進化とは何か
ドーキンス博士の特別講義
リチャード・ドーキンス (著) 吉成 真由美 (訳)
リチャード・ドーキンス氏の『利己的な遺伝子』『盲目の時計職人』やアンドリュー・パーカー氏の『眼の誕生』などを読んで進化生物学の大まかな考え方については理解できた(つもり)。
なので、ドーキンス氏が2001年に子どもたちに向けておこなった講義をまとめた『進化とは何か』は、題材のひとつひとつはおもしろいんだけど、新しい知見は特に得られなかった。
高校生ぐらいのときに読んでいたらすごくおもしろかっただろうなあ。多少なりとも生物学に興味のあるすべての高校生におすすめしたい。
人間を含むすべての生物は遺伝子の乗り物、眼は突然誕生したわけではない、生物は進化の山を登っている、進化は結果であって目的ではない、などドーキンス氏の著作を読んできたものとしてはおなじみのフレーズが並ぶ。
しかし『盲目の時計職人』を読んだときにもおもったけど、ドーキンス氏はやたらと創造説論者に対する反論を述べているんだけど、日本人からすると「いったい何と闘ってるんだ」とおもってしまう。
日本には「この世のすべての生物は創造主がおつくりになったのだ」って考えてる人ってまずいないじゃない。たぶん敬虔なクリスチャンであっても、それはそれ、これはこれ、とおもってる。
「微生物が魚になってそのうち陸に上がったやつが哺乳類になって徐々に高等な生物になって猿人から旧人と進化して今のヒトになった」
という認識はみんな持っている(だよね?)。
だからドーキンスさんが「今いる生物は創造主が作ったのではなく進化の結果として(同時に過程でもある)ここにいるのだ!」と手を変え品を変え主張しているのを読むと「そんな小学生でも知っているあたりまえのことにページを割かないでくれよ」とおもってしまう。
でもアメリカには「創造主がおつくりになった。人間は人間として誕生した。他の生物を統治するために作られた特別な存在なのだ」と本気で信じている人が少なからずいるんだろうね。だからくりかえし反論しなきゃいけない。
一流の科学者がそういう人たちの相手をしなきゃいけないなんて、たいへんだなあ。つくづく同情する。
ダーウィンが『種の起源』を刊行したのが1859年。(構想は何十年も前からダーウィンの中にあったとはいえ)あまりにも遅い。
現代に生きる我々からすると「原始的な生物からサルを経て人類に進化した」という考え方はぜんぜんむずかしいものではない。幼稚園児でも理解できる。そんなかんたんなことに、どうして19世紀になるまで誰も気づけなかったのだろう?
ドーキンス氏はその理由についてこう書いている。
つまり、人間はものを見て「目的」を見出しやすい。そういうふうに脳が進化してきた。
腕時計が落ちているのを見れば、腕時計を見たことのない人であっても「これは自然に生じたものだ」とはおもわない。「何に使うのかはわからないけど誰かが意図を持ってデザインしたものだ」と考える。明らかに機能的に出てきているから。
それと同じように、たとえば眼球を見て、硝子体と水晶体で光を取り込んでそれを保護するために角膜があって視神経がつながっていて映ったものを脳でとらえていることに気づいたらら、こんな精巧な臓器が自然発生的にできたわけがない、誰かが意図を持ってデザインしたものだ、と考えてしまう。
実際は自然発生的にできたのだ(もちろんある日突然生まれたのではなく徐々に進化して今の形になった)のだが。
その「すべてに意味を見いだそうとしてしまう」性質のせいで人類はいろんな技術を発達させることができたわけだが、同時にその性質のせいで「我々が今こうしてここにいるのには意味があるにちがいない」「ヒトが他の動物より賢いのは大いなる存在の意志がはたらいているからだ」と考えてしまい、ダーウィンが発表するまで誰も「我々がいまここにいるのはたまたま。それ以上でもそれ以下でもない」とは気づけなかった、というのがドーキンス先生の解釈。
ふうむ。
たしかに人間って意味のないことにまで意味を見いだそうとしてしまうよね。
地震で多くの人が命を落としたら「なぜあいつは死んで自分は生き残ったのか」と考えてしまう、とか。
ふだんと違う行動をとったときにいいことがあったら「あれが幸運を呼び寄せたのだ」とおもっちゃうとか。
偶然でしかないのに、ついつい意味を見いだしてしまう。
「因果関係を見つける」のが知恵だとおもっていたけど、逆に「因果関係を見いださない」ほうが知恵のいることかもしれないな。
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