数字の国のミステリー
マーカス・デュ・ソートイ(著) 冨永星(訳)
高校数学は得意だった(センター試験で数学ⅠAと数学ⅡBの両方100点だったのが自慢!)。
でも大学では文系の道に進んだ。
この話をすると数学が得意でなかった人には「そんなに数学が得意なのに文系に行くなんてもったいない!」と言われるが、数学の奥深さを知っている人間ならわかるだろう。
高校数学ができることとその後の数学をやっていくことはまったく別ものだ。
ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。
ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。
つくづく「ああ、“高校数学が得意”ぐらいの自信で数学の道を志さなくてよかった」とおもったものだ。
「世界をすべて数学でとらえる」ぐらいの人間じゃないと足を踏み入れてはいけない世界なのだ。
自分は「数学の世界のスタートラインに立ったぐらいでやめてしまった」人間だが、数学者の話を聞くのはおもしろい。
学生時代は矢野健太郎さんの数学エッセイや数理パズルの本をよく読んでいた。
数学史を読むと、人間って数学的才能はぜんぜん進歩してないんだなと感じる。
たとえばスポーツなんかだと、五十年前と今とではまったくレベルが違う。
数十年前は世界トップの体操選手が「C難度!すごい!」ってやってたのに、今はC難度の技なんて準備体操みたいなもんで、F難度G難度とやりあっている。
ところが数学はそんなことない。千年前の人が発見した理論が今見てもめちゃくちゃすごかったり、百年前の人が出した問題が今でも解けなかったりする。
もちろん数学は蓄積だから後年の人間のほうが圧倒的に有利なんだけど(あとコンピュータが使えるってのも大きい)、そういうのを抜きにして個人レベルの能力だけで見るならピタゴラスやフェルマーよりすごい現代の数学者なんてほとんどいないんじゃなかろうか。
数学の話を読んでいると、とんでもない次元にまで連れていかれるのが楽しい。
そういやSF小説『三体』にもそんなエピソードがあったような気がする(記憶違いかもしれないが)。
遠い星の生き物と交信をするときに、まずは数学を使うと。
数学的に意味のある信号を送れば、ある程度発達した文明なら必ず理解できるはずだというのだ。
ふうむ。たしかに環境・姿形・文明など何もかも異なる文明と唯一共有できる話題というのは数学かもしれない。
そんな日が来るのかどうかしらないけど、未知なる文明と数学を使ってコミュニケーションをとりあうのって、なんちゅうかロマンあふれる話だなあ。
バタフライ効果とかカオス理論とかフレーズとしては聞いたことはあっても、いまいちよくわかっていなかった。
科学はどんどん進歩してるのに、天気予報はちっともあたらない。
五十年後の日蝕がいつ起こるかは正確に予測できるんだから三日後の天気ぐらいかんたんでしょ、と素人はおもってしまうのだが、どうもそうではないらしい。
天気を決定するデータは無限にあるのに観測できるデータは有限。おまけにちょっとずれただけでぜんぜんちがう結果が生まれるので、正確な予測はこの先もたぶん不可能なんだそうだ。
ふうん。地震予知とかも永遠に不可能なのかねえ。
「えっ、宇宙が始まった瞬間の0.1秒後の状態のことはわかっているのに三日後の天気もわからないの!?」
っておもっちゃうんだけどなあ。
いちばん信じられないエピソードがこれ。
で、その音楽に“素数”が重要な役割を果たしていた……。
嘘つけー!!と言いたくなるぐらいできすぎたエピソード。
こんなすごい話ある?
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