償い
矢口 敦子
何がイヤって、「初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべるミステリ」ほどイヤなものはない。
ストーリーを進めなくちゃいけないのはわかるが、だからってどいつもこいつもべらべらべらべらしゃべりすぎだ。
刑事がホームレスに捜査中の事件を相談し、中学生がホームレスに哲学的議論をふっかけ、主婦が名刺も持たない自称フリーライター(実態はホームレス)にご近所のうわさ話をし、夫が逮捕された妻が「夫と留置所で一緒だった」と名乗るホームレスを家に入れてコーヒーをふるまう。
どうなってんの。
登場人物全員自制心も警戒心もゼロなの。みんな泥酔してんの。だからおしゃべりを止められないの。
百歩譲って中学生や主婦は「百人に一人ぐらいはそんな人もいるかも」と許しても、捜査情報を漏らす刑事は懲戒処分待ったなしでしょ。
小説だから偶然や奇跡が発生するのはしかたがない。
ミステリなんて基本的に「めったに起こらないことが起こった場面」を切り取ったものだから、ある程度のご都合主義はあってもいいとおもう。
とはいえ。
『償い』はひどい。
小さな街で立て続けに不審死が発生する……ってのはいいよ。
そういう設定だからね。
大きなほらはおもしろい小説に必要不可欠だ。
ただ、ちっちゃい嘘(あまりに都合のいい偶然)が多いんだよね。
犬も歩けば棒に当たる的な。
主人公がちょっと歩けばすぐに事件の関係者に出くわす。
たまたま会った人が被害者の親戚だった、たまたま入った店の向かい側に容疑者の妻が入っていくのが見えた、たまたま昔の自分を知っている人だった、たまたま会った中学生がかつて自分が命を救った子だった……。
一度や二度なら「まあフィクションに目くじらを立てるのもな」と看過できても、それが五度も六度も起こると「もういいかげんにしろよ……」とうんざりする。
もはや謎解きはどうでもいい。
「はい次はどんな“たまたま”を起こしてくれるんですか」としかおもえなくなってくる。
『ジョジョの奇妙な冒険』の偉大な発明のひとつは、スタンド(幽波紋)という視覚化された超能力だが、なによりすばらしいのは「スタンド使いはひかれあう」という設定をつけくわえたことだ(後付けっぽい感じもあるが)。
この設定があるだけで、“たまたま”が頻発しても「スタンド使いはひかれあうからね」で済ませることができる。
『償い』もこういう設定を最初につけておけばよかったのにね。
過去に心の傷を負った人たち同士がひかれあう世界の物語です、って。
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