『いつかの夏
名古屋闇サイト殺人事件』
大崎 善生
2007年に起きた強盗殺人事件。インターネットで知り合った初対面に近い男たちが共謀し、やはり面識のない女性を拉致して殺害した。いわゆる「闇サイト殺人事件(→Wikipedia)」。
かつては、今のように誰もがスマートフォンを手にしておらず、テレビの報道なんかでは「インターネットはネクラなやつがやる陰湿なもの」という扱いを受けていた時代。そうしたイメージを裏付けるような事件だったので、「インターネットの闇」というような言葉とともにセンセーショナルに報道されていた。
そんな事件について、被害者の生い立ち、犯行の一部始終、そして事件後の裁判まで克明に記録したノンフィクション……かと思ったら。
うーん、これはノンフィクションじゃなくて小説だなあ。それも趣味の悪い。
こういう描写がちりばめられていて、すごく気持ち悪い。
「無計画で残忍無比な犯人」と「最期まで毅然として立派だった被害者」の対比として書いているのはまあいいとして、作者の「こうあってほしい」という理想を含んだ描写が強すぎて嫌悪感が生じる。人が残酷に殺された事件を美談にするなよ。
たとえばこんな文章。
(「瀧」は被害者の恋人の男性、「利恵」は被害者)
おえー。なんだこのポエム。
いやポエムを書くのは好きにしたらいいんだけど。
勝手に実在の人物の心情を代弁すること、そして殺人事件を使って美しい物語にしあげることが気持ち悪い。
ノンフィクションって、作者が感情をあらわにしたらだめだと思うんだよね。事件が凄惨で衝撃的であるほど、冷静な筆致で書いてほしい。新聞記事のような客観的な文章のほうが、読む人の想像力がはたらく。
どうしてもポエティックな美談を書きたいなら、ノンフィクションの体裁をとらずに事件を題材にした小説を書けばいい。
桐野夏生の『グロテスク』(東電OL殺人事件が題材)や、やはり桐野夏生『東京島』(アナタハンの女王事件が題材)のように。
同じ作者の『聖の青春』『将棋の子』『赦す人』では、そんな気持ち悪さを感じなかったんだけどな。
ぼくは書かれたものに対してあまり倫理観を求めないほうだと思うけど(ピカレスクものなんかも好きだ)、それでも殺人事件を踏み台にして美しい物語を書くことには生理的な不快感をおぼえる。
とはいえ、犯人たちが殺人に至るまでの描写や、公判の様子なんかは丁寧な取材に基づいていて、かつ冷静に書かれていて良質なルポルタージュだった。
ずっとこんな調子だったらいいノンフィクションだったんだけどな。
犯人の三人が集まったときは、おそらく誰も人を殺そうとは思っていなかった。詐欺や強盗で金さえ手に入れられればいい、と思っていた。どうやって金を手に入れようかといきあたりばったりに行動していることや、犯人のひとりが犯行直後に自首していることからも、「闇サイト殺人事件」という言葉から連想されるような殺人願望はなかったんだろう。
でも、三人が(当初は四人)顔を突きあわせ「おれのほうがワルだぜ」という意地の張り合いをしているうちに、誰も「殺人はやめとこう」と言いだせないまま突き進んでしまった。
いってみれば、不良中学生のチキンレース。「びびってんじゃねーよ」と言われるのが怖くて降りるに降りられなくなってしまっただけ。
そんなばかばかしいチキンレースでも、とうとうほんとに人を殺すところまで突き進んでしまうのだから集団心理は恐ろしい。
「悪友と一緒にいたせいで、ひとりではぜったいにしないような悪さをしてしまった」という経験はぼくにもあるから、犯人たちの心理状態もわからないでもない。
もちろん人を殺すまで至る気持ちまでは理解できないけど。
この犯人たちだって、インターネット上で犯行計画を練っているだけなら冷静に「殺人はやめとこう」ってなって振り込め詐欺ぐらいで済んでいたかもしれないと思う(それもあかんけどさ)。じっさいに顔をあわせてしまったことでマウントのとりあいがはじまり、殺人事件にまでエスカレートしてしまったんじゃなかろうか。
だからこの事件を「闇サイト殺人事件」という名前で呼ぶのはふさわしくない。
ほんとに恐ろしいのは生身のコミュニケーションなのだから。
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