『動物農場』
ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)
ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。
ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。
農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。
というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。
豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。
終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。
動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。
この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。
この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。
しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。
この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。
発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。
『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。
かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。
さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。
人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。
だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。
だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。
つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。
白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。
裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。
話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。
つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。
突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。
そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。
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