2018年10月26日金曜日

【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』

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全身翻訳家

鴻巣 友季子

内容(e-honより)
食事をしても子どもと会話しても本を読んでも映画を観ても旅に出かけても、すべて翻訳につながってしまう。翻訳家・鴻巣友季子が、その修業時代から今に至るまでを赤裸々かつ不思議に語ったエッセイ集。五感のすべてが、翻訳というフィルターを通して見える世界は、こんなにも深く奇妙でこんなにも楽しい。エッセイ集「やみくも」を大幅改編+増補した決定版。

米原万里氏、岸本佐知子氏、田丸公美子氏など、翻訳家や通訳者には、いいエッセイを書く人が多い。
言葉に対する感覚が鋭敏だからなのだろう、何気ない発言や文章をきっかけに話がどんどんはずんでゆくのが楽しい。

『全身翻訳家』というタイトルが表すように、鴻巣友季子さんという人は骨の髄まで翻訳家だ。
この本には数々のエッセイが収録されているが、どれも翻訳、外国語、日本語、異文化、外国文学という切り口で料理されている。
何をするにも「これをどう訳すか」「これは日本人に伝わるだろうか」「書き手はどういった意図でこの文章を書いたのか」と考えているように見える。

たとえばこんなエッセイ。
 友だちの息子は四歳か五歳のころ、こんなことを言ったそうだ。ある日、家のなかを駆けまわっていて、むこうずねを家具の角かなにかに思いきりぶつけてしまった。痛い! 痛い! ものすごく痛い!
「だいじょうぶ? そんなに痛いの?」
 うずくまる息子に母親が尋ねると、彼はぶつけたむこうずねをしっかり押さえながら、痛みをこう表現した。
「痛いの! おふろに入りたくなっちゃうぐらい痛いの!」
 風呂に入りたくなるぐらいの痛み。この痛みは大好きなおふろに入ることでしか癒やし得ぬ、ということか。ぼくの受けたこの心身の痛手、もうこれはやさしいお湯に浸かってリセットするしかないんだ、ということかもしれない。「シャワーで流せる痛み」ではないということだ。いずれにせよ、湯槽にゆっくり浸かってなごむという風呂文化のある国でしか理解されにくい単位だろう。
 1オフロ(Ofr)。
 これまた翻訳するとなると、手こずりそうな単位だ。

「子どもならではのほほえましい表現」でも、やはり翻訳者の視点でどう訳すかを考えている。
そのまま外国語に訳しても、風呂文化のない人には伝わらない。訳すならたとえば「あたたかい毛布にくるまれたくなるぐらい痛い」といったところだろうか。それだって南国の人には伝わりにくいだろうなあ。



「うるかす」という言葉について。
 そして、父と母が結婚後、長く暮らしていた北海道のことば。貼りついたものを剥がすために水に浸しておくことを「うるかす」と言う。これも大学生になるまで方言とは知らなかった。「うるかす」にあたる語彙が標準語にはないようだが、困らないのだろうか。たとえば、間違って貼った切手を浸けてある水をうっかり家族が捨てそうになったりしても、「それは間違って貼っちゃった切手を剥がそうと思って水に浸けているところなんだから触らないでよ」などと長々しく注意を与えるのだろうか。言ってる間に捨てられてしまうのではないか。
西日本で育ったぼくは、「うるかす」を一度も聞いたことがない。

炊飯釜やお茶碗を洗う前には水に漬けておくが、はたしてこれはなんと表現するだろうか。
「ふやかす」がいちばん近いかな。ただし「ふやかす」には「剥がすため」という意味はなく、「柔らかくするために水に浸しておく」という意味なので、微妙に違いそうだ。
ただし「剥がすために水に浸しておくこと」を他人に説明する状況はあまり多くないので、「ふやかす」でも困ったことはない。

そういえば、香川出身の人が「ひちぎる」という言葉を使っていた。
「どういう意味?」と訊くと
「うーん、『ひちぎる』は『ひちぎる』やきん、他の言葉でよう説明せんな……。強いていうならおもいっきりつねって少し加えながら引っぱる、みたいな感じかな。『引きちぎる』に似てるけど、『ひちぎる』はじっさいにちぎるわけではないからな……。引きちぎる寸前まで持っていく、みたいな感じかな……」
となんとも長ったらしい説明をしてくれた。

そういえば少し前、『翻訳できない世界のことば』という本を書店で見かけた。
「パンに乗せるもの全般」を指す言葉や、「身体についたベルトなどの痕」を指す言葉など、他の言語にはないユニークな意味を持った単語を集めた本だ。

日本語だと「わびさび」や「積ん読」などが、翻訳不能な概念らしい。しかし「買ったものの読む時間や気力が起きずにいつか読もうと思ったまま放置されている本」は世界中にあるだろうから、言われれば「あーたしかに」と思う。

「パンに乗せるもの全般」なんてのも、日本語だと「なんかジャム的なもの」なんて言い回しをするしかない。そういう言葉があると便利だ。

グローバル化によって世界中の言語は少数に集約されていっているけど、言語が消えるということは「その言語にしかない概念」も失われてしまうということだ。
めったに使わないけど言い換え不能な言葉たちには、ぜひとも来世紀以降まで生き延びていってほしい。

そういや「あざとい」なんて言葉も、外国語に言いかえるのがすごく難しいんじゃないかなあ。



保育園の連絡ノートの話。
 子どものようすを自由に書く欄もある。さっさと事務的に書けばいいのに、「えーと、どう書こうか」と、いちおう文章の組み立てなど考えてしまうのは、文筆業者の哀しい性である。夕食の片付け物などしながら、そうだ、あのネタをこう書いて……と思いめぐらしたりする。雑誌などに書くエッセイの仕事とほとんど同程度の気合いの入れようだ。こういう力を入れなくてもいいことに限って、やみくもにがんばるから始末がわるい。四百字ぐらい書いてからぜんぶ気に入らなくなって、全文しこしこと修正液で消したこともあった。そうやって「原稿」を書きあげた後は当然ながら小さな達成感があり、思わずひとりで祝杯をあげてしまったりする午前三時。
 先日は、「お風呂で子どもが急に『ママ、お顔が汚れてるからふいてあげるね」と言って、タオルでごしごしやってくれました。ただ、それは汚れではなく肌のシミだったのです……」という自虐ネタを書いたのに、先生から反応のコメントがなく、密かに傷ついた。
これ、わかるなあ……。
ぼくもほぼ毎日保育園の連絡ノートを書いている(昨日は熱があったとかご飯を食べなかったとかの重要な連絡だけは妻が書く)。

これがけっこうたいへんだし、その分やりがいもある。書けば確実にレスポンス(先生がコメントを返してくれる)のだから書いていて楽しい。
娘がおもしろい発言をしたときは「よっしゃ、ノートに書くネタができた!」と思うし、ネタがない日は家を出る直前まで「何書こう……」と唸っている。

親ですらたいへんなのだから、十数人分のノートを読んで書かないといけない先生は、もっと骨の折れる作業だろう。
だからこっちが「今日のはおもしろいぞ」という会心のネタを書いても「今日はみんなで公園に行きました」なんてぜんぜん見当はずれのコメントが返ってきたりもする(特に若い先生ほどその傾向が強い。時間的余裕がないんだろう。たいへんだ)。
でもそういうときがあるからこそ「おもしろいですね!」なんてコメントが返ってきたときはすごくうれしい。

プロの文筆家であっても(翻訳者なら特に)読者からのダイレクトな反応というのは貴重なものなんだろうね。

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