目に見えない世界を歩く
「全盲」のフィールドワーク
広瀬 浩二郎
全盲でありながら点字受験に合格して京都大学に入学し、研究者になった著者による「目に見えない世界」の紹介。
うーん。
障害者の人の書いた本にこういうことを言うのは気が引けるけど……。いや、それはよくないな。等しく扱うべきところは分け隔てすべきでない。だからはっきり言おう。つまんねえ。
なんか、視覚障害者協会の会報に載せる文章って感じだったな。
「ぼくはこんな活動をしてきました」「これからはこんなことをしていこうと考えています」
という活動報告。
広瀬さんに興味のある人はいいかもしれないけど、この本で広瀬浩二郎さんを知ったぼくのような人間からすると、ぜんぜん興味が持てない。へー。そんな活動してはるの。がんばってはるねー。ほなおきばりやすー。ぼくの知らんところで。
ずっと身内向けの話なんだよな。すでに広瀬さんの活動・研究内容に興味を持っている人向けの文章で、新たに興味を持ってもらおうという文章ではない。
たぶんこの人からすると今までの人生で「目が見えないゆえの苦労」とか「目が見えない人として社会に期待すること」みたいなのを一万回ぐらい訊かれていて飽き飽きしているんだろうけど、でもやっぱりとっかかりになるのはそういう話なんだよな。
伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のほうがずっとおもしろかったな。
「目の見えない人」というと、ぼくらはつい「能力を欠いた人」とおもってしまう。
だが、視覚に頼らない生活をしている人は「視覚の代わりにべつの能力を研ぎ澄ました人」でもある。
伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』には、全盲の人が
「月を思い浮かべるときは円ではなく球でイメージする」
「地図をイメージするときは高低差も含めた三次元的なマッピングを脳内に描いている」
という例を紹介している(全員ではないだろうが)。 ぼくらは物事を正確に見ているようで、じつは脳でずいぶん補正している。
たとえば月を写真に撮ってみると「えっ、月ってこんなに小さいの?」と驚かされる。ほんとは我々が見ている月は小さいのに、脳が勝手に拡大しているのだ。
目が見えないからこそ、より正確に対象をとらえられる場合もあるのだ。
ふうむ。
ぼくは眠りにつく前に落語を聴くことがあるのだけれど、目をつぶって落語を聴いているとすぐ近くでやりとりがくりひろげられるような気になる。
マンガを読んでいて世界に入りこむことはないから(入れる人もいるんだろうけど)、やはり聴覚のほうが臨場感を味わいやすいんだろう。
現代は視覚のほうが聴覚よりも圧倒的に優位な時代だが、ここ数年でちょっと流れが変わってきたようにおもう。
YouTubeをはじめとする動画の氾濫、そしてオーディオブックの隆盛だ。
ぼくは耳からの情報を処理するのが苦手なのでYouTubeもほとんど見ないしオーディオブックも聴いたことがないのだけれど、今後はさらにその比重が高まるだろう。
ぼくだって歳をとって老眼が進めば、オーディオブックに切り替えるかもしれない。
ひょっとするとまた平家物語のように「語り」の物語が主流になるかもしれない。
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