『なんらかの事情』
岸本 佐知子
おもしろい本ない? と訊かれたら、ぼくはまっさきに岸本佐知子氏の名前を挙げる。
本業は翻訳家だが、エッセイが最高。
いやエッセイにくくってしまっていいのだろうか。だって書いてあることの一割~九割ぐらいが嘘なんだもの。一割~九割とずいぶん幅があるのは、どこまでほんとでどこから嘘かわからないからだ。気づいたら空想の世界に連れていかれている。
ダース・ベイダーが寝るときに考えること、耳の中に住んだらどんな気持ちか、江戸時代のカーナビは今何を語るのか、地球で捕獲された宇宙人は何を思うのか。
着想もすごいが、そこからの飛躍もすごい。
たったひとつのもの、たった一言をきっかけに岸本氏の想像は異世界へと羽ばたく。
この短い文章にドラマが詰まっている。プーチンと秘書の姿がはっきりと立ちあがってくる。びりびりに破いているときのプーチンの冷徹な眼まではっきり浮かぶ。秘書であるキシモト同志が粛清されるのではないかと心配になる。そんな秘書いないのに。
プーチンがエリツィンの追悼演説をするという短いニュースから、たったの数行でこんなに遠くまで連れていってくれるのだ。
この距離、この速さ、この具体性。想像力というものの持つ力を知らしめてくれる。
小説家でも、これだけ想像力豊かな人いないでしょ。
また「これまで言語化してこなかった感情」を目覚めさせてくれる能力もすごい。
ああ、わかる。
この文章を読むと「ぼくもそう思ってたんだ!」と言いたくなってしまう。そんなこと一度も考えたことないのに。
でも、この気持ちの一パーセントぐらいはぼくの心にもあった。ぼくはそれを見逃していた。だが岸本氏はそのひとしずくのひっかかりを丁寧にすくいあげて、こうやって文章にしてくれる。おかげでぼくは気づく。そうか、ぼくはこう思ってたのか。屈辱感を味わっていたのか。
これを知ってしまったらもう知らなかった頃には戻れない。今後「ない場合は」と聞くたびに、甘く見られたような気持ちになる。
自分でも気づいてなかった感情を強制的に引き出させる文章。
ああ、こんな文章書きてえなあ。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿