吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』
電球の交換を専門とする "電球交換士" が "不死身" となって "謎の美女" や "オカマ" や "刑事らしき男" に囲まれている小説なんだけど、
「物語を構成する要素多すぎ!」という感想しか出てこない。
この「全部盛りラーメン」みたいなトッピングだけでもううんざりしてしまった。
「売れようとして書いた小説」って感じがぷんぷんした。
『売れる小説の書き方』の類いの本のセオリー通りに書きました、みたいな。
- 読者が「あれ?」と思うようなふしぎなポイントを2つ掛け合わせましょう(「電球交換士」×「不死身」)
- 主人公の周囲には個性の強い人物を配置しましょう
- 主人公には暗い過去を用意し、後から小出しにしましょう
- 人との出会いを通して主人公の心境の変化を描きましょう
そんなテクニックに基づいて書かれたように思っちゃう(その手の本にこんなのが書いてあるか知らんけど)。
にしてもさ。
どうしてステレオタイプなオカマって「明るくておもしろくて男より男気があって女より細かいところに気がついて常に周囲を楽しませてくれつつもときどきズバッと核心をつく人」なんだろう。この本に出てくるオカマもまさにそれなんだけど。
テレビに出てくるオカマにそのタイプが多いからかな。
ぼくはオカマと関わりのない人生を歩んできたから知らないけど(この本の作者もたぶんそうだろう)、暗いオカマもつまらないオカマも薄っぺらいことしか言わないオカマもいっぱいいるはずなのにさ。
こういう描かれ方をすることを、当の「暗いオカマ」はどう思ってるんだろう。
息苦しくならないのかな。
周囲から「オカマならではの斬新な斬り口」を期待されるのってきついだろうな。
吉田修一の『怒り』ではごくごくふつうの会社員として仕事に取り組んでいるゲイを描いていた。そりゃそうなんだよ。性的嗜好が日々の生活すべてに影響を与えてるわけじゃないから、生活の9割はゲイとは無関係に過ぎていくはずなんだよ。
ぼくはいついかなるときも男として生きているわけじゃない。なのに "物語に安易に登場させられるオカマ" は24時間オカマでいようとしている。かわいそうだ。
もういい、もういいんだ。
オカマは人生に示唆を与えてくれなくてもいいんだ。
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