2022年1月18日火曜日

【読書感想文】鹿島 茂『子供より古書が大事と思いたい』

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子供より古書が大事と思いたい

鹿島 茂

内容(e-honより)
仏文学者の著者が、ある時『パリの悪魔』という本に魅せられ、以来19世紀フランスの古書蒐集にいかにのめりこんだか―。古書や挿絵芸術の解説からランクづけ、店の攻略法、オークション、購入のための借金の仕方まで、貴重な古書にまつわる様々な情報と、すべての蒐集家のための教訓が洒脱につづられる。

 フランス文学研究者であり、フランス古書蒐集家でもある著者のエッセイ。

『子供より古書が大事と思いたい』とはなんとも不穏なタイトルだが、あながちおおげさでもない。ほんとにすべてを犠牲にして古書を蒐集しているのだ。

 ちょっと注釈が必要なのだが、フランス古書というのは我々の想像する古本とはちょっと違う。
 19世紀のフランスの本というのは、今のように表紙がついておらず、仮綴本の状態で売られていたのだそうだ。買った人が装丁屋に依頼してオリジナルの表紙をつけてもらう。また印刷技術が今ほど高くないので本によって印刷の質がちがう。さらに著者直筆の訂正や献本メッセージが入っている本もある。
 したがって、大げさでもなんでもなくすべての本が世界に一冊の本となる。

 なので、フランス古書というのは古本というより美術品に近い。実際、貴重なものであれば数千万円の値がつくそうなので、ほとんど骨董品である。


 ぼくは本が好きだが、本に対して読むもの以上の価値を見いださない。コレクション品として本を買ったのはただ一度、星新一の全集を買ったときだけだ(すでに文庫で全作品を持っていた)。

 一度、古書店で文庫をレジに持っていったら「800円です」と言われ驚いた。「えっ、定価より高いじゃないですか」と言うと、店主が「初版本だからね」と答えた。ぼくは買うのをやめた。絶版本でもないのに定価より高い値段で本を買おうとはおもわないが。

 しかし、共感はできないが古書蒐集をする人の気持ちもちょっとわかる。めずらしい本、世界にひとつしかない本を手元に置いておきたい心理はわからなくもない。本とは著者の思考の表出である。世界に一冊しかない本であれば、それを所有することは著者の思考を独占することである。これはさぞや大きな快楽をもたらしてくれるに違いない。

 西村賢太氏や井上ひさし氏の「古書蒐集について書いた文章」はいずれもおもしろい。古書を集めることは、きっと多くの人に共通する願望なのだろう。




 愛書家のことをビブリオフィルと呼ぶそうだが、それが高じて〝愛書狂〟にまでなった人のことを〝ビブリオマーヌ〟と呼ぶそうだ。この言葉は十六世紀からあるそうなので、本の蒐集に狂った人はいつの時代にも存在するのだ。

 鹿島茂氏はまぎれもなくビブリオマーヌである。

そして、その日から私はビブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、できるかぎり多くのロマンチック本を救い出して保護してやらなければならない。これほど重大な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。

 この心境。もはや信教に近い。

「家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい」と書いているがこれは決して大げさな表現ではなく、ほんとに家族の生活を犠牲にして本を買っているのだ。

 はっきり言って、私の資金源は、これみな借金である。しかも親や親類からの出世払いの借金などという甘っちょろいものではなく、銀行やローン会社から、自宅を抵当に入れて借りた本格的な借金ばかりである。したがって、当然、ローンの返済は毎月容赦なく襲いかかってくる。そして、その額は、多重債務者の常として絶えず増加傾向にある。この調子でいけば、破産宣告はまずまちがいのないところである。にもかかわらず、私はあいかわらず古本を買い続け、借金は雪だるま式に増加している。

 借金をしてまで本を買うのだから相当なものである。ちなみに著者が古書を買い集めていたのはバブルの頃だそうで、バブル期は銀行もほいほい金を貸してくれたんだなあ(とはいえさすがに「本を買うため」という理由では銀行も金を貸してくれなかったそうだ)。

 趣味というのは人によれば生きる目的そのものだから、趣味にどれだけ金を遣おうが他人がとやかく言うことではない。……とはいえ、借金をしてまで趣味に金をかけるのはどう考えても度が過ぎる。

 しかし、今回だけは、なんとしても金をつくらなければ、『さかしま』を手に入れる千載一遇のチャンスをみすみす取り逃がすことになる。買うも地獄、買わぬも地獄なら、いっそ買う地獄のほうを選んだほうがいい。ええ、ままよ、銀行が貸してくれないなら、サラ金でも暴力金融でもなんでもいい、なんとしても金を作るんだ! と叫んで、ついに買い注文のファックスを入れた。待つこと数分、折り返しのファックスが届いた。『さかしま』は売却済みと書いてある。
 ああ、よかった。ほっとした。とりあえずは、破産→一家離散→ホームレスの運命は回避された。買えなくて本当によかった。先に買ってくれたお方、どこのどなたかは存じませんがありがとうございます。感謝してます。あなたはわが家の恩人だ。
 しかし、考えてみれば、買えなくてうれしがるというのも変な話である。だれだって、それなら、初めから、買い注文など出さなければいいのにと思うだろう。ところが、買い注文を「入れない」のと、注文を「出したにもかかわらず買えなかった」のとは、本が手に入らなかったという現象面では同じなのだが、心理面では、これがまったく違うのだ。たとえてみれば、オリンピックに参加できたのにしながったのと、参加したが敗れたのとの違いである。後者の場合、とにかく、やれるだけはやったのだという爽やかさが残る。

 ほら、もう頭おかしくなってるじゃん!

 買い注文を入れておいて、「買えなくてよかった」ってもうまともじゃないじゃん。オリンピック選手もこんな頭おかしい人といっしょにされたくないだろう。


 しかし、たいていの頭おかしい人のエッセイがそうであるように、このエッセイもめっぽうおもしろい。

 でもぼくは美術品とか骨董品にまったく興味ないからいいけど、そういうのが好きな人がこのエッセイを読むと集めたくなってしまうかもしれないので要注意。そこは地獄の入口ですよ……。


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