子供より古書が大事と思いたい
鹿島 茂
フランス文学研究者であり、フランス古書蒐集家でもある著者のエッセイ。
『子供より古書が大事と思いたい』とはなんとも不穏なタイトルだが、あながちおおげさでもない。ほんとにすべてを犠牲にして古書を蒐集しているのだ。
ちょっと注釈が必要なのだが、フランス古書というのは我々の想像する古本とはちょっと違う。
19世紀のフランスの本というのは、今のように表紙がついておらず、仮綴本の状態で売られていたのだそうだ。買った人が装丁屋に依頼してオリジナルの表紙をつけてもらう。また印刷技術が今ほど高くないので本によって印刷の質がちがう。さらに著者直筆の訂正や献本メッセージが入っている本もある。
したがって、大げさでもなんでもなくすべての本が世界に一冊の本となる。
なので、フランス古書というのは古本というより美術品に近い。実際、貴重なものであれば数千万円の値がつくそうなので、ほとんど骨董品である。
ぼくは本が好きだが、本に対して読むもの以上の価値を見いださない。コレクション品として本を買ったのはただ一度、星新一の全集を買ったときだけだ(すでに文庫で全作品を持っていた)。
一度、古書店で文庫をレジに持っていったら「800円です」と言われ驚いた。「えっ、定価より高いじゃないですか」と言うと、店主が「初版本だからね」と答えた。ぼくは買うのをやめた。絶版本でもないのに定価より高い値段で本を買おうとはおもわないが。
しかし、共感はできないが古書蒐集をする人の気持ちもちょっとわかる。めずらしい本、世界にひとつしかない本を手元に置いておきたい心理はわからなくもない。本とは著者の思考の表出である。世界に一冊しかない本であれば、それを所有することは著者の思考を独占することである。これはさぞや大きな快楽をもたらしてくれるに違いない。
西村賢太氏や井上ひさし氏の「古書蒐集について書いた文章」はいずれもおもしろい。古書を集めることは、きっと多くの人に共通する願望なのだろう。
愛書家のことをビブリオフィルと呼ぶそうだが、それが高じて〝愛書狂〟にまでなった人のことを〝ビブリオマーヌ〟と呼ぶそうだ。この言葉は十六世紀からあるそうなので、本の蒐集に狂った人はいつの時代にも存在するのだ。
鹿島茂氏はまぎれもなくビブリオマーヌである。
この心境。もはや信教に近い。
「家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい」と書いているがこれは決して大げさな表現ではなく、ほんとに家族の生活を犠牲にして本を買っているのだ。
借金をしてまで本を買うのだから相当なものである。ちなみに著者が古書を買い集めていたのはバブルの頃だそうで、バブル期は銀行もほいほい金を貸してくれたんだなあ(とはいえさすがに「本を買うため」という理由では銀行も金を貸してくれなかったそうだ)。
趣味というのは人によれば生きる目的そのものだから、趣味にどれだけ金を遣おうが他人がとやかく言うことではない。……とはいえ、借金をしてまで趣味に金をかけるのはどう考えても度が過ぎる。
ほら、もう頭おかしくなってるじゃん!
買い注文を入れておいて、「買えなくてよかった」ってもうまともじゃないじゃん。オリンピック選手もこんな頭おかしい人といっしょにされたくないだろう。
しかし、たいていの頭おかしい人のエッセイがそうであるように、このエッセイもめっぽうおもしろい。
でもぼくは美術品とか骨董品にまったく興味ないからいいけど、そういうのが好きな人がこのエッセイを読むと集めたくなってしまうかもしれないので要注意。そこは地獄の入口ですよ……。
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