高校時代、勉強ができたのでよく他の生徒から「教えて」と言われた。仲の良い友人だけでなく、あまり話したことのない生徒まで「これどうやって解くん」と訊きにきた。それをきっかけに親しくなった友人もいる。
教えるのは嫌いではないので、丁寧に教えてあげた。
「この公式を使うねんで」
「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」
「背理法を使うねん。この命題が真でないと仮定すると……」
と。
すると、教えられた人たちはこう言う。
「なるほど! よくわかった!」
「すげえな。先生の説明よりわかりやすい!」
「そっか。そう考えればそんなに難しいことじゃないな!」
ぼくは気を良くする。教えてあげた甲斐があった。
さて。
ぼくに解き方を教えられた人たちは、その問題を解けるようになったか。
答えはYes。ただし、その問題だけは。
後日似た問題に出会うと、また解き方がわからない。そしてまたぼくに訊きにくる。ぼくはうんざりする。前に教えたのとほとんど同じ問題なのに……。
今ならわかる。ぼくの教え方が悪かったのだ。
ぼくは解法を教えていただけで、考え方を身につけさせようとはしていなかった。
料理の作り方がわからない人にレシピを渡して「この通りにつくるといいよ」と言っていただけだ。レシピを見て作ればそれなりの料理ができるが、一か月後にレシピを見ずに同じ料理を作ってくださいといってもまず無理だろう。
教える人が気を付けなくてはならないのは、
「わかりやすい!」という言葉だ。
逆説的だが、「わかりやすい!」と感じたときはわかるようになってない。
すでにわかっていることを再確認しただけだ。
ぼくが「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」と説明したときに「わかりやすい」と感じた人は、「等比数列とは何か」「階差数列から元の数列を導くにはどうしたらいいか」はすでに知っていた。だからぼくの説明を「わかりやすい」と感じた。知っているものを組み合わせただけだから。
だが「どういうときに階差数列を見ればいいか」はわかっていなかった。ぼくが「この問題では階差数列を調べればいい」と解法を教えたから、それ以上考える必要もなかった。
元々自分が持っている知識だけで解ける問題はわかりやすい。じっくり考える必要がないから。
だから「わかりやすい」と感じたということは、頭を使っていないということだ。
ぼくの説明は「AはBだ。BはCだ。CはD以外に考えられない。だからAはD」というものだった。
いい指導とは、相手が「BはCだ」をわかっていないことを見抜き、
「AはBだ。Dを導くためにはCであることを証明する必要がある」と教えることだ。
すると相手は考える。AがBになることはわかる。CがDになることもわかる。ではなぜAがDになるのか。
あれこれ考えた結果「BはCだ」という結論に達する。これではじめて知識が身につく。
数学にかぎった話ではない。
人は「わかりやすい!」を求めている。
小難しいデータやあらゆる可能性を並べたてる専門家よりも、単純明快で結論もはっきりしている素人の話に飛びついてしまう。
だってわかりやすいから。頭を使わなくても理解できるから。なんら学ぶものがないから。
新たに学ぶものが何もない、こんなに「わかりやすい」ものはない。
教えた相手から「わかりやすい!」と言われたときは悦に入るのではなく、自分の説明が未熟だったと反省しなければならない。
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