2026年6月2日火曜日

【読書感想文】アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』 / 「遊んでほしいワン」とは言わない

まじめに動物の言語を考えてみた

アリク・カーシェンバウム(著)  的場 知之(訳)

内容(e-honより)
動物にはヒトと同様に言語はあるのだろうか。では、何のために動物はしゃべるのだろうか。ヒトはどうして言語を使うようになったのか。


 ヒト以外の動物は言語(この本での言語とは、ボディランゲージなどは除く音声による言語)を持つのか。あるとしたらどのようなものなのか。言語を持つために必要な条件は何なのか。そもそも言語とは何なのか。

 オオカミ、イルカ、ヨウム(オウム)、ハイラックス、テナガザル、チンパンジーなどの動物の言語コミュニケーションを通して、まじめに動物の言語を考えた本。


 タイトルにあるように、ほんとにまじめ。

 ほとんどの人は「動物にも言語があってほしい」と思っているはず。動物語翻訳機みたいなものが発明されてペットの犬や猫と会話をすることができたらいいな、と。

 しかし著者の立場はあくまで冷静。「動物と会話したい」人たちに冷や水を浴びせるように、動物の言語は人間語に翻訳できるようなものではないと言いつづける。

「動物たちは鳴き声を使ってこんなことを言ってるんですよ!」とした方が話としてはおもしろいが、おもしろさよりも正確さのほうを優先している。少々堅苦しすぎるほどに。



 イルカは「自分自身の名前」を持っていて音声として発する、という話。

 イルカのホイッスルについて、確実にわかっていることが少なくともひとつある。イルカの各個体は、自分自身の名前を表すひとつの特別なホイッスルを発するのだ。
 この事実だけでも圧倒的な衝撃だ。これまでにわかっているかぎり、ヒトとイルカのほかに、自然状態で通常のコミュニケーションの一環として、自分に名前をつける動物はいない。イヌに自分の名前を覚えさせることはできる。他個体の声からその主が誰かを認識できる動物はたくさんいて、かれらは声を個体の「シグネチャー」として利用する。だが、自分自身を表すものとして独自の音の配列をつくりだすというのは、これらとは深層の部分で、本質的に異なる行動だ。しかもこの配列は、他個体にも認知され、使用される。かれらは本当に、自分自身をほかのイルカとは異なる「個」として理解していて、こうした理解をどの個体も等しくもっているのだろうか?どんなに疑り深い人でも、こうした可能性を考えずにはいられないはずだ。
 
 (中略)
 
 なぜ動物のなかで唯一イルカだけが自分に名前をつけるのかを説明するのは難しい。だが、答えは間違いなくかれらの社会構造にあるはずだ。世界にはたくさんの種のイルカがいるが、もっとも研究が進んでいるハンドウイルカとタイセイヨウマダライルカは、いずれも「離合集散型」と呼ばれる社会のなかで生きている。これは、ある個体と顔見知りの個体すべてからなる関係の輪の大きさはある程度固定的だが、関係の輪そのものは流動的である、という意味だ。食料や配偶相手など、そのときどきでどれだけ資源が手に入るかによって、大きな集団は分裂し、融合し、また分裂する。このような場合、ラジャに最後に会ってからずいぶんたつとしても、もし前回彼と協力してうまくことを運べたなら、ラジャのことを覚えておくほうが賢明だ。逆に、心底嫌いな相手のことも忘れないほうがいい。いずれにせよ、誰が誰かを知っていて損はない。

 自分自身の名前を持つということは、自分が他者からどう認知されるかをある程度わかっているということだろう。

「相手はおれのことをわからないかもしれない。でもおれと会ったことのあるやつならこの名前を聞けば思いだすよね!」という認知があるからこそ(もちろん明確に意図しているわけではないだろうが)自分の名前を発するわけだ。

「他のイルカは自分とは異なる認知を持つ個体である」と理解していないと、名前を名乗る必要がないもんね。その理解がなければ、仮に人間の持つような言語があったとしても「腹減った! 疲れた! 休もう!」みたいな感じになるだろう(主語は常に自分なので)。


 自分自身の名前を使うなんてやっぱりイルカって賢いね、とおもうが、話はそう単純ではない。

また、かれらにとってコミュニケーションをとる際に個体のアイデンティティがなぜそこまで重要なのかも、おおむね明らかになっている。広大な海のなかで、イルカは小グループをつくって生活しているが、グループのメンバーは顔見知りの個体リスト全体のごく一部でしかない。今週はこのメンバーで移動したり魚を獲ったりするけれど、来月、あるいは来年になれば、グループ構成はまったく違うだろう。かれらは付き合う相手を常に流動的に変える。したがって、他者の個体情報敵か味方か、家族か赤の他人かを認識することは決定的に重要だ。これはけっして簡単なことではなく、洗練されたコミュニケーションに加えて、たくさんの(おそらくは数十頭以上の)仲間のことを何年も何十年も覚えていられる、高度に発達した脳が必要だ。

 グループの構成員がたびたび変わるからこそ、名前が必要になるのだ。タコも知能が高いとされているが、タコはイルカのようにグループを作らないので名前を持つ必要がない。またオオカミのようにいつも決まったメンバーで群れをつくる動物も「ほら、おれだよ! 以前会った○○だよ!」と名乗る必要がない。

 言語を使うために必要なのは「知能」「発声器官」だけでなく、「そもそも言語を必要とするような生活をしているか」も重要なのだ。



 ヒトと動物が言語によってコミュニケーションをとるというのは夢のような話だが、実際にそれをおこなっている動物がいる。しかも、ヒトによって訓練されたわけでもないのに。

 ここで、ヒトと動物のコミュニケーションにおける例外中の例外を紹介しよう。ノドグロミツオシエはサハラ以南アフリカに広く分布する小さな鳥だ。外見こそ地味だが、この鳥は野生で自由生活を送りながら、ヒトとの驚異の協力関係を築きあげた。家畜化されたわけでも、飼育されたわけでも、訓練されたわけでもないのに、かれらはヒトがもつ、ハチの巣を壊してこじ開けるという便利な能力に気づき、さらにはヒトが蜂蜜を目当てにハチの巣を見つけて壊したがっていることを学習した。だが、僕たちヒトは広大なサバンナでハチの巣を見つけるのがあまり上手くない。一方、毎日木々の間を飛び回っているミツオシエには、おいしい幼虫がひしめく魅惑の食料庫に出くわすチャンスが豊富にある。そんなわけで、ミツオシエは名前のとおり、ヒトを蜂蜜のありかに導く。東アフリカの多くの部族は、ミツオシエとの間で互恵的な協力関係を保ち、導く側と導かれる側で双方が理解できる語彙を形成した。各部族はそれぞれに異なる口笛やその他の音声レパートリーを生み出し、その意味はヒトと鳥の間で共有されている。ミツオシエには、「ついてこい! ハチの巣を見つけたぞ!」を意味する決まった音声があり、現地部族にもまた蜂蜜採集に出かけたいときにミツオシエを呼ぶための、トリルとグラントを組み合わせた特別な音声がある。

 ミツオシエはヒトに蜂の巣のありかを教え、ヒトは蜂の巣を壊すことでミツオシエが蜂の幼虫を食べる機会を与える。見事な共生関係だ。その関係が言語によって支えられているのが興味深い。

 ヒトが利用している動物はいろいろいるけど、いちばん巧みに言語を使ってコミュニケーションをとっているのが、家畜でもペットでも類人猿でもなく野鳥だというのは意外。

 しかも対等な関係なのがすごい。ほとんどの家畜やペットって、人間からしたら「いたら便利だけどいなくてもなんとかなる」だが、動物側からしたら「ヒトに見捨てられたら生きていけない」場合が多い(その最たるものがカイコガ)。でもミツオシエはヒトがいたほうが便利だが、ヒトなしでも生きていける。ミツオシエこそが唯一のヒトの友だちと呼ぶにふさわしい動物かもしれない。



 動物の“言語”を理解する上で重要なのは、動物はヒトとはちがうし、ヒトになりたいわけでもないということを理解することだという。

 コミュニケーションでも同じことだ。動物が僕たちと同じ装備で同じ耳、同じ眼、同じ脳で――コミュニケーションをとっていると想像しつづけているかぎり、かれらの世界に踏み込むことはできず、かれらが言っていることを理解できない。けれども、僕たちの外へ、現代の人間社会の外へ踏み出して、動物たちのように物事を見て、聞いて、考えるのは、じつはそれほど難しくない。(中略)僕たちが苦戦する理由は、何よりもまず、僕たちがかれらの世界に住んでいないからだ。ものの見え方や聞こえ方がかれらと違うというのもあるが、それ以上に、僕たちはかれらのありのままの姿に目を凝らし、耳を傾けようとしていない。かれらと違って、僕たちの心配事は、食料を見つけ、捕食者を避け、配偶相手を惹きつけることではない。動物が探し求めているものに注目しなければ、かれらが何を話しているかは理解できない。動物たちを理解できないもうひとつの理由は、かれらに僕たちのようにふるまうことを期待しているせいだ。僕たちは、動物に人間らしさを求めがちだ。ペッのイヌやネコに語りかけるとき、僕たちはかれらに本気で自分のことをわかってほしいと願っている。かれらはある程度はわかってくれるが、このようなケースは例外だ。数千、数万年にわたる家畜化の過程で、動物とヒトの両方が、コミュニケーションの共通基盤を築くのに尽力してきたおかげなのだ。
 動物のありのままの姿に目を向け、かれらが暮らす世界のなかで、かれらの生活に密着して初めて、僕たちはかれらを理解できる。そうすればきっと、動物たちの現実が目に入り、かれらに言ってほしいことではなく、かれらが本当に言っていることが聞こえてくるはずだ。地球の生命の豊かな多様性を実感できる、じつに有意義なやり方だ。

 ぼくもいくつかの生き物を買ってきたからわかるけど、ついつい動物の中に「人間っぽい感情」を見いだしてしまうんだよね。愛情をもって観察するほど。

 イヌの動作を見て「しょんぼりしている」とか、ネコのしぐさから「放っておいてくれと言いたげだ」とか、ヒトの心理・行動を重ねあわせてしまう。

 だがヒト以外の動物は、「ヒトになれなかった動物」ではない。ヒトとはまったく異なる論理で動いているし、仮に彼らが言語のようなものを持つとしても、ヒトの言語とはまったく異なるものになるはずだ。少なくとも「遊んでほしいワン」とか「退屈だニャー」のような言語は持っていない(持てないのではなく、持つ必要がない)。


『まじめに動物の言語を考えてみた』でくりかえし語られるのは、動物の言語は(それがあるとして)人間の言葉のように単語に分解できるものではないということ。

 どっちかっていうと歌のほうが近いのかもしれない。より身体性を伴うし。


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