進んでくると、このフィードバックの仕組みが失われ、「もうダメだ」「現実は嫌なことばかりだ」「もうどうでもなれ」と、逆にアクセルを踏んで、現実逃避を加速させることも多い。これが、結果のフィードバックの消失である。使用するためなら家族を欺くことも辞さず、現実の課題は後回しにし、学業や職業、果ては自分の将来を棒に振ってさえ、痛痒を感じなくなる。ここまでくると、それはただ「はまっている」というレベルの状態ではなく、完全な病気の状態なのである。脳の報酬系の機能に異常が起きていて、もはや放っておいても元に戻らない状態に陥っているのだ。
もうこれは完全に病気だ。
もうやっても楽しくない、でもやらないと苦痛を感じる。そしてやれば確実に悪い方向に行くとわかっていながら突き進んでいくのだから、破滅願望に近い。

こういう状態に陥っている人は、相当いると思う。そしてこれからもどんどん増えていく。
個人の問題ではなく社会問題として、法律で「月額課金上限額を〇円までとする」とか定めないかぎりは、依存症患者は増えていく一方だろう。
だがはたして政治家にそれができるのかというと、まあ無理だろうな……。ゲームをさせることは(短期的な)カネになるもんな。
長期的に見たら国家の大きな損失になるのはまちがいないんだけどな。


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2019年1月18日金曜日

【読書感想文】今よりマシな絶望的未来 / 村上 龍『希望の国のエクソダス』

希望の国のエクソダス

村上 龍

内容(e-honより)
2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった――。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編。

村上龍という作家のキャラクターはあまり好きじゃないんだけど、この人の書く小説は超一流だと認めざるをえない。
うまい。序盤に出てくる「バランスの悪いシーソー」の比喩なんか絶妙の表現だ。
うまいだけじゃなく熱量もすごい。

中学生の反乱小説といえば、宗田理『ぼくらの七日間戦争』だ。
ぼくは中学生のときに『ぼくらの七日間戦争』を読んで、「なんかちがうな」とおもった。登場人物がみんなつくりものっぽいのだ。おっさんの頭の中にある理想の中学生、という感じがした。作者の「おれは大人だけど中学生の気持ちがわかるぜ」という感じが伝わってきて気持ち悪かった(恩田陸の『夜のピクニック』にも同じものを感じた)。

『ぼくらの七日間戦争』には、中学生のこわさ、残忍さ、不安がまるで書かれていなかった。意図的に書かなかったのかもしれないが、完全ファンタジーにしたいならキャラクターは中学生じゃなくて小学生のほうがいいと思う。


ぼくにとっていちばんこわい存在は、中学生だ。
以前、夜中に治安の悪い地域をひとりで歩いていたとき、道の向こう側から中学生の集団がやってきた。
二十人ぐらいの中学生が自転車に乗ってやってきて、ぼくとすれちがったのだ。
ただすれちがっただけなのに、めちゃくちゃこわかった。殺されるかもしれないとおもった。なぜなら相手が中学生だったから。
たとえば二十歳ぐらいの悪そうなやつとか本職のヤクザとかなら、存在としてはこわいけど「相手を刺激しなければ大丈夫だろう」とおもう。「よしんばつっかかってきたとしても、最悪、金を渡せばなんとかなるだろう」という気持ちもある。「話せばわかる」というか。こちらがめいっぱい譲歩すれば一応合意はできそうだ。

しかし中学生集団は何をするかわからない。何の理由もなく殴ってきそうだし、一度火が付いたらこちらが金を出したとしても許してくれなさそうな気もする。
力はあるのに損得だけで動かない(つまり何をするかまったく読めない)、それがぼくにとっての中学生のイメージだ。
じっさい、自分の中学生時代をふりかえってもそういうところがあった。
何か訴えたいことがあるわけでもなく、何かを手に入れたいわけではなく、なのに社会規範に反旗を翻したくなる。中学生とはそういう時期なのだ。

『希望の国のエクソダス』で描かれる中学生は、最初から最後まで大人にとって理解不能な存在だ。
彼らが何のために何をやろうとしているのか、とうとう最後までわからない。これはとても誠実な書き方だ。大人が中学生を理解するのは不可能だ。彼ら自身だってわかっていないのだから。
それは「体制への反抗」なんて言葉で片付けられない。反抗ならどちらに向かっているのかがわかりやすいが、中学生の行動は原子があっちこっちにランダムな運動をしているようなものだ。それは外から見ていると枠を広げようとしているようにも見えるが、原子自身にそういう意思は存在しない。



「この国には何でもある。ただ、『希望』だけがない」
『希望の国のエクソダス』で、国会に姿を現した中学生のポンちゃんがこう語るのは、作中時間で2002年のことだ。
彼らは学校に行くことをやめ、ネットワークをつくり、経済や技術的な力をつけてゆき、日本という国から距離をとろうとする。

さて今、現実の世の中は2019年。
状況は何も変わっていない。いや、悪くなっているのかもしれない。
不況は一応脱出したことになっているが、ほとんどの人の暮らしぶりは良くなっていない。少子化、高齢化、国家財政の悪化、年金制度の破綻、貧富の拡大。先を見ると悪い材料しかない。
「自分は今後いい生活を手に入れてみせる」と思える人はいても、「国民全体の暮らしがこれから良くなっていく」と信じている人はもう今の日本にはひとりもいないんじゃないだろうか。未来の生活が悪いというのは今が悪いよりも絶望的かもしれない。

ひと昔前は閉塞感という言葉が使われていたが、もう「閉塞」の段階すら通りすぎてしまった。悪い方向に転がっていくことが確定しているのだから。閉塞のほうがまだマシだったかもしれない。
 ポンちゃんは法律のことを話した。つい、二、三日前に由美子が話してくれたことに似ていた。人材の国外流出こそがこれからの最大の問題だと、その朝、由美子はヨーグルトにマーマレードを入れて食べながら言ったのだった。倒産や失業は深刻な問題だが、人材が残っていれば日本経済はいつか立て直すことができる。この数年で、日本の銀行や証券会社、精密機械や電気、化学産業などから、有能な人間が続々と逃げ出している。困ったことに、これからも日本に残っていて欲しい人材はど、海外でも仕事ができる。これからの日本に必要なのは、海外でも仕事ができるような何らかのスキルを持った人間たちだ。公共心がどうのこうのとたわごとを並べるだけのバカは本当は要らない。でも、彼らはどこにも行けないから、ずっとこの国にいるわけだ。どこの国でも何とか生きていけるような人間こそが必要なのだが、有能な人材の国外流出を止めるためには、気が遠くなるほどの時間をかけて法律をいじらなくてはならない。人材の国外流出が本格的に始まってしまったら、たぶんこの国の繁栄の歴史が本当に終わるだろう。
この文章を読んで、ぼくはどこか懐かしいような気がしていた。
そういえば二十年ぐらい前はこんな言説をよく耳にした。日本にいちゃだめだよ、これからは海外に出ていかないと。

でも今、そんなことを言う人はすっかり減った。たぶん理由は三つ。

ひとつは、誰にとってもあたりまえすぎてあえて言う必要がなくなったこと。日本が今後力を持つことなんてありえないと誰もが知っているから。

ふたつは、そういうことを言う人たちはもうとっくに日本から出ていってしまったこと。今の日本には世界に出ていけない人しかいない。

そしてみっつめは、海外に出たって似たりよったりな状況だと気づいていること。日本の未来はたしかに暗澹たるものだが、他の国だって遅かれ早かれ同じ状況に陥ることが目に見えている。



村上龍氏が『希望の国のエクソダス』で指摘した日本の病理は、哀しいかな、一部では的中し、一部ではもっとひどい状況になった。
『希望の国のエクソダス』の中学生たちはインターネットを駆使して日本経済のありかたに一石を投じる。当時はまだインターネットは危険なものであると同時に希望だったのだ。
しかし情報の高速化・簡便化・グローバル化は、力のある者により大きな力を与えるということがわかってきた。この流れは当分変えられないだろう。

ああもう考えるほど絶望的な気持ちになってくる。目を背けたくなってくる。

……と、そうやってみんなが未来から目を背けつづけてきた結果が今の日本の状況なんだろうな。

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2019年1月9日水曜日

【読書感想】高齢者はそこまで近視眼的なのか? / 八代 尚宏『シルバー民主主義』

シルバー民主主義

高齢者優遇をどう克服するか

八代 尚宏

内容(e-honより)
急激な少子高齢化により、有権者に占める高齢者の比率が増加の一途にある日本。高齢者の投票率は高く、投票者の半数が60歳以上になりつつある。この「シルバー民主主義」の結果、年金支給額は抑制できず財政赤字は膨らむばかりだ。一方、保育など次世代向けの支出は伸びず、年功賃金など働き方の改革も進まない。高齢者にもリスクが大きい「高齢者優遇」の仕組みを打開するにはどうすべきか。経済学の力で解決策を示す。

「シルバー民主主義」という言葉を耳にするようになって久しい。
人口における高齢者の比率が高まることで、一人一票の選挙において高齢者受けする政策ばかりが選ばれ、若者の意見が通らないという現象のことだ。
結果的に若者が投票に行くメリットが減り、投票率の高い高齢者の意見がより通りやすくなるというスパイラルも招く。

そんな「シルバー民主主義」が招く弊害を鋭く指摘した本。
ちなみに著者は執筆当時七十歳だったそうだ。シルバー世代の人がこれを書いたというのは非常に意義のあることだとおもう。

すでに今の日本はシルバー民主主義がまかりとおっており、これからどんどん加速してゆく。
ぼくは三十代半ばの自他ともに認める中年なので、「老い先短い連中が将来のことを決めようとするんじゃねえよ」という思いと「そうはいっても自分が高齢者になったときに自分たちに不利になる政策を選べるだろうか」という思いの両方を持っている。
一年生のときは球拾いをさせられて「なんて身勝手な先輩連中だ」とおもっていても、自分が三年生になったら「伝統だから」といって一年に雑務を押しつけてしまうように。



高齢者の意見が無駄だと言うつもりはないけれど、分野によっては若者の意見を重視したほうがいいこともある。

たとえば、夫婦別姓選択制の導入について意見を求めると、今は賛成派と反対派が拮抗している。
だが年代別でみると傾向ははっきり分かれていて、二十代や三十代は賛成派が多く、六十以上は反対派が多い。
同性婚に対する考え方も同じ傾向を示している。
反対派も多いので法改正が進まないのが現状だが、よく考えたらずいぶんおかしな話だ。
六十代以上よりも二十代三十代のほうが、今後結婚する可能性はずっと高い。当事者が「いいじゃないか」と言ってるのに、もはや結婚とは無縁に近い高齢者が「いいや許さん!」と反対しているわけだ。

シルバー民主主義では、当事者の意見よりも外野の意見のほうが重視される。
結婚にかぎらず子育てや教育や働き方など、高齢者にとって関係の薄い論点についても、高齢者の意見のほうが重要視されることになる。
野球部のキャプテンを決める投票を、野球部以外も含む全校生徒でやるようなものだ。どう考えたっておかしいのに、それがずっと続いているのがシルバー民主主義の現状だ。
 子どもの貧困は、その親である働き手世代の低所得化の結果であり、世代を超えた貧困の再生産をもたらすなど、社会的な影響はむしろ高齢者の貧困よりも深刻である。
 このため、「子どもの貧困対策法」が二○一三年に制定されたものの、そのための予算措置は限られたものとなっている。日本の社会保障費用のうち、高齢者向けがGDPの一三%を占めるのに対して、子どもなど家族のための給付は一%強に過ぎない(国立社会保障・人口問題研究所2015)。米国と並んで低い比率であり、二割から五割を占めている欧州主要国との格」差は大きい(図表2-5)。
 高齢者への社会保障移転が著しく高い要因は、年金や医療・介護などの社会保険が、大きな比重を占めていることがある。これらは独自の保険料財源をもつことで、一般財源にのみ依存している子どもや家族への給付を圧倒している。これに対抗するためには、「子育てのための社会保険」を創設すればよいというのが、ひとつの論理的な帰結となる(八代・金米・白石2005)。
子どものための予算を削って高齢者にお金を注ぐ国に明るい未来があると誰がおもえるだろうか?



今の税制では、専業主婦世帯が優遇されている。いわゆる「150万の壁」だ。
そのせいで能力も時間もあるのに働きに出られない女性も多い。まったく時代にあっていない。
 配偶者控除は、それを基準とした企業の配偶者手当(この制度をもつ企業平均で月一万六三○○円)と連動していることから、専業主婦が就業すると一時的に家計所得が減少する問題もある。もっとも、企業経営の国際化が進むなかで、労働者の企業への貢献と無関係な配偶者手当を廃止する動きもあるが、大部分の企業では過去の慣行がそのまま維持されている。このように、主として「女性が働くと損をする」制度が維持されることは、労働力の減少が経済成長の抑制要因となる高齢化社会では、大きな社会的コストを生むものとなる。
 最近の税制調査会では、配偶者控除を廃止することによる専業主婦世帯の負担増を避けるためとして、子ども控除の拡大や配偶者の就業にかかわらず適用される「夫婦控除」への置き換えなどの提案がなされている。本来、女性の就業抑制の防止のためであれば、税収の増減税なしの範囲内で、配偶者控除を(働く可能性の少ない)子どもへの控除へ振り替えれば、子育て支援に合わせて一石二鳥の政策となる。
きょうび、専業主婦世帯と共働き世帯だったら、どう考えたって生活がたいへんなのは後者だろう(あくまで平均的にはね)。
特に今後労働力不足は深刻化していくし、少子化も加速していくわけだから「共働きで子育てをする世帯」を国家のためにも望ましい形だ。
これを支援するほうがいいに決まっている(ぼくの家が共働き子育て世帯だからってのもあるけど)。

なのに、何十年も前にできた「女性が働くと損をする」制度がまかりとおっているのは、専業主婦の多い高齢者世帯への配慮だと著者は指摘している。これぞシルバー民主主義の弊害。



シルバー民主主義を止める方法は、それほどややこしいことじゃない。

この本の中でも、
地域ではなく世代ごとに代表を選ぶ「世代別選挙区」、
未成年者の票を親が代わりに投じる「ドメイン投票方式」、
若者ほど一票の価値を高める「余命比例投票」などが紹介されている。
こういった仕組みを導入すれば若者の意思は政治に反映されやすくなる。

現行の制度のままでも、今ある政党が「これからの未来をつくる人たちが活躍しやすい政策を実行していきます」と方針を示すだけでいい。

だが問題は「誰がそれをするのか」だ。
誰かがそれをしなくちゃいけない。
でも自分はしたくない。だって高齢者からの票を捨てることになるから。だから政治家は「やらなきゃいけない」と思いつつも後の世代に棚上げしてしまう。
そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」と言いながら。



そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」を積みかさねてきた結果が、現在の膨れあがった国家の借金と崩壊寸前の国民年金制度だ。
この本のかなりの紙数が医療福祉の財政や国民年金のことに割かれている。

誰が見たって日本の状況はヤバい。
借金も年金制度もこのままでいいなんて誰もおもっていない。誰もが「なんとかしなくちゃ」とおもいながら、誰も何もしようとしない。倒産する会社もこんな感じなんだろう。

財政悪化と年金制度の崩壊は、シルバー民主主義に原因を帰す部分が大きい。
票を持っている高齢者の既得権益を壊す部分に手を付けたくない。その一心で、ツケを後世に回しつづけてきた。
なんとかなるさと楽観的な未来を信じながら。
公的年金財政には、五年に一度の財政検証という監査の仕組みがある。二〇〇九年の財政検証時には、デフレの長期化にもかかわらず、賃金上昇率二・五%(二〇〇四年では二・一%)で、積立金の運用利回りが四・一%(同)という、現実からかけ離れた経済指標の水準が、二一○○年まで持続するという前提となっていた。民間の保険会社が、こうした高収益見込みの金融商品を売り出せば、金融庁から指導される。しかし、国営保険会社の乱脈経営に、金融庁のチェック機能は働かない。日本と類似した仕組みの米国の公的年金が、その財務状況について、独立の政府機関から厳格な会計検査を受けていることと対照的である。
本来なら公的な年金だからこそ厳しくチェックすべきだ。
民間の金融商品なら、めちゃくちゃなことをやってその会社がつぶれても「自己責任」で済むが、強制的に加入される公的年金では「イヤなら加入しなければいい」というわけにはいかないのだから、シビアに運用しなくてはならないのに。



シルバー民主主義は今後も加速していくばかりだろう。

声の大きな高齢者に迎合することは、若い人はもちろん、高齢者のためにもならない。
だから嫌われるのを覚悟で半ば強引に変えようとしなければ、永遠に変わらない。

今の政権は働き方改革だとか水道民営化とか国民の大半が望んでいないことを強行採決で推し進めてるけど、そういうんじゃなくて年金制度改革みたいに「いつか誰かがやらなきゃいけないけど誰もやりたがらないこと」を強引にやってほしい。

でも無理なんだろうなあ。
民主主義の限界を感じる。しかしこの話を広げると長くなるしシルバー民主主義とも離れていくからまた別の機会に書くことにする。



シルバー民主主義はよくないよねと言いながら、一方でぼくはおもう。
高齢者ってそんなにバカなんだろうか?

高齢者への負担増には全面的に反対するのだろうか?
みんながみんな「自分が生きている間さえよければ後は野となれ山となれ」と考えているんだろうか?

もちろんそういう高齢者も多いだろう。
でも現状を理解してもらった上で「この部分は高齢者か子育て世代かが負担しないといけないんです。子育て世代にすべてを押しつける道を歩みつづけますか?」と尋ねれば、それでも「自分の生活さえよければあとは知ったことか!」と言いはなつ高齢者はそう多くないんじゃないかとおもう。

「このままだと年金制度自体が破綻しますよ。それよりかは給付額を減らしてでもなんぼかもらいつづけられるほうがマシでしょう」
といえば、理解を示してくれる人は多いはず。

それでも「年金支給額を減らされたら死んでしまう」という高齢者は生活保護など他の制度でサポートすればいい。
生活保護を受給することを恥ずかしいことだとおもうのなら、若者に負担を押しつけて高い年金をもらうことだって恥ずかしいことなのだから。

結局、シルバー民主主義と言いながら真の原因は官僚や政治家が「過去の失敗を認めたくない」ことに尽きるんじゃないかな。
「今までやってきたことは誤りでした。ここからまっとうにやっていきます」と言えば済む話だとおもうんだけど。

謝罪したり誰かに責任を負わせたりしなくていいから、せめて失敗は認めてほしいと痛切に願う。それをしないことには何も変わらない。

2019年1月8日火曜日

【読書感想】マウンティングのない会話もつまらない / 瀧波 ユカリ・犬山 紙子『マウンティング女子の世界』


『マウンティング女子の世界』

瀧波 ユカリ  犬山 紙子

内容(e-honより)
「私の方が立場が上!」と態度や言葉で示すマウンティング女子。肉食女子vs草食女子、既婚女子vs独身女子、都会暮らし女子vs田舎暮らし女子…。思わずやってしまう、そしてちょっとスッキリしてしまう、でも後から思い返すと後悔ばかり。勝ち負けではないとわかっていても、自分の方が上だと思いたい。そんな「女の戦い」の実態に、赤裸々な本音で鋭く迫る!

この対談で語られる”マウンティング”とは、「相手より自分のほうが上だというアピールを善意を装って示す」といった行為。
たとえばこんな会話。
瀧波 そうそう、武装して臨んでしまう女子会と、肩肘張らないでいい全裸女子会がある。
犬山 全裸女子会は楽しいですよね!
瀧波 一方の武装女子会は一見みんな笑顔なんだけど、水面下では殴りあってるイメージ。たとえば、「紙子ってスゴイよね~、いつも堂々としてて、かっこよくて憧れちゃう〜。私もそうなりたいけど~、恥じらいが強すぎるから~。あ~、一度は女を捨ててみたい~」
大山 「えー? でも私はユカリみたいに奥ゆかしいかんじにあこがれてるよ~。ユカリの”一人じゃ何もできない”って雰囲気、イイよね~。男の人がなんでもしてくれそう~。何でも自分でやっちゃう私の無駄な行動力とかホントいらないし~」
瀧波 そんなかんじ(笑)。お互いひたすらほめちぎるスタンスをとりながら、暗に相手をdisって(批判して)自分を上げるという。
犬山 親しい同士が集まる女子会でも、冒頭のマンガのように誰かが結婚した、家を買った、みたいな環境の変化で急に武装女子会になっちゃったり......。
全裸女子!? 最高じゃん!(文章の一部しか読まない人)

それはさておき、ぼくは女子会なるものに参加したことがないんだけど(あたりまえだ)、女子会ではこんなことやってんのか。みんながみんなこうではないんだろうけど。女の世界はたいへんだー。

男同士の会話だと、こういうのはあんまりない。
男は単純だから素直に自慢する。
「結婚はいいよー」とか「おれ今責任ある仕事を任されてるんだよね」とか自分で言っちゃう。
だからあんまりマウンティング合戦というのは起こらない。
謙遜を装って相手をおとしめる、なんて手の込んだことはあんまりしない。相手をおとしめたいときは直截的にやる。
瀧波 あはは。男の人の場合はパッと見でわかるものでマウンティングする傾向があるね。愛人とか、デカい時計とか、筋肉つけるとか。
犬山 女のマウンティングはさりげないですものね。八〇年代は肩パッドや前髪を大きく、九〇年代はどんどん目を大きくしていったけど、今はデカさで勝負はあまりない。
瀧波 盛ってることに気づかれないよう盛ってるから、そのぶん巧妙。でも、男は未だにデカいロゴの付いた服を着てたりするでしょ。言っちゃ悪いけど「バカなんじゃないかと思ってしまう(笑)。
犬山 ラルフローレンのポロシャツのロゴもどんどん大きくなりますしね。
灘波 きっと、デザイナーも「デカくしておさらいいんだ、デカすりゃあ」って(笑)。本当に言葉のマウンティングじゃないんだね。
とにかくわかりやすいんだよね。
自慢するときは誰が見ても自慢だとわかるようにやる。
相手の言うことを否定ばかりする人はいるけど、それだってわかりやすいから周りが相手をしなくなってやりあいにならない。

そもそも男同士の上下関係って「年齢が上」とか「役職が上」とか「収入が多い」とか「力が強い」とかわかりやすいことで決まるから、あんまりマウンティングする必要がないのかもしれない。

女同士だと「向こうのほうがモテるけど仕事は自分のほうができる」とか「華やかな暮らしをしているのは向こうだけどこっちは子どもがいる」とか、成功のパターンが多様なので単純に比較がしにくいのかもしれない。
ぜんぜんちがう土俵でそれぞれ殴りあって四勝六敗、みたいな十種競技がマウンティング合戦なのかも。



はじめのほうは「マウンティング合戦こえー」なんておもいながら読んでたんだけど、中盤から同じような話のくりかえしになって飽きちゃった。
一冊の本にするほどのテーマじゃないんだよなー。

後半にとってつけたように「マウンティングしがちな私たちはどう生きていくのがいいのか」なんて説教も書かれてるけど、そのへんは特につまらなかった。
もともと「こういうことあるよねー」ぐらいの愚痴の言いあいなんだから、むりやり教訓めいたことをつけたさなくていいのになー。

マウンティングというテーマだからか、瀧波さんも犬山さんも相手を気づかいあっている感じで、対談しているのに発展がない。
「こうなんですよ」
「あーそうですよねー」
の応酬。うすっぺらい共感がひたすら続く。
ときには相手の発言を否定したりしないと深みのある対談にならないのに。

その場にいない誰かさんの悪口に終始する、ガールズトークの悪い部分が全面に出たような対談だった。
マウンティングはよくないっていうテーマの本だけど、マウンティングの一切ない会話もつまらないということがよくわかる本だった。

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2019年1月7日月曜日

【読書感想】なんとも地味な傑作 / 岩明 均『雪の峠・剣の舞』

『雪の峠・剣の舞』

岩明 均

内容(Amazonより)
時代の空気が鮮烈に伝わる岩明均歴史作品集出羽国に移封された佐竹家と渋江内膳を描いた「雪の峠」。剣豪・疋田文五郎と仇討ち少女ハルナとの物語「剣の舞」の2編を収録!

『雪の峠』が特におもしろかった。
佐竹家は関ケ原の合戦で西軍(石田三成側)についたせいで、徳川家康によって常陸国(現在の茨城県)から出羽国(現在の秋田県)への国替えを命じられてしまう。慣れない土地でどこに城を建てるかをめぐって家臣たちの意見が分かれ……。

というなんとも地味な題材。
戦国の世が終わり、太平の世の中が始まろうとしている時代。さらに「城をどこに建てるか」という当事者からすると一大事でも無関係な人からすると「どっちゃでもええわ」という争い。

しかし、どっちでもいい争いだからこそ人々の意地やプライドがぶつかりあい、駆け引きや水面下での工作が激しくくりひろげられる。これが群像劇としておもしろい。
さらに渋江内膳という人物を飄々とした姿に描くことや、軍神・上杉謙信の逸話を盛り込むことで、嫉妬が渦まく権力争いをイヤな感じに見せていない。

登場人物は感情をほとんど語らせないが、言動からにじみ出てくるところがいい。良質な時代小説という趣。傑作だ。
これはマンガより小説で読みたいな。
岩明均作品ってたいていそうなんだけどね。『ヒストリエ』も絵はいらないからストーリーだけ早く書いてほしいよ。

ただ終わり方だけは残念。
重臣が殺されて唐突に終わるのでモヤモヤっとした思いだけが残る。これが意図されたものだったらいいんだけど、ただ単に投げだしただけというような印象を受けた。
じゃあどうしたらいいのかというとむずかしいんだけど。その後の佐竹家を長々と書くのもちがうし、やっぱりこれはこれでよかったのかな……。



『剣の舞』は、さほど印象に残らなかった。

天才剣士に弟子入りした人物の復讐譚、というままありそうな題材だったこともあるし、戦のシーンがこの人の絵にあってなかったこともある。
岩明均さんの絵は躍動感とかスピード感とかがないから、激しい戦闘シーンにはあまり説得力がないんだよね。
戦いよりも参謀とか内政とかを描いてるほうがずっとおもしろい。



星新一の小説に『城のなかの人』や『殿さまの日』という作品がある。
太平の世の殿さまの退屈な一日を描いていたり、城の家臣たちが藩の財政に苦しむ様子が活写されていたり、書物方同心という書物の管理をする役職の人の生活が書かれていたり、冒険活劇や人情話とは異なる江戸時代の人々の暮らしが書かれている。

いずれもフィクションだけど、「江戸時代の人たちも今と同じようなことに心を動かされていたのだな」と気づかされる。
同僚が出世するのをおもしろく思わなかったり、この先ずっと同じような暮らしをするのかとため息をついたり、規則と上司の間でがんじがらめになったり。

ツールはいろいろ変わっても、人間ってずっと同じようなことをやってるのかもしれないな。

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星 新一 『殿さまの日』【読書感想】




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2018年12月27日木曜日

2018年に読んだ本 マイ・ベスト12

2018年に読んだ本は85冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』

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ディストピアものの古典的名作。
評判にたがわぬ怪作だった。

ストーリー展開自体は今読むとやや陳腐だけど、圧倒的な説得力を持ったディティールが引きこませる。言語をコントロールすることで思想を封じこめるという発想はすごくよかった。



高橋 和夫『中東から世界が崩れる』

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中東といえば石油とイスラム教、というのが多くの日本人のイメージだろう。ぼくもそうだった。
しかしこの本では宗教対立から離れた視点で中東を語っている。これがすごくわかりやすい。

特にイランの重要性についてはまったく知らなかったなあ。「イラン≒中華」説はおもしろい。



陳 浩基『13・67』

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香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細。

短篇ミステリを読んでいると、やがてイギリス・中国に翻弄される香港という国の変化が見えてくる。
腐敗しきって民衆の敵だった警察が徐々に市民からの信頼を得るが、やがて中国共産党の手先となってまた人々を締めつけるようになる。社会派エンタテインメントの傑作。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』

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読んでいると憤りをとおりこして恐ろしくなってきた。ぼくはこんな前近代的な司法が治める国に住んでいたのか。

これを読むまで司法のことは信頼していたんだよね。政治や官僚が腐敗しても司法だけは良心にのっとって裁いてくれるだろう、と。
この本を読むと、裁判所が権力者を守るための機関になっていることがよくわかる。情けなくってため息しか出ない。はぁ。



春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』

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たったひとりでロバと仔猫と鶏と仔犬と鳩を連れてモロッコを旅した記録。
あえてリスクの高いほうばかり選択してしまう人って傍から見ているとおもしろいなあ。

めちゃくちゃめずらしい体験をしているのに、気負いがなくさらっと書いているのが楽しい。事実がおもしろければ文章に装飾なんていらないということを教えてくれる。



矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』

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2018年最大の驚きを味わわせてくれた本。
文章めちゃくちゃだし内容は気持ち悪いしストーリーは不愉快。なのにおもしろいんだから困っちゃう。

嫌な話が好きなぼくとしては最高におもしろかった。どうやったらこんな小説が書けるんだろう。奇才と呼ぶにふさわしい。



テッド・チャン『あなたの人生の物語』

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これまた驚かされた小説。
かなりの量の小説を読んできたのでもう驚くことなんてないと思っていたが、この想像力には脱帽。
「ぶっとんだ発想」と「ディティールまで作りこむ能力」ってなかなか両立しないと思うのだが、テッド・チャンはその両方の才能を併せもつ稀有な作家。



山本 義隆『近代日本一五〇年』

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明治以降の日本の科学は戦争とともに歩んできた。
案外それは戦後も変わってないのかもしれない。

著者は、日本がかたくなに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。核兵器禁止条約に署名しないのも、将来的に核兵器を保有するためだと考えればつじつまが合う。
だからこそ「負けフェーズ」に入った原発を捨てられない。先の大戦で、負けを認められずに大きな犠牲を出したときと同じように。



岸本 佐知子『なんらかの事情』 


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翻訳家によるエッセイ集。いや、エッセイなのか……?
どこまで本当なのか、どこから嘘なのか。気づいたら引きずりこまれている空想の世界。
こんな文章を書けるようになりたいなあ。



セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』

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人はすぐ嘘をつく(おまけに嘘をついている自覚もないことが多い)ので、アンケート結果は信用できない。前の大統領選でも、事前のアンケートではトランプ氏が圧倒的劣勢だった。
だが行動は嘘をつかない。人々のとった行動をビッグデータにして分析すれば未来も予想できる。
医療も変わる。医者の仕事のうち、「診断」は近いうちにコンピュータの仕事になるだろうね。



高野 秀行『アヘン王国潜入記』

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これを読むとアヘンを吸ってみたくなる、困った本。
カンボジアのワ州という村に滞在した記録なのだが、おもしろかったのは村人たちの死生観。
独特なんだけど、彼らのほうが生物としては正しくて、われわれのように「個の死をおそれる」「他人の死を悼みつづける」ほうが異常なのかもしれないと思わせる。



堤 未果『日本が売られる』

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タイトルは大げさでもなんでもなく、日本のあらゆる財産が売られつつある。
水、農業、自然、教育、福祉、そして我々の生活。売っているのは国。つまり政府。
「今だけ、カネだけ、自分だけ」の先にあるのは貧しい暮らし。今の政治体制が続くかぎり、この傾向はどんどん加速していくんだろうな。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


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