『翻訳できない世界のことば』
エラ・フランシス・サンダース(著)
前田 まゆみ(訳)
翻訳できない言葉、つまりある言語だけにしかないユニークな概念の言葉を集めた本。
日本語からも「こもれび」「積ん読」などが紹介されている。
「こもれび」なんて、なくても特にこまらない。日常会話でつかうことまずない。詩や歌詞ぐらいでしかつかわない。
でもこういう「なくてもいい言葉」をどれだけ持っているかが言語の豊かさを決める。なくてもいいからこそ、あるといいんだよね。
「積ん読」もすばらしい言葉だ。ダジャレ感も含めて。かゆいところに手が届く感じ。
積ん読も読書の一形態なんだよね。読まない読書。読んでないけど「いつか読もうとおもってそこに置いておく」ことが大事なんだよね。読書好きならわかるとおもうけど。
その感覚を「積ん読」という一語は見事に言いあらわしている。
『翻訳できない世界のことば』で紹介されている中でぼくのお気に入りは、トゥル語の「KARERU」。
これは「肌についた、締めつけるもののあと」という意味だそうだ。
言われてみれば、たしかに存在する。
パンツのゴムの痕やベルトの痕など。
だれもが見たことある。毎日のように見ている。
でもこれを総称して表現する言葉は日本語にはない。「肌についた、締めつけるもののあと」としか言いようがない。
この言葉を知るまえと知ったあとでは、目に見える世界が少し変わる。
これまではなんとも思わなかったパンツの痕が「KARERU」として意識されるようになる。ほんの数ミリだけ世界が広がる。
ドイツ語の「KABEL SALAT」もいい。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。
「あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方」なんてのも「あるある」という現象だ。
だれもが経験しているはず。
「あのときああ返していればウケたはずなのに」と、後になってから気づく。言いたい。でももう完全にタイミングを逃しているから今さら言ってもウケない。あと二秒はやく思いついていれば。あのときあいつが話題をそらさらなければ。くやしい。
いちばん笑ったのはドイツ語の「DRACHENFUTTER」。
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