2020年3月12日木曜日

【読書感想文】「清潔な夫婦」はぼくの理想 / 村田 沙耶香『殺人出産』

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殺人出産

村田 沙耶香

内容(e-honより)
今から百年前、殺人は悪だった。10人産んだら、1人殺せる。命を奪う者が命を造る「殺人出産システム」で人口を保つ日本。会社員の育子には十代で「産み人」となった姉がいた。蝉の声が響く夏、姉の10人目の出産が迫る。未来に命を繋ぐのは彼女の殺意。昨日の常識は、ある日、突然変化する。表題作他三篇。

『殺人出産』

殺人が合法的な制度になった時代の物語。
 もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。
 昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすることと、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。
 偶発的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。
 殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺してもいい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。
 殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。
 日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。
 当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人工子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。
 死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師は言った。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。死をもって死を成敗するなんて、本当に野蛮な時代もあったものです、命を奪ったものは、命を産みだす刑に処される。こちらのほうがずっと知的であり、生命の流れとしても自然なことなのです、と教師は言い、授業を締めくくった。
設定はおもしろい。
でも説得力に欠ける。ぼくは入っていけなかった。

いまぼくらが暮らす世界とはまったくべつの世界のお話、であればすんなり受け入れられたとおもうんだけどな。
でも『殺人出産』の舞台は近未来の日本。現実と地続きになっている。
ってことは今の「人殺しはだめ」から「出産のために人を殺すのはすばらしいことだ」に至るまでの間に大きな社会的な葛藤があったはず。
そこを丁寧に書く必要があるのに、この小説ではたった数行の説明で済ませている。いちばん書かなきゃいけないところを、教師の口上という形をとることで読者への説得から逃げている。ずるい。

説得できないのはしかたない。もともと無理があるんだもの。
物語の本筋はここじゃないこともわかる。何十ページも割いて説明したら冗長になるだけかもしれない。
でも、だったらいっそ説明するなとおもう。稚拙な言い訳を並べたてるから「それはおかしくないですか」と言いたくなるのだ。いっそ説明せずに「こうなってるんです」でいい。

藤子・F・不二雄氏のSF短篇に『気楽に殺ろうよ』という作品がある。
設定は『殺人出産』によく似ている(言うまでもないが『気楽に殺ろうよ』のほうが四十年以上早い)。子どもをひとりつくれば一人殺していい、という世界の話だ。
『気楽に殺ろうよ』は基本的に説明がない。「なんかしらんけどこうなってました」で済ませている。氏の短篇にはこういう価値観が倒錯した世界を描いた作品が多いが、だいたいそうだ。
藤子・F・不二雄氏は知っていたのだろう。へたな説明をくだくだ並べるぐらいなら説明しないほうがおもしろいと。

SFとして読むには設定が雑で、ファンタジーにしては理屈っぽく、エンタテインメントとしては意外性がない、なんとも半端な読後感だった。



『トリプル』

この本の中でいちばん好きな作品だった。キモくて。
三人で性的な関係を結ぶことがマジョリティとなった世界。男一女二の場合もあるし、女一男二だったり、男三や女三という関係もある。
で、三人でやるセックスの描写があるのだがとにかく気持ち悪い。うげえ。ほぼスカトロじゃん。

でもその「気持ち悪い」という感覚が、トリプルの人がカップルのセックスに対して抱く感情であり、ヘテロセクシャル(異性愛者)が同性愛者のセックスに対して抱く感情と同質のものであると気づかされる。

ぼくはヘテロだが「LGBT? けっこうじゃないか。誰もが自らの性嗜好に対して自由であるべきだよ」なんておもっている。でも同時に、同性同士のセックスはキモイともおもっている。
どれだけ口では偉そうなことを言っていても、理屈と本能的な快不快ってぜんぜんちがうものなのだ。
結局人間は差別とは無縁ではいられないんだろうなあと気づかされた作品だった。



『清潔な結婚』

これはいちばん共感できたな。
性生活を排除した夫婦の話。うん、わかるわかる。

そうなんだよ。夫婦って恋人と家族を両立させなきゃならないんだけど、それってすごくしんどいんだよね。
それが苦にならない人もいるんだろうけど、ぼくにとってはけっこう負担が大きい。
ぼくは結婚して九年だけど、もうすっかりセックスレスだ。というか九年中八年半はセックスレスだ。でも仲はいいほうだとおもう。

だってぼくにとって妻は家族であり、子どもたちのおかあさんであり、経済的パートナーであり、愚痴をこぼしあえる仲間であり、くだらない話題で盛りあがる友人であり、ときには利害が対立する交渉相手だ。
そんな人といちゃいちゃしたいとおもわない。
夫婦間の性交渉を続けている人はすごいなあとすなおに感心する。
うちは子どもをつくるときは「そろそろ子どもつくるか。よしっ!」ってな感じで一念発起してがんばった。情動に動かされて、みたいな感じではぜんぜんない。むしろ本能が拒むのを理性で押さえつけて事に及んだ。

だから『清潔な結婚』で描かれる、性的な関係を完全に切りはなした「兄妹のような夫婦」はぼくの理想かもしれない(それぞれ家庭の外に恋人がいる、という点には共感できないけど。めんどくさそうだもん)。

家族としての最適なパートナーと理想の恋人はまったく別、というのは心から共感する。つくづくそうだよなあ。
恋愛結婚という制度自体が人類に向いてないのかもしれない。自由恋愛の延長に結婚があるのなんて長い人類の歴史の中でもごくごく限られた時代・社会の話だもんなあ。



『余命』

短篇というよりショートショートぐらいの長さ。
とはいえ何も起こらない。医療の発達によって自然死や事故死がなくなった世界で、人々は自分で死ぬ時を選ぶようになった、という説明だけの小説。

どれも設定はおもしろいんだけどなあ。頭でっかち尻すぼみ、という印象。
話を膨らませたりディティールをつきつめたりするのが得意でないのかなあ。

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