2021年4月21日水曜日

【読書感想文】第二の平家物語の時代が来るのか / 広瀬 浩二郎『目に見えない世界を歩く』

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目に見えない世界を歩く

「全盲」のフィールドワーク

広瀬 浩二郎

内容(e-honより)
「全盲」から考える社会、文化、人間。目が見えないからこそ見える世界とは。目が見えない人は、目に見えない世界を知っている―。障害当事者という立場から盲人史研究に取り組み、現在は独自の“触文化論”を展開する文化人類学者がその半生と研究の最前線を綴る。

 全盲でありながら点字受験に合格して京都大学に入学し、研究者になった著者による「目に見えない世界」の紹介。

 うーん。
 障害者の人の書いた本にこういうことを言うのは気が引けるけど……。いや、それはよくないな。等しく扱うべきところは分け隔てすべきでない。だからはっきり言おう。つまんねえ。

 なんか、視覚障害者協会の会報に載せる文章って感じだったな。
「ぼくはこんな活動をしてきました」「これからはこんなことをしていこうと考えています」
という活動報告。
 広瀬さんに興味のある人はいいかもしれないけど、この本で広瀬浩二郎さんを知ったぼくのような人間からすると、ぜんぜん興味が持てない。へー。そんな活動してはるの。がんばってはるねー。ほなおきばりやすー。ぼくの知らんところで。

 ずっと身内向けの話なんだよな。すでに広瀬さんの活動・研究内容に興味を持っている人向けの文章で、新たに興味を持ってもらおうという文章ではない。

 たぶんこの人からすると今までの人生で「目が見えないゆえの苦労」とか「目が見えない人として社会に期待すること」みたいなのを一万回ぐらい訊かれていて飽き飽きしているんだろうけど、でもやっぱりとっかかりになるのはそういう話なんだよな。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のほうがずっとおもしろかったな。




「目の見えない人」というと、ぼくらはつい「能力を欠いた人」とおもってしまう。
 だが、視覚に頼らない生活をしている人は「視覚の代わりにべつの能力を研ぎ澄ました人」でもある。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』には、全盲の人が
「月を思い浮かべるときは円ではなく球でイメージする」
「地図をイメージするときは高低差も含めた三次元的なマッピングを脳内に描いている」
という例を紹介している(全員ではないだろうが)。 ぼくらは物事を正確に見ているようで、じつは脳でずいぶん補正している。

 たとえば月を写真に撮ってみると「えっ、月ってこんなに小さいの?」と驚かされる。ほんとは我々が見ている月は小さいのに、脳が勝手に拡大しているのだ。
 目が見えないからこそ、より正確に対象をとらえられる場合もあるのだ。


 見る時は外にいる、聴く時は内にいる。映画を見る鑑賞と聴く鑑賞の違いを一言で要約すると、このようになるでしょうか。僕が副音声解説を聴きながら映画を楽しむ場合、しばしば出演者とともにドラマの中に入り込む感覚にとらわれます。自分も映画のストーリーに参加しているような錯覚は、視覚では感じにくいものです。画面を見て映画鑑賞する際、大半の晴眼者はドラマの外にいて、出演者の動きや景色を追いかけています。つまり、聴く人は「参加者」、見る人は「観察者」なのです。

 ふうむ。
 ぼくは眠りにつく前に落語を聴くことがあるのだけれど、目をつぶって落語を聴いているとすぐ近くでやりとりがくりひろげられるような気になる。
 マンガを読んでいて世界に入りこむことはないから(入れる人もいるんだろうけど)、やはり聴覚のほうが臨場感を味わいやすいんだろう。

 視覚優位の今日、インターネットやテレビを介して、僕たちは厖大な画像・映像を日々見て(見せられて)います。しかし『平家物語』が大流行する中世には、視覚以外の情報も尊重されていました。「より多く」「より速く」という近代的な価値観は視覚の特性に合致していますが、『平家物語』を支えていたのは、それとは相容れない独自の世界観・人間観だったのです。
 源平の合戦が各地で繰り広げられたのは一一八〇年代でした。それから五〇年ほど経過すれば、リアルタイムで戦を「見た」人はほとんどいなくなります。そんな時、〝音〟と〝声〟で歴史を鮮やかに再現したのが琵琶法師だったのです。彼らは自己の語りにリアリティを付与するために、色彩表現を随所に鏤め、聴衆の想像力を刺激しました。那須与一が扇の的を射る情景描写は、画像・映像に頼らない聴覚芸能の真骨頂でしょう。中・近世の老若男女は、琵琶法師のゆっくりとした語りを聴きながら、長大な歴史絵巻を自由に思い描いていたのです。「より少なく」「より遅く」という所に、じつは『平家物語』が聴衆を引き付けた魅力があったのかもしれません。

 現代は視覚のほうが聴覚よりも圧倒的に優位な時代だが、ここ数年でちょっと流れが変わってきたようにおもう。

 YouTubeをはじめとする動画の氾濫、そしてオーディオブックの隆盛だ。
 ぼくは耳からの情報を処理するのが苦手なのでYouTubeもほとんど見ないしオーディオブックも聴いたことがないのだけれど、今後はさらにその比重が高まるだろう。
 ぼくだって歳をとって老眼が進めば、オーディオブックに切り替えるかもしれない。

 ひょっとするとまた平家物語のように「語り」の物語が主流になるかもしれない。


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