貴志 祐介 『悪の教典』
けっこうぶあつい本だったが、一気に読んでしまった。
圧倒的な筆力。特に中盤の「これからすごく悪いことが起こりそうな不穏な雰囲気」はただならぬものがあった。
ピカレスク小説(悪人を主人公にした小説)は難しい。
悪役を魅力的に描くためには相当な説得力が必要だ。
いきあたりばったりに悪いことをしているヤツなんてただのチンピラ。共感は得られない。
「道徳的に正しくないことを読者に納得させる論理」が必要になる。
善人や凡人を主人公にするよりずっと困難だ。
ぼくが知っているかぎりで成功しているピカレスクものといえば、小説ではないけど、手塚治虫『MW(ムウ)』ぐらいかな。
手塚治虫クラスでないと描けない、それぐらいピカレスクものは難しい。
『悪の教典』の著者、貴志祐介は『青の炎』という傑作小説も書いている。これも殺人事件の犯人が主人公だ。
ただ『青の炎』の主人公は、殺人を犯して隠蔽工作をおこなうものの、悪人ではない。
殺される人物は十二分に憎らしい人間であり、主人公は妹を守るためにやむにやまれず殺人に手を染める悲劇のヒーローとして描かれている。
「正義のために殺人をしなければならなかった同情すべき善良な市民の葛藤」を描いた物語だった。
ところが『悪の教典』の主人公である蓮見という教師には一切の同情の余地がない(大きく共感できる人はあぶないね)。
徹頭徹尾、己の欲望のために他人の人格や命を蹂躙する。そこには一片の躊躇がない。
「自分より人気があるのが妬ましいから殺そう」ぐらいの理由で殺してしまう。犯罪行為に対するためらがない。
犯罪を思いとどまる理由は「捕まったら困る」だけ。
一般人が「捕まらなかったら少々スピード違反してもいいだろう」と考えるぐらいライトな感覚で、人を殺してしまう。
こう書くとどうしようもないクズ人間に思えるけど、蓮見という人物はきわめて魅力的だ。
知性が高く、ユーモアの精神もあり、同僚や上司からの信頼も篤く、生徒から慕われている、理想的ともいえる教師だ。ただ自分に都合の悪い人物を殺してしまうだけ("だけ"ってのもどうかと思うけど)。
アメリカの臨床心理学者がサイコパスについて解説した、『良心をもたない人たち』という本がある。
世の中には、何人かにひとりの割合で、他人の感情がまったく理解できない人、他人を傷つけてもまったく心が痛まない人(サイコパス)がいるんだとか。
たいていは社会不適合者として生きていくことになるんだけど、中には知能の高いサイコパスもいて、彼らは「他人の感情を理解できるふり」を学習によって身につけることができるため、うまく社会に溶け込むことができるようになる。
周りになじめるどころか、そうした人は知能が高いうえに目的のためなら他の人が躊躇する手段も平気でとれるため、経営者やチームのボスとして成功することが多いそうだ。
ほとんどの社会制度は「たいした理由もなく他人に危害を加える人間はいないだろう」という前提で設計されている。
だから他人を平気で傷つけられる人間にとっては抜け穴だらけの制度になる。
知能の高いサイコパスへの対処法は、「極力かかわらないようにする」という選択しかない。
たとえば知能の高いサイコパスが同じ会社にいて攻撃してくる場合は、誰かに助けを求めたり上司に解決を依頼したりしても無駄だ。サイコパスはターゲット以外の前では善良な人間のふるまいをすることができるから。
「被害者が会社を辞める」ということが唯一の解決手段だ。
そんな、きわめて知能の高いサイコパスが教師になったら......。
それが『悪の教典』の物語。
ほんとに背筋がぞっとするような後味の悪いストーリーが延々と続く。
蓮見教師の行動は、まさに「悪魔」と呼ぶにふさわしい所業だ。
読んでいてすかっとするような描写は皆無。
なのにページをめくる手が止まらない。嫌な思いをすることがわかっているのに読んでしまう。
いや、ほんと後味が悪かった。
エンタテインメントとしての完成度が高すぎて、他人には勧められないぐらい。
後味の悪い小説としてすごくおもしろかったんだけど、残念だったのは、上巻と下巻で大きくテイストが変わったこと。
上巻は「静かにじわじわとせまりくる恐怖」をうまく描いた上質なホラーだったのに、下巻では派手なサスペンスアクションになってしまう。
個人的には上巻のほうが不気味で好きだった。
どっちがいいというのは好みの問題だろうけど、上巻が好きな人にとっては途中から丁寧な話運びが失われるように思えるし、下巻のテイストが好きな人にとっては上巻は退屈なんじゃないかなあ。
いっそべつの物語にしたほうがよかったんじゃないかと思うぐらい。
ただ、下巻のラストに関しては再び「じわじわとせまりくる恐怖」を表現しているので、いい終わりかただった。
あっ、いい終わりかたってのは後味の悪い終わりかたって意味ね。
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