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2019年9月3日火曜日

【読書感想文】直球ファンタジー / 三浦 しをん『白いへび眠る島』

白いへび眠る島

三浦 しをん

内容(e-honより)
高校最後の夏、悟史が久しぶりに帰省したのは、今も因習が残る拝島だった。十三年ぶりの大祭をひかえ高揚する空気の中、悟史は大人たちの噂を耳にする。言うのもはばかられる怪物『あれ』が出た、と。不思議な胸のざわめきを覚えながら、悟史は「持念兄弟」とよばれる幼なじみの光市とともに『あれ』の正体を探り始めるが―。十八の夏休み、少年が知るのは本当の自由の意味か―。文庫用書き下ろし掌篇、掲載。

ファンタジーというかホラーというか。青春小説でもある。

生まれ故郷の小島に帰省した高校生の主人公。怪物が出る、といううわさを耳にして不吉な予感をおぼえる……。
という導入。島に伝わる伝説になぞらえた殺人事件でも起こるのかな、とおもいながら読んでいたら、ほんとに怪物が出る。
あっ、そういう話ね。

持念兄弟、神としてまつられる白蛇、うろこを持つ一族、ふしぎなものが見える少年、とけれん味の強い設定がたっぷり。
設定が語られ、徐々に不吉な予感が高まり、怪異現象が島を襲い、主人公が友情に支えられながら島を救う……というストーリー。

なんというか、順当すぎて拍子抜けしてしまった。
いや、悪いわけではなかったんだけど、定番のストーリーを素直に楽しむにはぼくがすれすぎてしまったというか……。
中学生ぐらいで読んでいたらまた楽しめたんだろうけど。

ストーリーにそんなにひねりがないところも含めて、民話っぽい雰囲気はよく出ている。
神話とか民間伝承ってそんなに意外性のあるストーリー展開じゃないもんね。
意外な正体もどんでん返しもない。正義が負けることもないし悪は封じこめられる(滅びるわけではない)。
だからこれはこれでいいのかもしれない。


ところで、離島に起る怪異現象、ということで堀尾省太 『ゴールデンゴールド』という漫画を思いだした。
 『ゴールデンゴールド』も神様の出現により島中がじんわりと破滅に向かっていく話ではあるんだけど、 『ゴールデンゴールド』は神様が直接手を下さずに人間の欲を利用していさかいを起こさせる。
狭い島の住人たちの様々な思惑が衝突しながらじわじわと人間関係が壊されていく。

ぼくにとってはこっちのほうがずっと怖い。


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2019年8月26日月曜日

【読書感想文】ふつうの人間の持つこわさ / 宮部 みゆき『小暮写眞館』

小暮写眞館

宮部 みゆき

内容(e-honより)
家族とともに古い写眞館付き住居に引っ越ししてきた高校生の花菱英一。変わった新居に戸惑う彼に、一枚の写真が持ち込まれる。それはあり得ない場所に女性の顔が浮かぶ心霊写真だった。不動産屋の事務員、垣本順子に見せると「幽霊」は泣いていると言う。謎を解くことになった英一は。待望の現代ミステリー。

写真屋だった建物に引っ越してきた高校生の主人公が、様々な心霊写真の謎解きを依頼され……というお話。
派手な犯罪や凶悪な登場人物などは描かれず、日常の謎系のミステリ。『ステップファザー・ステップ』みたいな味わい。

しかし、この謎解きはいただけない。オカルト頼り。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」って川柳があるけど、それならおもしろいんだよね。謎解きの妙があるから。
でも『小暮写眞館』は「幽霊の 正体見たり 幽霊だ」だからなあ。心霊写真が撮れたので調べてみたら正体は霊でした……ひねりがなさすぎる

 オカルトが好きじゃないんだよね、個人的に。 スパイス的に使うのならともかく、メインに据えられるとげんなりする。

怖いとかじゃなくて霊に興味がない。霊感があるだのどこそこのトンネルが出るだのこの部屋は前の住人が自殺して……だの言われても「あ、そ」としかおもえない。
見える人には見えるのかもね、自分には関係ないけど。
「南米の熱帯雨林に棲むイチゴヤドクガエルは強力な毒を持っているんだって。怖いよね」と言われても「ふーん。まあ自分には関係ないからどうでもいいけど」としかおもわないのと同じだ。

あと霊を感動させるための道具として使うことも気に食わない。なんかずるい。霊を出したらなんでもありになっちゃうじゃん。
宮部みゆき作品でいうと『魔術はささやく』もダメだったなあ。催眠術使うのはずるいでしょ。これも同じ感覚。





……ってな感じで上巻でずいぶんげんなりしながら読んだんだけどね。
でも下巻はおもしろかった。下巻はほとんど霊が関係なかったからね。わるいね、霊が嫌いなんだ。

上巻の伏線が下巻では生きて、幸せいっぱいそうに見える家族の病理も浮かびあがってくる。
下巻だけとってみれば、よくできた小説だ。


下巻には、我が子を亡くした母親が葬儀の場で親戚一同から追い詰められる様子が書かれている。
「どうして子どもを死なせたんだ」「なぜもっと早く気づいてやれなかったんだ」と。

追い詰めている人たちを駆り立てるのは悪意ではない。善意だったり、保身だったり、やりきれなさだったり、つまりはぼくらがみんな持っているものだ。
そういうあたりまえのものが、誰かを死の淵まで追い詰めてしまうことがある。

インターネットの炎上を見ていると、だいたいがそんなもんだ。
炎上する人も、させる人も、ほとんど悪意は持っていないように見える。正義感や見栄や義侠心や怯えが、炎上への引き金をひいてしまう。

『小暮写眞館』の読後感を一言でいうなら、よくある感想だけど「霊よりも生きた人間のほうがこわい」。
ふつうの人間のこわさがにじみ出た小説だとおもう。
くどいけど、霊が出てこなければもっとよかったんだけどなあ。


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2019年8月23日金曜日

【読書感想文】秘境の日常 / 高野 秀行『恋するソマリア』

恋するソマリア

高野 秀行

内容(e-honより)
内戦が続き無政府状態のソマリア。だがそこには、現代のテクノロジーと伝統的な氏族社会が融合した摩訶不思議な世界が広がっていた。ベテランジャーナリスト・ワイヤッブや22歳にして南部ソマリアの首都で支局長を務める剛腕美女ハムディらに導かれて、著者はソマリ世界に深く足を踏み入れていく―。世界で最も危険なエリアの真実見たり!“片想い”炸裂の過激ノンフィクション。

高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』は、とんでもなくおもしろい本だった。
紛争地帯でありながら氏族制度によって絶妙なバランスを保ち、海賊で国家の生計を立て、イスラム文化でありながらカート(覚醒剤みたいなもん)が蔓延している国ソマリランド(国際的には国家として認められていないけど)。

世界の秘境をあちこちまわった高野秀行さんがおもしろい国(国じゃないけど)というだけあって、なにもかもが異色。
西洋文明はもちろん、アラブやアフリカとも一線を画したユニークな国の姿を知ることができた。まだまだ地球には秘境があるのだ。そこに住んでる人もいるのに秘境というのは失礼かもしれないが、しかし想像の埒外にある文化なのでやっぱり秘境なのだ。
『謎の独立国家ソマリランド』多くの人に読んでほしい本だ。


で、その続編ともいえるのがこの『恋するソマリア』。
『謎の独立国家ソマリランド』を読んだ人には前作ほどの衝撃をないが、それでもソマリ人文化のユニークさはびしびしと伝わってくる。
 とはいうものの、客観的に見ても氏族の話はひじょうに面白い部分がある。特に私の興味を巻いていたのは氏族同士がいかにして争いを終わらせるかだ。一般には人が殺された場合、男ならラクダ百頭分、女ならラクダ五十頭分を「ディヤ(賠償金)」として支払うことで解決される。加害者ではなくその人が所属する氏族全員が分担して支払う(町では現金、田舎では本当にラクダで支払いが行われる)。交渉も氏族の長老が行う。事実上、これは国の法律にもなっている。
 これだけでも「現代にそんなことをやっている国があるのか?」と驚いてしまうが、もっと凄い解決方法が存在する。あまりに争いや憎しみが激しくなり、ディヤでは解決ができない場合、加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させるという方法だ。一九九三年、内戦がいちばん激しかったときも、このウルトラCで解決を図ったと言われ、また今現在でもときおり行われていると聞いていた。氏族依存症患者としてはなんとか、その具体事例を一つくらい知りたいと思った。
なんちゅうか、一見乱暴な制度だ。
人が殺されたらラクダ百頭分を支払わなきゃいけないってことは、裏を返せばラクダ百頭分を支払えば殺してもよいということになりそうだ(じっさいはどうかわからないが)。

「加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させる」はもっとひどい。
たとえば自分の親が殺されたら殺人犯の娘と結婚させられる、つまり殺人犯が義父になる(この本にはじっさいそうなった男性が登場する)。
それって賠償になるのか? 全員イヤな思いするだけなんじゃないの? という気もする。
まあ誰もトクしないからこそ痛み分けってことになるのかもしれないけど……。

しかし、現実にこのやりかたが今でも生き残っているということは、それなりに合理的な制度ではあるのだろう。

今の日本みたいに平和な国に暮らしていると、殺人事件が起こったら「どうやって加害者を罰するか」を考える。
でもソマリアのようにずっと戦いに明け暮れていた国だと、加害者の処罰よりも「どうやって報復の連鎖を防ぐか」のほうがずっと重要なのだろう。ひとつの殺人事件をきっかけに部族同士の抗争に発展して何十人もの死者を出すことになった、みたいな事例がきっといくつもあったのだろう。
「加害者の娘と被害者の遺児を結婚させる」というのは報復の連鎖を防ぐための方法なのだろうね。
当事者たちにはやりきれない思いも残るだろうけど「村同士の抗争を防ぐためだ。泣いてくれ」ってのは、それはそれで有用な知恵だとおもう。当事者の人権を無視した和解方法だけど、人権よりもまずは命のほうが大事だもんんね。



ソマリアで主婦たちに料理を教えてもらうことになった著者。
このへんのくだりはすごく新鮮だった。
 母語のことを訊かれて気分を悪くする人は世界のどこにもいない。イフティンもすっかり喜び、「こっちに来て」とか「これ、捨てて」などと教える。私がそれを覚えて、二人でやりとりすると、イフティンは得意満面、いっぽう、意味がわからないニムオは「感じわるい!」とむくれる。
 そこで今度はニムオに日本語で「元気ですか?」「ええ、元気です」と教えて、会話してみると、今度はイフティンが「タカノ、あなた、悪い人!どうしてあたしに教えてくれないの?」と怒る、というか怒るふりをする。そうして、三人でふざけているうちに、肉と野菜が煮えていくのである。
 いやあ、ソマリ語を習っていてよかった!! と珍しく思った。いつも「俺は何のために苦労してこんな難しい言葉を習ってるんだろう」と嘆いていたのだ。取材するだけなら英語で十分だからだ。でも、女子と通訳抜きで直接話したければ、ソマリ語を知らないといけない。英語を話す男子は掃いて捨てるほどいるが、女子ではめったにいない。そして通訳がいたら女子は距離をとってしまい素顔を見せてくれない。
 今さらながらに思う。ソマリの政治、歴史、氏族の伝統をいくら紐解いても、それは大半が「男の話」でしかない。月の裏側のように女性の姿はいつも見えない。いわば、未知の半分に初めて足を踏み入れた喜びを感じた。

日本だと「田舎に行ってその家に伝わる料理をおばちゃんから教えてもらう」みたいなテレビ番組がよくある。どうってことのない話だ。
これがイスラム世界だととんでもないことになる。
宗派にもよるが、イスラム教徒の女性は家族以外の男と話すことを禁じられていることが多い。まして夫のいない間に外国人を家に上げるなんて、宗派によっては殺されてもおかしくないような行為だ。

そんなわけで、外国人にはイスラム圏の女性の生活はほとんどわからない。
当然ながらどの国も人口の半分は女性だ。ソマリアに関しては多くの男が戦死しているので女性のほうがずっと多い。女性に触れないということはその国の文化の半分もわからないということだ。政治や経済のことは男性に聞けばわかるが、料理を筆頭とする家事や育児のことはヒジャーブ(イスラムの女性が顔を覆う布)に包まれたままだ。
そのガードを突破したのだから、うれしくないはずがない。

そういえばぼくが中国に留学していたとき、近くの商店街の二十歳ぐらいの女性と仲良くなり、「日本語を教えてくれ」と頼まれた。
今おもうと本気で日本語を学びたかったというより外国人がものめずらしいから話すきっかけをつくりたかったのだろうとおもうが、ぼくもうれしくなって商店街に通っては日本語を教えていた。きっと鼻の下は伸びきっていたはず。
母語を教えるのって楽しいよね。苦労もなく習得した言語なのに、特別な技能であるかのように教えられるもんね。女性相手ならなおのこと。



ソマリアは危険地帯のはずなのだが、読んでいるとずっと平和な旅が続く。紛争地帯っていったってこんなもんだよなあ、とおもっていたら急転直下、高野さんの乗っていた装甲車が武装勢力から銃撃される。
「逃げろ、逃げろ!」と知事が運転席に向かってわめく。だが、逃げられないのか、逃げてはいけないという規定があるのか、アミソムの運転手はその場で車を動かし続ける。やがて、ガクッと車は止まった。死のような沈黙と、巨大な鉄の棺桶を釘で打ち付けるような砲弾、銃弾の音。
「俺はこのまま死んでしまうのか......」と思った。こんな最期があるのか。ソマリアの状況を考えれば、何の不思議もない。今までが幸運だったとさえ言える。来るべき日が来たのかもしれない。待ち伏せは仕掛ける方が圧倒的に有利なのだ。後悔の念はなかったが、唯一ソマリランドの本を出版する前に死ぬのは悔しいと思った。
 正直言って、恐怖感はそれほどひどくなかった。あまりにも現実離れしていたからだ。ベトナム戦争の映画を音響設備のよい映画館で観ているような臨場感だった。
 戦場の死とは、こうして実感を伴わないまますっと訪れるのかもしれない。

開高健の『ベトナム戦記』をおもいだした。
ベトナム戦争に従軍した著者のルポルタージュだが、圧巻は後半の森の中で一斉に銃撃を受けるシーン。二百人いた部隊があっという間に数十名になってしまう様子が克明に描写されている。読んでいるだけで息が止まりそうな恐怖を味わった。

それまではどちらかというと物見遊山という筆致で、戦争なんていってもそこには人間の生活があって兵士たちも案外ユーモアを持って過ごしているんだねえ、なんて調子だったのに一寸先は闇、あっというまに死の淵へと引きずりこまれてしまう。


人が死ぬときってきっとこんな感じなんだろうな。
予兆とかなんにもなくて、少々あぶなくても自分だけは大丈夫とおもって、「あっやばいかも」とおもったときには手遅れで、きっと死をどこか他人事のように感じたまま死んでいくんだろう。
戦死した兵士も大部分はそんな感じだったんじゃないだろうか。


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2019年8月16日金曜日

【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

赤毛のアン

L.M. モンゴメリ (著)
村岡 花子 (訳)

内容(e-honより)
りんごの白い花が満開の美しいプリンスエドワード島にやってきた、赤毛の孤児の女の子。夢見がちで、おしゃべり、愛情たっぷりのアンが、大まじめで巻きおこすおかしな騒動でだれもが幸せに―。アン生誕100周年をむかえ、おばあちゃんも、お母さんも読んだ、村岡花子の名訳がよみがえりました。世界一愛された女の子、アンとあなたも「腹心の友」になって!

ご存じ、赤毛のアン。子どもの頃に読んだはずだけど「赤毛を黒く染めようとして髪が緑になった」というエピソードしか記憶にない。子ども心に「変な染料を使っても緑にはならんやろ」とおもったのをおぼえている。
で、三十代のおっさんになってから再読。
例の「赤毛が緑に」はかなりどうでもいいエピソードだった。



アンがいちご水とまちがえてぶどう酒をダイアナに飲ませてしまう、というエピソードがある。
これを読んでおもいだした。

まったく同じことをぼくもやった!

小学生のとき。
母が青梅に氷砂糖を入れ、そこに水を入れて「梅ジュースやで」とぼくに飲ませてくれた。おいしかった。

翌日、友人のKくんが遊びにきた。
台所に行ったぼくは、昨日の「梅ジュース」が瓶に入って置いてあることに気づいた。
ぼくは「梅ジュース」をKくんにふるまった。あの後母がホワイトリカーを注いで梅酒にしていたとも知らずに

Kくんは一気に飲み、顔をしかめた。「なんか変な味がする」
「え? そんなことないやろ」ぼくも少しだけ口をつけた。昨日とちがう味がする。おいしくなくなってる。
「あれ。なんでやろ。昨日はおいしかってんけどなあ」

しばらくして、Kくんは気分が悪いといって家に帰った。
後からKくんのおかあさんに聞いた話だが、Kくんは自宅に帰ったあとに大声でなにかをわめきちらし、まだ夕方だというのにグーグー寝てしまったそうだ(Kくん自身も記憶がなかったそうだ)。
赤毛のアンのエピソードそのままである。
おもわぬところで昔の記憶がよみがえった。まさかぼくと赤毛のアンにこんな共通点があったなんて。


ちなみに、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いた朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも友人にお酒を飲まされて酔っぱらうエピソードが描かれていたそうだ。



ところで、最近の『赤毛のアン』について言いたいことがある。
『赤毛のアン』は今でも人気コンテンツらしく、各出版社からいろんな版が出ている。
中にはイラストを現代風にしたものも。

講談社青い鳥文庫(新装版)
集英社みらい文庫(新訳)
学研プラス 10歳までに読みたい世界名作

まったくわかってない。
アンをかわいく描いちゃだめでしょ

現代的なイラストをつけることに文句はない。古くさい絵だとそれだけで子どもが手に取ってくれなくなるからね。
だから、こんなふうに『オズのまほうつかい』のドロシーを現代的なかわいい女の子に描くことは大賛成だ。


でもアンはだめだ。

「やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの見た目のよくない少女が、持ち前の明るさと豊かな想像力で周囲の人間を惹きつける」
これがアンの魅力だ。

アンを美少女に描いてしまったら設定そのものが崩れてしまう。
「アンは生まれついての美少女だったのでみんなに愛されました」だったなら、ここまで世界中の子どもたちから愛されなかったにちがいない。
 まもなくアンが、うれしそうにかけこんできましたが、思いがけず、見知らない人がいましたので、はずかしそうにへやの入り口のところに立ちどまりました。
 そのすがたは、とてもきみょうに見えました。
 孤児院から着てきた、つんつるてんのまぜ織りの服の下から、細い足がにょきっと長くでていますし、そばかすはいつもより、いっそうめだっていました。
 かみは風にふきみだされて、赤いこと、赤いこと、このときはど赤く見えたことはありませんでした。
「なるほど、きりょうでひろわれたんでないことはたしかだね。」
と、レイチェル夫人は力をこめていいました。
 夫人はいつでも、思ったことをえんりょえしゃくもなしに、ずけずけいうのをじまんにしている、愛すべき、しょうじき者の一人だったのです。
「この子はおそろしくやせっぽちで、きりょうが悪いね。さあ、ここにきて、わたしによく顔を見せておくれ。まあまあ、こんなそばかすって、あるだろうか。おまけにかみの赤いこと、まるでにんじんだ。さあさあ、ここへくるんですよ。」
 すると、アンは一とびに、レイチェル夫人のまえにとんでいって、顔をいかりでまっかにもやし、くちびるをふるわせて、細いからだを頭からつまさきまでふるわせながら、つっ立ちました。そして、ゆかをふみならして、
「あんたなんか大ききらい──大きらい──大きらいよ。」
と、声をつまらせてさけび、ますますはげしくゆかをふみならしました。

この描写からもわかるように、アンは初対面のおばさん(しかも“しょうじき者”)から「きりょうが悪い」と言われるぐらいのブスで、そのことを自覚してコンプレックスに感じている少女だ。
だからアンの挿絵は美少女であってはいけない。『美女と野獣』の野獣がグロテスクなビジュアルでなければ話が成立しないように。

赤毛のアンの魅力をきちんと理解している本もある。

ブティック社 よい子とママのアニメ絵本

徳間アニメ絵本

ここに描かれているアンは、美少女キャラのダイアナにくらべて明らかに見劣りしている。アンを、がんばってブスに描いている

身も蓋もない言い方をすれば、赤毛のアンは「ブスが美人より輝く物語」だ。

『白雪姫』や『シンデレラ』のような生まれながらの美女がいい目を見る物語が素直に受け入れられるのはせいぜい幼児まで。成長するにつれ、自分が「お妃さまに嫉妬されるようなこの世でいちばん美しい存在」でないことがわかってくる。
だからこそ、自分の見た目に悩みを抱える十一歳のアンの物語が世界中で読まれてきたのだ。

他の作品はどうでもいいけど『赤毛のアン』だけはちゃんとブスっ子にしてくれよな!


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2019年8月9日金曜日

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

世にも奇妙な人体実験の歴史 

トレヴァー・ノートン (著)  赤根洋子 (訳)

内容(e-honより)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線…。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた!梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。

いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。

世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。

ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。

でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。

そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。




『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。

この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。

毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
 この問題に決着をつけるためには実験が必要だった。ハンターのアイディアは、誰かを淋病に感染させ、その人に梅毒の兆候が現れるかどうかを待つ、というものだった。兆候が現れれば仮説が正しかったことになるし、現れなければ仮説が間違っていたことが明らかになる。淋病にも梅毒にも感染していないことが確実に分かっていて、しかも性器を気軽に毎日診察できる実験台と言えば、間違いなくハンター自身しかいなかった。
 ハンターは自分のペニスに傷をつけ、ボズウェルが「忌まわしきもの」と呼んだ淋病患者の膿をそこに注意深く塗りつけた。数週間後、彼のペニスには硬性下疳と呼ばれる梅毒特有のしこり(これはのちに、「ハンターの下疳」と呼ばれるようになった)が現れた。そのとき彼が覚えた満足感を想像してみてほしい。
 ハンターが考慮に入れていなかったことが一つあった。それは、膿を提供した患者が「淋病と梅毒の両方」に罹患しているかもしれないということだった。彼はうかつにも、自らの手で自分を梅毒に感染させてしまったのである。早期に進行を食い止めなければやがて鼻の脱落、失明、麻痺、狂気、そして死へと至る恐ろしい病、梅毒に。理性的な人間もときにはまったく道理に合わないことをするものである。
こんなエピソードのオンパレード。

世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。

それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。

 彼の最初の成功は、アヘンの有効成分を発見し、これを(ギリシャ神話の眠りと夢の神モルフェウスに因んで)モルヒネと名づけたことだった。彼はまず、純粋なモルヒネを餌に混ぜてハツカネズミと野犬に食べさせ、その効果をテストした。彼らは永遠の眠りについた。これに怯むことなく、彼は仲間とともにモルヒネを服用し、その安全量を見極めようとした。彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した。すぐに全員が熱っぽくなり、吐き気を催し、激しい胃けいれんを起こした。中毒を起こしたことは明らかだった。ことによると、命に関わるかもしれない。嘔吐を促すために酢を生で飲んだあと、彼らは意識を失って倒れた。酢を飲んだおかげで死は免れたが、苦痛は数日間続いた。
 ゼルトゥルナーはモルヒネの実験を続け、アヘンで和らげられないほどの歯痛にもモルヒネなら少量で効くことを発見した。彼は、「アヘンは最も有効な薬の一つだ。だから、医師たちはすぐにこのモルヒネに関心を持つようになるだろう」と期待を抱いた。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?

しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。

こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。




今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。

それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。

 フィールドが死ぬほどの目にあったにもかかわらず、その後ウィリアム・マレルという若い医師がフィールドと同じ実験を試みた。マレルの実験方法は驚くほどカジュアルだった。彼はニトログリセリンで湿したコルクを舐め、それからいつもの診察を始めた。しかし、すぐに頭がズキズキし、心臓がバクバクし始めた。
「鼓動のその激しさといったら、心臓が一つ打つ度に体全体が揺れるのではと思われるくらいだった……心臓が鼓動する度、手に持ったペンがガクンと動いた」。にもかかわらず、彼はニトログリセリンの自己投与を続け、その実験はおそらく四十回以上に及んだ。彼は、ニトログリセリンの効果のいくつかが当時血管拡張剤として使用されていた薬のそれに似ていることに目ざとく気づき、自分の患者にニトログリセリンを試してみた。現在、ニトログリセリンは狭心症の痛みを緩和するための標準的な治療薬になっている。

この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。

人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。

読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。


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ぼくのほうがエセ科学



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2019年8月7日水曜日

【読書感想文】失敗は見て見ぬふりの日本人 / 半藤 一利・池上 彰『令和を生きる』

令和を生きる

平成の失敗を越えて

半藤 一利  池上 彰

内容(e-honより)
政治の劣化、経済大国からの転落、溢れかえるヘイトとデマ。この過ちを繰り返してはならない。平成の失敗を徹底検証する白熱対談!

世界情勢、政治、天皇、災害、原発、インターネットといったテーマを切り口に「歴史やニュースをわかりやすく伝えるプロ」のふたりが平成という時代をふりかえった対談。

たくさんのテーマを扱っているので、ひとつひとつの話はちょっと浅くて物足りない。たとえば「平成の政治史」だけで一冊ぐらいの分量だったらもっとおもしろかったとおもう。
でもまあ、これ以上深い話はこの人たちの仕事じゃないか。入口まで連れていくのが半藤さんと池上さんの仕事だもんな。




「平成の失敗を越えて」とサブタイトルがついているように、話の八割ぐらいは「平成の三十年で悪くなったこと」についてだ。
年寄りのぼやきっぽさもあるが、こと日本の経済と政治に関してはまちがいなく劣化しているとぼくもおもう。
平成の三十年で、日本は数えきれないほどの失敗してきた。そしてそのほとんどはきちんと総括できておらず、いまだ手つかずの問題も多い。

政治の不調の原因は、特定の個人や団体にあるのではないとぼくはおもう。
「小選挙区制」というシステムの問題だ。
小選挙区比例代表並立制を生んだのは、1994年に成立した政治改革四法である。
池上 あのとき、「政治改革」が正義でそれに反対するのは「守旧派」あるいは「抵抗勢力」とレッテルを貼られた。「改革に反対する者たち」と括られて。
半藤 わたくしもそう言われました(笑)。二党政治というのは日本人に向かないと、かねてわたくしは思っていました。戦前の日本は民政党と政友会の二党政治でした。野党になったほうは、ときの政権をひっくり返そうと思ってしばしばおかしな勢力と結びついた。昭和初期に政友会と結びついたのが軍部と右翼でした。そしてやがて、軍部は政友会を利用しつつ好き勝手をはじめてこの国を戦争へと向かわせることになるんです。と、いうような歴史があるのだから日本の二党政治は怖いよ、と言っても、おっしゃるように「守旧派」呼ばわりされてしまう始末でね。
池上 イギリスやアメリカのように対立する二党による政権交代があったほうがいい、という論調がたしかにメディアでも強かった。日本は中選挙区制だからずっと政権交代が起きないのだと。小選挙区制にすれば大量の死に票を出すことにはなるけれど、そのことよりも、どちらかが勝つという仕組みのほうがいい。そう言って制度を変えるわけですよね。
 じつはその頃イギリスでは、保守党と労働党だけではなく、第三の勢力として自由民主党が出てきていました。二党ではかならずしもうまくいかないということが明白になっていたからです。にもかかわらず日本では政権交代可能な二党が、競い合うような制度がいいと信じられていた。アメリカだってそうじゃないか、共和党と民主党で代わる代わる政権を担当しているよと。なんとなくこう、海外はこうなっているから日本もそうすべきだ、というような発想や主張は根強くありますね。「世界に遅れるな」とばかりに。
小選挙区制のダメなところは今までにもさんざん書いているのでここではくりかえさないけどさ。

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】

民主主義を破壊しかねない小選挙区制だけど、導入されたときは
「民主主義をぶっこわすために小選挙区制にしよう!」
とおもっていた人はほとんどいないんだろう。当時の人たちは「小選挙区制こそすばらしい制度」と信じていたんだなあ。

民主主義をぶっこわしたのは当時の日本人みんなだったのだ。
半藤 こうして認めてみると、やっぱり小選挙比例代表並立制の導入は、日本の岐路でしたねえ。政治家がすっかり政党のロボットになっちゃった。死に票が山ほど出て選挙が民意を伝えるものではなくなってしまった。よく主権、主権といいますがね、主権には二種類ある。国内的な政治主権と、外政的な政治主権です。北方領土変換交渉のさなか、ブーチンが安倍総理にこう言いました。「そこにアメリカの基地など決してつくらせないと言うけれど、沖縄で新基地建設業反対があれだけ叫ばれているというのに、政府与党はそれを無視しているじゃないか」と。つまり日本はアメリカの要求に逆らえない国なのだから、なんでもイエスなんだから、北方領土でもまたおなじことになるという疑念を示した。それが意味するのは、安倍首相の国内的政治主権というものは、ぜんぜん国民に説得力がないということなんです。
 プーチンが指摘したように、日本の政府与党は、選挙で勝ったら好きなようにやっていいのだとばかりに世論なんか無視している。わたくしに言わせりゃ、もとはと言えば小選挙区比例代表並立制のせいなんです。

まあ失敗したこと自体はいいわけだよ。
現状を予想できた人は当時ほとんどいなかったんだろうし。
ダメなのは失敗を改める制度がないことなんだよね。

今の国会議員の多くは小選挙区制のおかげで当選できた人たちなので、それを変えようとしない。
政治制度なんて完璧になるはずないんだから、フィードバックが働かない制度をつくっちゃだめだよ。

現行の小選挙区制は裁判所もずっと違憲状態だっていってるのにいっこうに直らないんだから。
民意がそのまま反映されたら困る人がいるんだろうなあ。

選挙制度は利害関係者である政治家に決めさせちゃだめだよね。裁判所とかの独立した機関にやらせなきゃ。

特に最近は、情報の地域差はすごく少なくなったし、その一方で都市と地方の人口差は開くばかり。地域ごとに選挙区を分ける理由がどんどん薄くなっていっている。
個人的には、大選挙区制にしてしまってもいいんじゃないかとおもう。




原発について。
半藤 日本では送電網をもっている旧電力会社のカがあまりに強いので、地域に合った発電・供給を実現する新しいとりくみがうまくいかないようですね。いつもギクシャクしている。いまだに原子力発電にしがみついている。
池上 ドイツは、メルケル首相が福島第一原発の大事故を見てエネルギー政策をすぐさま転換しました。前の年にメルケルさんは従来の脱原発政策を緩和させて、運転延長の方針を打ち出したばかりだったんです。しかしあの事故を契機に原発廃止に明確に舵を切った。「あの日本ですらコントロールできないものは止めるべきだ」と言ったんです。
 イタリアでも、二〇一一年のフクイチの事故後の六月、原子力発電の再開の是非を問う国民投票があって、政府の再開計画が否決されているんです。街頭インタビューで反対票を投じたご婦人が、「原発は日本人ですらコントロールできない。街のごみ収集もちゃんとできないイタリア人が、管理できるわけないわよッ」と答えていました(笑)。
半藤 他山の石としたドイツもイタリアも、えらいもんです。ところが当事国である日本の政治家どもは福島の大災害からまったく学んでいない。で、原発輸出に熱心になっている。原発問題は、平成が残した大課題だと思いますねえ。

日本の原発の失敗を見てドイツやイタリアは原発廃止に舵を切ったのに、当事国である日本だけがいまだに原発にしがみついている。
失敗であることに気づきながら責任をとりたくないばかりに失敗から目を背け、取り返しのつかない事態へ突き進んでしまう。すごく日本らしい光景だ。

「日本軍が負けるわけがない」
「地価が下がるわけがない」
「原発が制御不能になることはない」
昭和も平成も、失敗に対する日本の体質は少しも変わっていないなあ。




ぼくはまだ三十数年しか生きていないけど、ここ数年で国内の空気はどんどん息苦しくなっているように感じる。

この本の中で池上さんと半藤さんが「我々もネットでは反日と呼ばれている」とボヤいている。
彼らは日本もアメリカも中国も北朝鮮も等しく「いいとこもあるし悪いとこもあるよね。悪いところはちゃんと批判しなければ」という立場をとっているとおもうんだけど、それでも「反日」になってしまうのだ。
日本政府礼賛でなければ「反日」、という風が吹いているように感じる。

もちろんそういう人がごく一部であることはわかってるんだけど、声が大きい(あるいは複数アカウントを使うなどして数を多く見せている)から多数派であるように感じてしまう。ああ、息が詰まるぜ。


この閉塞感は、経済と無関係ではないだろう。
残念ながら日本の経済力は(少なくとも相対的には)どんどん落ちていっている。日本は先進国ではなく衰退途上国だ、と誰かが言っていた。多くの日本人の実感に近いとおもう。

景気のいいときには「このままじゃ日本はだめだ。立ち止まって反省しよう」みたいな言説が主流だったのに、経済が成長しなくて閉塞感が高まるとかえって「威勢のいい話以外は認めないぜ!」という雰囲気になってしまう。
現実から目を背けたくなるのだ。

つぶれる会社ってこんな空気なんだろうなあ。
そういやぼくは以前書店にいたけど、出版業界ってもう衰退していくことが誰の目にも明らかだから、業界の集まりなんかでも逆に景気のいい話しか出てこないんだよね。
「こんな仕掛けをした本が売れました!」とか「〇〇出版社が業績アップ!」みたいな。

たぶん大戦に突入したときも同じような空気だったんだろうね。





以前、『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』という本の感想としてこんなことを書いた。

日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

この体質は今もって変わっていない。

だからこそこうして半藤・池上両氏は「平成の失敗を振り返ろう」と警鐘を鳴らしているわけだが、そういう人は少数派で、多数派からは「せっかくの前向きな空気に水を差すなよ」と疎まれてしまう。

はたして令和時代は失敗を総括して軌道修正のできる時代になるんだろうか。
それとも、過去と同じように取り返しの失敗に突き進んでいく時代になるのだろうか。
ぼくの予想は、残念ながら……はぁ……。


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2019年8月1日木曜日

【読書感想文】小田扉『団地ともお』


小田扉『団地ともお』


漫画の魅力を文字で伝えるのはなかなか困難だが、『団地ともお』という漫画の魅力は、センスのいい笑いと不条理な世界観の融合にある。

昔はトンカツのようなこてこてのギャグも好きだったが、歳をとると「どやっ、おもろいやろっ! わろてや!」って感じのギャグはもう胃もたれして受けつけなくなってきた。
その点『団地ともお』の笑いはぜんぜんもたれなくていい。うどんのようにおなかにやさしい。


主人公のともおは、団地に住む小学生。
団地というと高度経済成長期のイメージだが、ともおは現代に生きる小学生だ。
アイテムとしてパソコンも出てきたりするが、基本的にぼくが小学生だった1990年代とあまり変わらない生活をしている。
虫を集め、カードゲームに興じ、単身赴任中の父さんが帰ってきたら飛びあがって喜び、宿題を娯楽に変えられないかと頭を悩ませ、野球やサッカーで泥だらけになっている。

ぼくも同じような遊びをしていた。
ところがふしぎと、ノスタルジーを感じない。

ひとつには『団地ともお』を読んでいるときはぼくも男子小学生の気持ちに戻っているから。小学生が小学生の生活にノスタルジーを感じるわけがない。

そして『団地ともお』の世界は日常的でありながら非日常だから。
基本的に一話完結なのだが、突然パラレルワールドが描かれたり、過去に行ったり、幽霊が出てきたり、モノや動物が意識を持ったりする。そのことに対して、たいていの場合なんの説明もない。あたりまえのようにファンタジー世界が描かれる。
読んでいるうちに「どうやら今回はパラレルワールドの話らしいな」となんとなくわかるだけだ。
で、翌週には何事もなかったかのように現代の団地に戻っている。

かつてラーメンズの小林賢太郎氏が自分たちのコントについて「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常を描いている」と語っていたが、それに近い。
奇妙を奇妙と感じさせないように描く、ってなかなか易しいことじゃないよね。

これもまた小学生っぽい。子どものときって、異世界がもっと身近にあった気がする。
ふとした瞬間に妙な世界に行ってしまうことがたびたびあったんじゃないかな。たぶん気のせいだろうけど。




『団地ともお』には、しばしば死が描かれる。
死者が幽霊となって出てくる、みたいな軽快な話が多いが、中にはすごく現実的な描き方をしていることもある。
印象に残っているのは、どちらも初期の名作だが、
「過去に子どもをなくした夫婦がともおを預かり、冗談めかして『うちの子になっちゃう?』と言うエピソード」と
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」
だ。

どちらもセンセーショナルな死ではなく、日常からすごく身近なところにある死だ。

「過去に子どもをなくした夫婦」は、もう悲嘆にくれてはいない。子どもを亡くしたのは何年も前のことだからだ。悲しい思い出ではあるがそれなりに自分の中で消化して、日常を取り戻している。
しかしともおが遊びにきたことでかさぶたになっていた傷口が開いて、様々な思いが少しずつ流れだす。
この表現がさりげなくてすばらしい。


「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」が伝えるのも、悲しみというより喪失感に近い。

ぼくは数年前旧友を亡くした。くも膜下出血による突然死だった、と聞いた。
亡くなった彼とは教室で言葉を交わす程度で、すごく仲が良かったわけではない。高校卒業後は同窓会で一度会ったことがあるだけ。死んでいなかったとしても、もしかしたら一生会わないままだったかもしれない。
けれど、訃報を耳にしたときは胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。そうか、あいつはもういないんだなあ。涙を流すほど悲しいわけではない。病死なのだから誰かを恨むような気持ちでもない。ただ茫々とした寂しさがあった。

たいていの死はそんなものなのだろう。悲しくないわけじゃないけど、号泣したり憤ったりするほとではない。
子どものころに戻りたいとおもっても戻れないのと同じで「寂しいけどしょうがないな」ぐらいの感覚。

この感覚を漫画で表現できる(しかもユーモアで包みながら)漫画家はそう多くないだろう。
『団地ともお』にはときどきこうした文学としか言えないような回がある。
ばかばかしいギャグの間に質の良い文学がはさみこまれるのだから、たまらない。




主人公が男子小学生なので「男子から見た世界」が描かれることが多いのだが、『団地ともお』に出てくる女子もまた魅力的だ。
小田扉の初期の傑作『そっと好かれる』や『男ロワイヤル』で描かれていたような自由自在に生きる女性も魅力的だが、『団地ともお』の女子のリアルなたたずまいもいい。

乱暴者で男子にも喧嘩で勝つ女の子、まじめで先生からのウケはいいが男子からは嫌われている女の子、言いたいことをはっきり口に出せない女の子、集団になると強気な女の子、人の嫌がる仕事を人知れず引き受ける女の子。
どのクラスにもひとりはいたような子ばかりだが、彼女たちの悩みが丁寧に描かれている。

そういえば小学生のときって、男子にとっては女子という存在はひとしく"敵"だったよなあ。なにかというと男子と女子が対立。おとなしい子ややさしい子でも、女子というだけで敵だった。

彼女たちにもそれぞれの悩みがあるなんて、当時はまったく考えなかった。からっぽだとおもっていた。実はぼく自身がからっぽだっただけなんだけど。
そうかあ、あのおとなしい女の子たちもこんなことに悩んでたんだろうなあ。数十年遅れで女子小学生の気持ちがちょっと理解できたような気がする。




最終回もいつも通りの『団地ともお』だった。『団地ともお』らしい。
あんまり終わった、という感じがしない。まるではじめから自分自身の過去の思い出だったような気がする。

ときどきでいいから、また続きが読みたいなあ。

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工事現場で遊んでいる男子小学生


2019年7月31日水曜日

【読書感想文】犯人が自分からべらべらと種明かし / 東野 圭吾『プラチナデータ』

プラチナデータ

東野 圭吾

内容(e-honより)
国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは?鍵を握るのは謎のプログラムと、もう一人の“彼”。果たして神楽は警察の包囲網をかわし、真相に辿り着けるのか。

ミステリとおもって読みはじめたが、近未来SF+サスペンス+サイコ小説って感じだった。

多重人格の主人公、素性不明の謎の少女、DNA捜査システム、新技術をめぐる日米の攻防、裏に隠れた大物の陰謀……と東野圭吾氏にしてはずいぶんケレン味の強い設定。

ただ、どぎつい設定のわりにストーリー展開は平凡。ある研究者が冤罪で追われ、警察から逃亡しながら真犯人を追う……。と、今までに何度も読んだことのあるような展開。真犯人も「まあ順当だよね」という人選だし、謎となっている“プラチナデータ”も想像を超えてくるものではなし。

まあそれだけなら「そこそこのサスペンス」だったんだけど、ラストでがっかりして大きく点数を下げた。

「主人公を追い詰めた犯人が自分からべらべらと種明かし」があったからだ。

これやられたらほんと興醒めなんだよなー。

「おまえはどうせ死ぬのだから冥土の土産に教えてやろう」ってやつね。

聞かれてもないのに自分に不利になることを長々と語るやつね。

計算高くて慎重なはずの犯人なのに、その瞬間だけは相手に逃げられるとか録音されてるとか一切考えないやつね。

『プラチナデータ』の犯人は、典型的なこのタイプだった。
まあしゃべるしゃべる。
全部教えてくれる。なんて親切なんだ。
おまけに、抵抗した主人公と格闘している間もべらべらしゃべる。
「君も警察官だから、武道の心得はあるだろう。しかしこう見えて、私も柔道では黒帯なんだ。おまけに薬の影響で、君は十分な実力を発揮できないときている。勝負あったね。ああ、もう一つ付け加えておくと、この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかけることなど、私にとっては朝飯前なんだよ」
これ、信じられないかもしれないけど、犯人と主人公が銃を奪いあって格闘しているときに、犯人が主人公の首を絞めながらいうセリフだからね。
生きるか死ぬかの格闘をしながらいうセリフかね、これが。

つまりこれは作中で交わされている会話じゃなくて読者に対する説明なんだよね。
無理のあるストーリーをごまかすために、言い訳がましいセリフを登場人物に吐かせてるわけです。
「素手での格闘になったら警察官が勝つだろ」「絞め殺したらすぐばれるだろ」というツッコミを封じるために説明させているわけです(ちなみに「この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかける」方法は一切説明されない。思い浮かばなかったんでしょう)。

コントを演じている役者がいきなり客席のほうを向いて「えー今のは何がおもしろかったのかといいますと……」と説明しだしたようなものなのです。
だせえ。


東野圭吾作品って初期作品はともかく最近はどれも一定の水準をキープしてるとおもってたんだけど、これはめずらしくその水準に達してなかったなー。


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2019年7月30日火曜日

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

「地図感覚」から都市を読み解く

新しい地図の読み方

今和泉 隆行 

内容(e-honより)
方向音痴でないあの人は地図から何を読み取っているのか。タモリ倶楽部、アウト×デラックス等でもおなじみ、実在しない架空の都市の地図を描き続ける鬼才「地理人」が、地図を感覚的に把握するための技術をわかりやすく丁寧に紹介。オールカラー図解。

地図界では有名人の地理人こと今和泉隆行さんの本。
先日、この人のトークショーに行ってきた。『新しい地図の読み方』もトークショーの会場で買ってきたものだ。
地理人氏は、存在しない町の地図を描いた「空想地図」で有名だ。
空想地図については以下のサイトなどを参考にされたし。
 地理人研究所
 空想都市へ行こう!

空想地図もおもしろいのだが(トークショーで知って驚いたのだが、空想地図を描く人はけっこういるらしい。日本にひとりかとおもっていた)、『「地図感覚」から都市を読み解く』では空想地図の話はほとんどなく、「地図感覚」について語られている。


突然ですが、ここで問題。
この本、紙の本だけで電子書籍版は出ていない。
電子書籍にできない理由があるんだけど、それは何でしょうか?
(答えはこの記事の最後に)



地図感覚とは何か。
「地図を見て多くの情報を読み取る能力」のことらしい。

ぼくなんか地図を読むのが苦手で、地図を見るのは目的地までの経路を調べるときぐらい。
それも「ええと、駅を出て電車の進行方向に向かって進んで、ふたつめの角を左、で、公園の次の角を右にいったところか」と、必要な経路をみるだけでせいいっぱいだ。空間認知能力が低いので、情報を言語化しないとおぼえられないのだ。しかも「来たときは犬がいたところを右に曲がった」とか、まったくあてにならない情報に頼ってしまう。
もっとも最近はGoogleマップのおかげでほとんど迷うことはなくなった。ありがたい。

だが地理人氏のような地図感覚に長けた人は、ぼくと同じ地図を見ても
「このへんは古くから住んでいる人の多い地域だ」
「この道は週末は渋滞するね」
「ここは都市計画に失敗したところだな」
とかわかるらしい。
平面の地図から、街並み、人の流れ、住人の気質、歴史、将来の展望などもわかるのだ。ただただ驚くばかり。
 地図ネイティブになることは、最低限の実用性を得られるだけでなく、その土地と通じ合う感覚を得ることができます。しかしこうしたアプローチ、習得法はこれまでなく、本書で風穴を空けたつもりです。これまでの章では個別具体的な話をしましたが、ここまで例に出てきた地図は、比較的煩雑な地図ばかりでした。複雑なものは分解し、単純化する必要があります。頭の中でいくつかの層に分けて見たり、重ねたりすると咀嚼できるようになります。たとえば都市地図の場合、店舗ロゴからはチェーン店の密度、建物の色からは建物の用途、道路の色からは道路の重要性(幹線道路かどうか)、背景の色からは町域が見えてきます。そしてそれらを重ねて見えてくることもあるのです。

そういえば、サッカー好きの知人と話していたときのこと。
「サッカーって観てても退屈じゃない? なかなか点が入らないし、0ー0で終わることすらあるじゃない」
というと
「退屈なのはボールの動きしか追ってないからですよ。ボールを持っていない人の動きを見ていると戦術がわかるし、戦術がわかれば両チームの駆け引きが見えてくる。そこを楽しむのがサッカー観戦です。将棋は王将をとるのが目的ですけど、王将の動きだけ見ていてもぜんぜんおもしろくないでしょう。それといっしょですよ」
と言われた。
なるほど、と感心した。それを聞いたところでぼくには戦術なんてわからないわけだが、とにかくサッカー通は素人とはぜんぜんちがうところを見ているのだとわかった。

地図も同じようなものなのだろう。
地図感覚に長けた人にいろいろ解説してもらいながら街をぶらぶら歩いたら楽しいだろうなあ。




駅前が栄えている街と、そうでない街があることについて。
 鉄道は、今や大都市圏のみならず、全国県庁所在地等の地方都市周辺でも大きな役割を担っています。今や地方でも、短距離の普通列車は通勤通学に使われ、日常的な利用も多くなりましたが、開通当初は蒸気機関車で牽引される長距離列車や貨物列車が中心でした。蒸気機関車の時代は煙害もあれば、機関車や貨車が待機、転回するための広い敷地を要したため、駅は市街地から離れたところに作られました。このため鉄道駅の場所を見ると、そこが明治時代の市街地のぎりぎり外側であることが多いのです。さきほど紹介した熊本駅も、明治時代の街の外れです。ただ、山形市、福山市などのように、駅が城の真ん前にできる、という例外もあります。城の敷地が官有地として接収され、広大な空き地となり、ここに駅が作られることもありました。
 名古屋市で最も賑わうのは名古屋駅ではなく栄、福岡市では博多駅ではなく天神が中心的な市街地です。こうした中心市街地は江戸時代からすでに街でしたが、名古屋駅も博多駅も、明治初期の市街地の少し外側なのです。当初、駅は単なる遠距離交通の拠点で、街ではなかったのですが、今や名古屋駅、博多駅ともに、栄、天神に次ぐ大きな市街地になっています。

高度経済成長期以降に開けたような新しい街だと駅が街の中心になっていることが多いが、古くからにぎわっていた街だと駅は市街地のはずれにつくられたのだという。

そういえば、人気のない商店街を通るたびに
「なんでこんな微妙な位置に商店街があるんだろう。こんなに駅から遠かったらシャッター街になるのは当然だろ」
とおもっていたが、あれは順番が逆だったんだな。駅があってそこから離れたところに商店街がつくられたのではなく、商店街が先にあって、商店街のすぐそばには駅をつくる土地がないから離れたところにつくったらそっちのほうがにぎわうようになったのだ。
なるほどねー。

ぼくは京都市に住んでいたことがあるが、JR京都駅は街のはずれにある。
JRを利用するたびにバスで京都駅まで行かなくてはならないので「なんでこんな不便なところに」とおもっていたが、京都のように古い街だと中心部に駅や線路をひけないんだよな。建物も文化財も多いし。
だから京都の中心部である四条河原町付近には地上を走る鉄道はない(阪急や京阪が通っているが河原町付近では地下を走る)。
鉄道は新参者なんだね。

ぼくは鉄道網が整備されてから生まれたし、幼少期は戦後に開発された街に住んでいたので「鉄道があってその周りに人が住む」という感覚だったんだけど、逆パターンも多いのかー。

こういうことを知っていると、街歩きも楽しくなるね。




この人は「地図とは文章や写真と同様に表現手法のひとつだ」と書いていて、はじめはあまりぴんと来なかったのだが、講演や本の内容を見ているうちになんとなく共感できるようになってきた。
地図は事実をありのまま伝えているように見えるけど、三次元のものを二次元に落としこむ、大きなものを小さく縮尺するという過程で、必ず「何を載せて何を載せないか」と絶えず選択を迫られているはずだ。
情報をそぎ落とし、ときにはつけくわえる過程には必ず「車を運転する人が迷わないように」「住人が生活に困らないように」「山歩きをする人の助けになるように」といった作者の意図が入るわけで、そう考えるとたしかに地図は表現手法のひとつだよなあ。

考えたこともなかったが、自分とはまったく異なる考え方をする人の話を読むのはすごくおもしろい。
世界がほんのちょっと広がったような気がする。




(クイズの答え)

電子書籍だと、閲覧者の環境によって地図の大きさが変わってしまうので、「1/25,000」といった縮尺が嘘になってしまうんだよね。

ところでこないだ『チコちゃんに叱られる!』で「これがトウモロコシを400倍に拡大した画像です」ってやってた。
すべてのテレビでも400倍に見えるわけないだろ!


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2019年7月19日金曜日

【読書感想文】中学生のちょっとエッチなサスペンス / 多島 斗志之『少年たちのおだやかな日々』

少年たちのおだやかな日々

多島 斗志之

内容(e-honより)
人間の一生にも禍いの起きやすい時がある。その最初はたぶん思春期だろう。性に目覚めるだけの年頃ではなく、人間界の様々な”魔”にも出逢いはじめる時期だ。本書は十四歳の少年たちが”魔”に出逢う珠玉の恐怖サスペンス短編集。

七作の短篇からなる作品集。
それぞれべつの話だが、どれも主人公は十四歳の少年。

ある出来事をきっかけに日常が少しずつ壊れてゆく……というサスペンス。
「友人のお母さんの浮気現場を見てしまう」「友達のお姉さんにゲームをしようと誘われる」「教師から泥棒の疑いをかけられる」
といった、どこにでもありそうな出来事が引き金となり、少年たちが恐ろしい目に遭う。
すごく鮮やかなオチはないが、それぞれテイストが異なる怖さを描いていて楽しめた。


十四歳男子を主人公に据えるという設定がいい。
自分が十四歳のころを思いだしても、火遊びをしたり、高いところに登ったり、入っちゃいけない場所に入ったり、言っちゃいけないことをいったり、詳しくは書けないようなことをたくさんした。
あの頃SNSがなくてほんとうによかった(インターネットはかろうじてあったが子どもが遊べるようなものではなかった)。

十四歳って、身体は大人になりつつあって、性的な好奇心は大人以上に高まって、けど社会的にはぜんぜん子どもで、でも自分の中では全能感があって、周囲に対して攻撃的になって、大人が嫌いで、世間のことをわかったような気になって……というなんともあやういお年頃だ(「中二病」はおもしろい言葉だけど、その一語だけでひとまとめにしてしまうのはもったいない)。

そんなあやうい十四歳だから、危険をかえりみずに未知の世界に足を踏み入れてしまう気持ちはよくわかる。


読んでいていちばんドキドキしたのは『罰ゲーム』という短篇。

友だちの家に行ったら、きれいだけどちょっとイジワルなお姉さんが「ゲームをしよう」と持ちかけてくる。
エッチな展開に持ちこめそうとおもった主人公はそのゲームに乗ることにする……という、なんともドキドキする導入。
ところがお姉さんが決めた罰ゲームはとんでもないもので……。

こわい。でもエロい。
エロの可能性が待っているのに退くわけにはいかない。エロの前では恐怖すらも絶妙なスパイスになってしまう。
このお姉さん、明らかに頭イカれてるんだけど、"エロくてイカれてるお姉さん"って最高じゃないですか。


小学五年生のとき、ジェフリー・アーチャーの『チェックメイト』という短篇小説(『十二の意外な結末』収録)を読んで、すごく昂奮した。

今思うとエロスとしても小説としても大した話じゃないんだけど、エッチなお姉さん+この先どうなるかわからない展開 というのは、思春期男子にとっては居ても立ってもいられないぐらいのドキドキシチュエーションなのだ。

中学生だったときの気持ちをちょっと思いだしたぜ。あっ、そういう青春小説じゃなくてサスペンス? 失礼しました。


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【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』



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2019年7月16日火曜日

【読書感想文】ミニオンアイスみたいなことをやられても / 湊 かなえ『少女』

少女

湊 かなえ

内容(e-honより)
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

ううむ。
よくできている。が、よくできているがゆえにおもしろくない。
とにかく偶然がすぎる。
「たまたま〇〇が□□の親だった」「あのときの××がなんと△△につながっていた」みたいなのがひたすら続く。
天文学的確率の20乗。いくら宇宙が広いからってこれはやりすぎ。


リアリティのない小説が嫌いなわけじゃない。
「ありえねーよ!」って設定も、それはそれでいい。

ただ。
ありえない展開の小説にするには、それなりのテイストが必要なわけ。

『ホーム・アローン』はコメディだからおもしろいわけじゃん。ケヴィン少年の策略がことごとくうまくいくのはご都合主義だけど、それも含めて楽しいわけじゃん。コメディだから。
でもサスペンス映画のラストで、主人公が敵を撃退するために『ホーム・アローン』みたいな仕掛けをやったら興醒めするよね。

べつのたとえをするとさ。
サーティワンアイスクリームに「“ミニオン” フラッフィワールド」って味があるのね。
映画のミニオンとコラボした商品で、公式サイトによると「ストロベリー風味、マシュマロ風味、コットンキャンディが織りなすフワかわいい美味しさ!」って書いてある。

“ミニオン” フラッフィワールド

まあばかみたいなアイスクリームだよね。
でもアイスクリームだからこれでいいわけじゃん。
だってみんながサーティワンアイスクリームに求めるのは「楽しさ」「おもしろさ」「はじけとんだ感じ」であって、「素材にこだわったおいしさ」とか「プロの料理人の熟練した技術」とか「栄養」とかじゃないから。
だからミニオンのハチャメチャな味でもぜんぜんオッケー。

でも老舗の天ぷら屋が「“ミニオン” フラッフィワールド味はじめました!」ってやったらげんなりするでしょ。いや天ぷら屋にそういうの求めてないから、ってなるじゃん。


そういうことなんだよね。
だから『少女』もかる~いタッチで書いてくれたらおもしろかったはず。よくできてるなーって素直に感心できたとおもう。
映画『キサラギ』なんかやはり死を扱った作品だったけど、とことんポップに描いていたから、ストーリーのありえなさも含めて楽しめた。

かといって湊かなえさんがポップで底抜けに明るい小説を書いたら、それはそれでなんかイヤだな……。


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【読書感想文】ピタゴラスイッチみたいなトリック / 井上 真偽『探偵が早すぎる』



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2019年7月9日火曜日

【読書感想文】ビミョーな間柄の親戚 / 新津 きよみ『孤独症の女』

孤独症の女

新津 きよみ

内容(e-honより)
甥の翔が生まれたとき、目元が由希によく似ていると言われた。似ていたのは顔だけでなく、幼い翔は絵の才能があった。画家になることが夢だった由希は、その夢を託すように彼に絵の指導を始めた。いつしかその思いは過剰なものとなるが、成長する翔の時間は他のものに奪われていく。焦燥を隠しきれない由希は―(「愛甥」)。全七篇、様々な家族のカタチを描く珠玉の作品集。

姑、異母兄弟、義理の兄、兄嫁、別居中の夫など「ビミョーな間柄の親戚」との関係を描いた短篇七篇を収録。


ぼくもいい歳になったし結婚したことで「ビミョーな間柄の親戚」が増えた。
義父母、義妹、義妹の夫、義兄、義兄のおとうさん、義兄のおとうさんが再婚した相手(つまり義兄の義母)、いとこの夫、いとこの子(従甥(じゅうせい)/従姪(じゅうてつ)っていうんだって。なんか怖い響きだよね)……。

配偶者は自分で選ぶけど、その親戚までは選んで親戚になったわけじゃない。妻の妹の夫、なんてほぼ他人だ。
だけど親戚の集まりや法事などで顔を合わせる機会はけっこうある。むげにもできない。
けれど年齢も職業もぜんぜんちがうし共通の趣味もない。
ちょっとした話はしなければならないが共通の話題もない。「お正月休みはいつまで?」とか「お子さん大きくなりましたよねえ」「いやまだまだわがままな子どもですよ」とか毒にも薬にもならぬ話題でなんとかやりくりをする。大人ってたいへんだ。

幸いうちの親戚はみんな常識人だし(たぶん)、そもそもお互いそんなに濃密な付き合いをしないようにしているので「間が持たなくて気づまり」ぐらいで済んでいるが、「金に困っている親戚」とか「良からぬことを生業にしている親戚」とか「やたらとなれなれしくしてくる親戚」とかがいると、苦労もそんなもんでは済まないだろう。

誰しも「この人と結婚していいだろうか」と悩むだろうが、ぼくに言わせれば結婚がうまくいくかどうかなんて運でしかないとおもう。
結婚してから豹変する人は(たいていの場合悪くなる)いくらでもいるし、それを事前に見抜くのはほぼ不可能だろう。
結婚相手ですらわからないのだから、結婚相手の親戚がマトモな人かどうかなんてわかるわけがない。完全に博打だ。

無作為に選んだような相手と、家族同然の付き合いをしたりお金の交渉をしたりしなければならないわけだから、当然そこにはサスペンスやホラーのドラマが生まれる。
小説としていい題材だとおもう。




中でもいちばんおもしろかったのは『愛甥』。

顔も才能も自分に似た甥に対して、果たせなかった夢を投影する独身の伯母。甥に期待するあまり両親の教育方針に疑問を持ち……。

正直早い段階でオチは読めたが、それでもよくできた小説だとおもう。
叶えられなかった過去の夢を投影する先として、甥という存在はすごく絶妙だ。

ぼくにも姪と甥がいるが、すごくかわいい。
自分の子に感じるのとはまたちがった愛おしさがある。

姪や甥に対しては、ただかわいがるだけでいい。将来をおもって厳しく叱ったりしなくていい。たまに会うだけなので好きなだけかわいがってやればいい。会うたびにお年玉やプレゼントをあげて、いっしょに遊んでやる。甥姪がおかあさんに怒られていたらなぐさめてやる。多少のわがままも笑って許してやる。
甘やかすので、向こうもこちらになついてくる。なおのことかわいい。

甥や姪は遺伝子的にはけっこう近い。四分の一は自分と同じ遺伝子を持っている計算になる。孫と同じだ。
働きバチは子どもを産むことができないが、妹のために働く。妹や姪が出産することで自分の遺伝子を残すことができるからだ。
甥や姪がかわいいのは、遺伝子を残す上でもあたりまえのことだ。

わが子であればふだんから見ている分、欠点も見える。
けれどたまに会う甥や姪はいいところしか見えない。ぼくが彼らに「優しいおじさん」の顔しか見せないのと同じで。
だから余計に期待を抱いてしまうのかもしれない。


遠くから応援する程度であれば過度な期待に害はないかもしれないが、なまじっか距離が近ければその期待は甥姪を苦しめる刃になるかもしれない。

「おじ/おば」と「甥/姪」の関係って、家族であり他人であり上下関係であり横の関係であり、じつは愛憎紙一重な間柄かもしれない。


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2019年7月8日月曜日

【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

二度はゆけぬ町の地図

西村 賢太 

内容(e-honより)
中卒で家を出て以来、住み処を転々とし、日当仕事で糊口を凌いでいた17歳の北町貫多に一条の光が射した。夢想の日々と決別し、正式に女性とつきあうことになったのだ。人並みの男女交際をなし得るため、労働意欲に火のついた貫多は、月払いの酒屋の仕事に就く。だが、やがて貫多は店主の好意に反し前借り、遅刻、無断欠勤におよび…。夢想と買淫、逆恨みと後悔の青春の日々を描く私小説集。

この人の本ははじめて読んだ。気になってはいたんだけどね。芥川賞受賞式での「風俗」発言とか、テレビに出ても少しも賢く見えるようにとりつくろわないところとか。

小説ではあるがほぼ実話だそうだ。
主人公の「北町寛多」はその字面からして明らかに「西村賢太」だ。
すごくおもしろかった。
身内の恥を切り売りするのが小説家の商売だとどこかで読んだことがあるが、それにしてもよくぞここまで己の醜いところをさらけだせるものだと感心する。

たとえば『潰走』における、家賃を払わない寛多と大家である老人のやりとり。
「とにかく、六千円あるならば、まずはそれを内金として払って下さい。こっちはあんたにあの部屋を、無代提供してるわけじゃないんですよ」
 もはや貫多も、これ以上この老人からの必要以上の恥辱に晒されるのには耐えられず、目に涙をためながら、仕方なく有り金をそっくり差し出した。
 するとそれを取り上げた老家主は、さらに残金はいつ入れるのかと、手をゆるめることなく追及してくる。そしてこれも、一週間後に、と答えたのを強引に三日後までとされてしまい、尚かつそれについては念書まで提出することを約させられることとなった。
 貫多が吐きたい気持ちを抑え、持ち主憎さで、もはやけったくそ悪いだけのかのアパートの自室に戻ったときは、毛布と僅かな衣類が転がっているきりの四畳半には、すでに暗闇の匂いが広がっていた。
 電気をつけてポケットに残ったジャラ銭をかぞえ終わると、ふいとあの老家主に対して殺意が湧いてきた。そしてその思いはすぐと我が身に返り、中学時分にだって、したことはあれ、決してされたことはなかったあのカツアゲを、あんな老人からやってのけられ不様に震えてた自分を、実際蹴殺してやりたい衝動に駆られてきた。
自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱く。ひでえ。ラスコリーニコフかよ。

この北町寛多、クズすぎて同情できるところが少しもない。
家賃を滞納したのも稼ぎを風俗や酒に使ったせいだし、大家に対してもその場しのぎの言い訳ばかり並べている。誰が見ても10対0で寛多が悪い。
にもかかわらず、その後も家賃を督促する大家のことを「悲しい生きもの」だの「余りの非常識」だの「嘗めきった態度」だの「乞食ジジイ」だの、さんざんにこけおろしている。クズ中のクズだ。

しかし。
見ないようにしているだけでぼくの中にも北町寛多は存在する。
周囲の人間を全員自分より下に見て、己の怠惰さが招いた苦境を他人のせいにして不運と嘆く人格は、たしかにぼくの中に生きている。己の不幸は他人のせい、他人の不幸はそいつのせい。己の欲望や怠惰になんのかんのと理由をつけて正当化。

この本を読んでいると、見たくもない鏡をつきつけられているようでなかなかつらい。おまえは寛多を嗤えるのかい、と。

ぼくは今でも身勝手な人間だが、特に二十歳くらいのときはもっとひどかった。
自分以外はみんなバカだとおもってた。それを公言してはいなかったが、きっと言動からはにじみ出ていただろう。

傲岸不遜、けれども他者に対しては潔癖さを求める。
北町寛多はまさしく過去のぼくの姿だ(もしかしたら今の姿かもしれない)。



全篇味わい深かったが、特に『春は青いバスに乗って』はよかった。

ずいぶんメルヘンチックなタイトルだとおもって読んでみると、著者(じゃなかった北町寛多)が警官をぶんなぐって警察のお世話になったときの話だった。

つまり青いバスとは、あの金網のついた警察の護送車のことなのだ。そういや青いな。
――ところで慣れと云うのは恐ろしいもので、当初一秒でも早くここから出たかった私も、それから三日も経てると、これでもう少し煙草が吸え、たまに面会人でも来てくれれば、それ程留置場と云うのも悪くない気分になっていた。留置場と云うより少し規則の厳しい寮にいるような錯覚が起きるときもあり、横になってひたすら雑誌に目を落としているときなぞ、ふいに自分が入院生活でも送ってるかの思いがした。現に健康面でも、毎日飲酒していた私がここに来て一週間足らず、その間、当然ながら一滴の摂取もないだけでえらく体にキレがあり、頭も妙に爽快である。かようなブロイラーじみた日々は、本来ならぶくぶくと太りそうなものだが、後日ここを出た直後に体重を測ったら、逆に八キロ近く落ちていた。
 こうなると留置場も、どうも私にとってはある意味天国で、その環境は少なくとも自己を見つめ直したり、罪を隠い改めるような余地なぞ全く生まれぬ場所であるようだった。ただ、ここに入るには家族親類、友人がいなければ絶対に不利である。面会や差入れのない惨めさや不便さが解消され、それに性絵面で、せめて便所の謎の両側にもう少し目隠しがあれば(そう云えばここへ入って一週間、少なからぬ心労でついぞその気にもならなかったが、下腹部の疼きはそろそろ臨界に近い雰囲気もあった。それであえて借りる本に成人雑誌は選ばないようにしたが、ここに二箇月近く収容されながらそれをすすんで手にし、平然と眺めている広岡たちは、この点をどう解消しているのだろうか)、ここは一種の保養所みたいなものだし、これなら何度入ってもいいとさえ思えてくる。
幸いにしてぼくはまだ留置所に入ったことはないが、留置所の環境が「ある意味天国」というのは容易に想像がつく。

なにしろ決断しなくていいのだから。決断しなくていいことほど楽なことはない。
決められた時間に決まったことだけやって、先のことは何も考えずに生きていく。これぞ天国の生活だ。だってそうでしょ? 天国の住人たちが「これから先どうやって生きていこう」「ずっとこんな生活を続けていていいんだろうか」って思い悩む?

学校生活というのも、留置所の生活に近いとおもう。
言われたことだけやっていればいい。いくつかのルールがあってそれさえ守っていればそこそこ快適な生活が保障される。ただしルールを逸脱した場合は厳しい罰が課せられるが、決断をしたくない人間にとってはいたって気楽なものだ。

ぼくは学校生活を楽しいとおもっていた人間なので、留置所や刑務所に入ってもそこそこうまく適応できるだろうという気がする。
もっと今のところは入る気ないけど。

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2019年7月5日金曜日

【読書感想文】政治の世界の不透明さ / 曽根 圭介『黒い波紋』

黒い波紋

曽根 圭介

内容(e-honより)
元刑事・加瀬将造(38)は、借金取りから逃げ回るロクデナシの日々を送る。ある日、子どもの頃に家を出ていった父親が、孤独死したとの知らせを受ける。加瀬は父親が住んでいたボロアパートを訪ね、金目のものがないかと探すと、偽名で借りた私書箱の契約書があり、何者かが毎月30万円を送金していることを知る。さらに天井裏には古いVHSのビデオテープが隠されていた。再生した映像に映っていたのは…。

曽根圭介作品を読むのは六冊目。
……なのだが、これは期待外れだった。

中盤まではおもしろかったんだけどな。

死んだ父親の遺品を整理していたら、「毎月三十万円を誰かから送金されていた」記録の残る通帳と、犯罪行為を記録したビデオテープを発見する。
で、それらをもとに話が進んでいくので「なるほどこの三十万円とビデオテープの出所が最後につながるのね」と思いながら読んでいたら……。

つながらないんかい! まったくの別案件かい!
途中で国会議員、革命家グループ、右翼団体、冤罪事件などいろんな要素が出てくるのだが、それらもほとんどつながらないまま終わってしまう。
えええ……。
「最後で明らかになる意外な真相」みたいな感じをすごい出してたのに……。

曽根圭介作品、文章はさほどうまくないけどプロットはしっかりしていてそこが好きだったんだけどな。
これは風呂敷の畳みかたがへただったなあ。



この小説内では殺人、脅迫、暴力などが描かれるが、そのへんの描写はべつにこわくない。
おそろしいのは「政治の世界」だ。
もちろんこの作品はフィクションだが、「政治の世界ならこれぐらいのことがまかりとおってもおかしくないな」とおもわせる説得力がある。

ぼくもそうだけど、政治家と個人的にかかわったことのない人にとって政治家稼業ってまったく得体が知れない世界じゃないですか? 政治家という人物はよく見るのに、裏で何をやっているかまったく知れない。
その不透明さは、もしかしたらヤクザ以上かもしれない。

『黒い波紋』はそういう怖さを書こうとした作品だったのかもしれない。
そうだとしたらすごくおもしろい試みなんだけど、それにしては余計な要素が多すぎるんだよなあ。

いろんな要素をちりばめすぎて散漫な印象になっちゃったな。


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2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


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土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



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2019年7月1日月曜日

【読書感想文】低レベル検察官の身勝手な仕返し / ジリアン・ホフマン『報復』

報復

ジリアン・ホフマン(著)  吉田利子(訳) 

内容(e-honより)
太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた―それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった!この男を無罪放免にしてはならない―恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ…。期待の大型新人による戦慄のサスペンス。

法学生だったクローイは、覆面男にレイプされ心身ともに深い傷を負った。
数年後、C・Jと名前を変えて検察官に彼女は、連続殺人事件の容疑者として逮捕された男が自分をレイプした男だと気づく。
C・Jは男を死刑にするために検察官として戦いを挑むが……。


残虐な連続殺人事件を扱っているが、わりと早い段階で容疑者が捕まるのでたぶん多くの読者は「捕まったやつは犯人じゃないのでは」と気づくだろう。「謎の密告電話」というわかりやすいヒントもあるし。
これ以上はネタバレになるが、犯人はたいして意外な人物じゃない。

この本の読みどころは犯人捜しではなく(そもそも犯人を捜すのは検察官の仕事ではない)、検察官でありレイプ被害者であるC・Jが、連続殺人犯であり自分をレイプした男(とおぼしき人物)とどう立ち向かうかという心理描写のほうだ。

C・Jが心に傷を負うきっかけとなるのが学生だったC・Jがレイプされるシーンだが、これがとにかく恐ろしい。
丹念に描写されるので、もう読んでいられない。そこまで細かく書かなくてもだいたい何されたかわかるからもういいよ、とおもうのだが作者は筆を止めない。ひたすらC・Jが苦しむ姿が書かれる。これがきつい。


ぼくも娘を持つようになり(といってもまだ幼児だが)、性犯罪に対しては被害者側の立場で考える割合が増えた。
もしも娘が……とおもうと、つらすぎてそれ以上思考が進まない。

中盤以降には殺人被害者の描写や終盤の格闘シーンなどのヤマ場もあるのだが、プロローグの不快感に比べたらかすんでしまう。
冒頭が強烈すぎてしりすぼみの印象。中盤以降もおもしろいんだけど。



ここからはネタバレになるけど、もやっとしたところ。

容疑者を起訴する際に、検察が不正をはたらく。

「捜査の手続きが不正であれば、その捜査によって得られた証拠はすべて無効となる」
というルールがあるのだが(そうじゃないと警察がやりたいほうだいになっちゃうからね)、検察官であるC・Jは、警察官が逮捕時に必要な手続きを踏まなかったことを知りながら強引に起訴に踏みきる。
裁判では、警察官と口裏を合わせて嘘をつく。
C・Jは葛藤しながらも「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」と不正をはたらく決断をする……。


いやあ、ダメでしょ。ぜったいにあかんやつ。
証拠はほとんどなし、容疑者は否認、逮捕時には警察側の不適切な手続き。あるのは検察官の直感だけ。
これで起訴したらダメでしょ。しかも有罪になれば死刑になる罪状で。

「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」じゃねえよバカ。
100人の真犯人を見逃してでも、1人の冤罪を生みださないことを優先させるのが法治国家なんだよ。

小説にいちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうけど、そうはいっても「裁判に私怨を持ちこむ」「私怨を晴らすために手続きの不正に目をつぶる」って、こいつのやってることは検察官として最低だ。
それならそれでハチャメチャ検察官として描くんならいいんだけど(両津勘吉が何やっても許されるように)、法制度をおもいっきり無視しといて「あたしは多くの犠牲者を救った正義のヒロイン」みたいな顔をすんじゃねえよ。身勝手な正義に酔って己のダメさに気づいてすらいない腐れ外道だなこの女。
ここまでダメ検察官だと、いくら被害者だったからといえまったく共感できない。むしろ被告人のほうが気の毒になってくる。

この検察官のやってることは『かちかち山』レベルの仕返しだよ、ほんと。


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2019年6月27日木曜日

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』

民主主義

文部省

内容(e-honより)
「民主主義」―果たしてその意味を私たちは真に理解し、実践しているだろうか。昭和23年、文部省は新憲法の施行を受けて当代の経済学者や法学者を集め、中高生向けに教科書を刊行した。民主主義の根本精神と仕組み、歴史や各国の制度を平易に紹介しながら、戦後日本が歩む未来を厳しさと希望をもって若者に説く。普遍性と驚くべき示唆に満ちた本書はまさに読み継がれるべき名著といえる。全文収録する初の文庫版!

昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。
民主主義とは何か、なぜ民主主義の社会であるべきなのか、民主主義を根付かせるには何をしたらいいのか。こうしたことが丁寧に書かれている。教科書でありながらすごく重厚な本だ(刊行されたときは上下巻だったそうだ)。

昭和二十三年ということはまだ日本は独立国ではなく連合国の占領下にあった時代。
当然この教科書もGHQのチェックが入った状態で書かれたはずだ。

軍国主義の大日本帝国がこてんぱんにやられ、民主主義という新しい風が吹き込んでくる。その中で、当時の学者や官僚が若者に対してどんなことを期待をしていたのか。
この本を読むと、当時の「新しい時代の幕開け」という空気が感じられる。
当時の国の中枢にいた人たちが、いかに日本が民主主義国家として生まれ変わることに期待してひしひしと伝わってくる。

残念ながらその期待は七十年たった今もかなえられていないけれど。



七十年前に刊行された本だが、驚くほど今の世の中にあっている。
悲しいことに。
そう、ほんとに悲しい。
「七十年前はこんなことをありがたがっていたのか」と言える世の中であってほしかった。
「この頃は国民主権があたりまえじゃなかったんだねえ。政府が国民を押さえつけようとしていたなんて今では考えられないねえ」と言える世の中であってほしかった。


『民主主義』の中で「こんな世の中にしてはいけない」と書かれている社会に、今の日本はどんどん近づいている。
 全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中でいちばん尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言いわけはいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう五年、いや、もう十年がまんすれば、万事うまくゆく、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄のために犠牲にならなければならないと言う。その間にも、独裁者たちの権力欲は際限もなくひろがってゆく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者たちの考えている通りに運んでいった。
 つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちをうって、元も子もなくしてしまう。

美しい国にしよう、国家秩序のために基本的人権を制限しよう、と叫ぶ連中が幅を利かせている。
増税や社会負担増加で今は苦しくても国家が経済的に成長すればやがては楽になる。君たち庶民もいつかはトリクルダウンにあずかれるのだから耐えなさい。

今の日本を支配しているのは、まさにここに書かれている「全体主義」そのものだ。

情報伝達手段は発達したはずなのに、資料は廃棄され、データは捏造され、公共放送機関は人事権という金玉を政府に握られ、権力者はなんとかして情報を隠そうとする。
 これに反して、独裁主義は、独裁者にとってつごうのよいことだけを宣伝するために、国民の目や耳から事実をおおい隠すことに努める。正確な事実を伝える報道は、統制され、さしおさえられる。そうして、独裁者の気に入るような意見以外は、あらゆる言論が封ぜられる。たとえば馬車うまを見るがよい。御者はうまが右や左を見ることができないように、目隠しをつける。そうして御者の思うとおりに走らなければ、容赦なくむちを加える。馬ならば、それでもよい。それが人間だったらどうだろう。自分の意志と自分の判断とで人生の行路をきりひらいてゆくことのできないところには、民主主義の栄えるはずはない。

個人的には「熱い正論をふりかざす人間」が苦手なのだが、今の世の中に欠けているのは理想論なんじゃないかとおもう。

こういうことって今、誰も言わないでしょ。
人権は大事だ、一人の生命は地球より重い、権力は弱者のためにこそ使うべきである。

そんなことあたりまえだとおもっているから誰も口にしない。
でもほんとはあたりまえじゃない。我々が享受している自由は先人たちの不断の努力によって支えられてきたもので、天からふってくるものじゃない。気を抜くと権力者によってすぐに奪われてしまうものだ。
めんどくさくてもちゃんと正論を言わなきゃいけない。

ぼくは星新一作品を読んで育ったので熱い意見に冷や水をぶっかけるような「シニカルな視点」が好きなのだが、シニカルな意見がおもしろいのは熱い議論があってこそだ。
みんなが冷や水をぶっかけてたら風邪をひいてしまう。

今って、国のトップに立つような人たちですら
「現実的に全員を救うのはムリっしょ」
「世界平和なんか達成されるわけないっしょ」
「立場がちがう人と話しあったってムダっしょ」
みたいなスタンスじゃないですか。
理想とかビジョンに興味がないし、そのことを隠そうともしない。
作家だとか落語家だとかが片頬上げながらそういうこというのはいいけど、でもそれを政治家がいったらおしまいでしょ。

「愛は地球を救う」ってのはきれいごとすぎて気持ち悪いけど、でももしかしたら愛は地球を救うんじゃねえかって気持ちも一パーセントぐらい持っておきたい。
ひょっとしたらほんとに愛が地球を救うかもしれない。そういう夢を見せてくれるのが政治家の仕事なんじゃないかとこのごろはおもっている。



この本、前半はビジョンを提示し、中盤以降は諸外国の民主主義の成り立ちや日本における政治・社会の変遷をたどることで民主主義国家の実現に向けた方法論を考察するという構成になっている。

この構成がすばらしい。ただきれいごとを語るだけではなく、過去の失敗例や外国の事例なんかがあることで具体的に考えるための手助けになっている。
GHQ検閲下にあったはずなのにアメリカの制度を手放しで褒めているわけではないのもすばらしい。
ほんとよくできた教科書だ。

 だからイギリスは君主国ではあるが、政治の実際の中心を成すものは議会である。中でも、国民によって選ばれ、国民を代表しているところの庶民院である。庶民院を中心とするイギリスの議会は、立法権を持った最高の国家機関であって、同時に、政府の行ういっさいの行為を批判するという重大な役割を果たしている。政府は議会の多数党の支持を受けているが、議会にはかならず反対党があって、政府の政策を常に批判し攻撃する。
 これに対して、政府は、くり返してその政策を説明し、弁解し、擁護しなければならない。政府は、それによってたえずその政治方針が正しいかどうかを反省することになるし、国民は、それによって常に政治問題の中心点に批判の目を注ぐこととなる。このような政治上の議論が公明に行われる舞台として、議会は最も重要な機能を果たしているし、イギリスの議会は、この重要な任務を模範的に遂行しているといってよい。

よく「野党はなんでもかんでも反対してばかりだ」といって揶揄する人がいる。

ぼくは「野党はなんでもかんでも反対」でもいいとおもっている。野党が賛成ばかりになったらもうその国の民主主義は終わりだ。
自民党が下野したときも与党案に反対ばかりだった。それでいいのだ。反対意見にさらに反論することで議論が深まり、より完成度の高い法案ができる。

学生が論文を書いたら、指導教官がそれをチェックする。疑問を投げかけたり不備を指摘したり書き直しを命じたりする。
それを受けて学生は論文を書きなおす。より説得力を増した論文ができあがる。
この肯定を「教授は人の論文にケチをつけてばかりだ」といって否定する学生がいたらバカだとおもわれるだけだろう。法案も同じだ。



ぼくはこないだ「民主主義よりもっといいやりかたがあるんじゃないか?」という記事を書いた。
 → 「いい独裁制」は実現可能か?

この本では、そういった反論も予想した上で、それでもやはり民主主義が最善だと結論づけている。
 人間は神ではない。だから、人間の考えには、どんな場合にもまちがいがありうる。しかし、人間の理性の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁主義は、失敗を犯すと、かならずこれを隠そうとする。そうして、理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
 これに反して、民主主義は、言論の自由によって政治の誤りを常に改めてゆくことができる。多数で決めたことがまちがっていたとわかれば、こんどは正しい少数の意見を多数で支持して、それを実行してゆくことができる。そうしているうちに、国民がだんだんと賢明になり、自分自身を政治的に訓練してゆくから、多数決の結果もおいおいに正しい筋道に合致して、まちがうことが少なくなる。教育がゆきわたり、国民の教養が高くなればなるだけ、多数の支持する政治の方針が国民の福祉にかなうようになってくる。そういうふうに、たえず政治を正しい方向に向けてゆくことができる点に、言論の自由と結びついた多数決原理の最もすぐれた長所がある。民主主義が、人類全体を希望と光明に導く唯一の道であるゆえんも、まさにそこにある。

ぼくは二大政党制を支持していない(当然小選挙区制も)。
それは、まちがいを認めなくさせるシステムだからだ。

政治における過ちは、ミスを犯すことではない。ミスを犯したことを隠すことだ。
「過ちを隠したい」という気持ちは誰しも持っている。それはなくせない。「権力者は過ちを隠そうとする」という前提で制度の設計をするしかない。

二大政党制は、為政者のミスで政党全体の権力が失われてしまうので、政党レベルで「ミスを覆い隠そうとする」力がはたらく。
集団が全力でミスを覆い隠そうとした場合、それを暴くのは並大抵のことではない。たとえば個人の殺人はほぼ間違いなく犯人が検挙されるが「村ぐるみで一致団結して殺人を覆い隠そうとした」場合はかなりの確率で逃げおおせることができるだろう。

民主主義国家にとって必要なのは嘘がばれやすくする仕組みなのだが、二大政党制は不都合な事実を隠蔽しやすくさせる。

党内で常に権力闘争が起こっているかつての自民党の状況のほうが、むしろ健全(いちばんマシ)なんだったとつくづくおもう。



人類の歴史を見ても、権力者が他者の人権を制限してきた時代のほうがずっと長かった。
今は「たまたま、例外的に民主主義が保たれているだけ」だ。

この本には「明治憲法の下でも民主主義国家になることはできた」と書いてある。少なくとも明治憲法をつくった人たちは国民主権の世の中にしたいという高邁な精神を持っていたはずだ。
けれど明治憲法にはいくつかの不備があり、二・二六事件などをきっかけにあっという間に軍部の暴走を許すことになった。今の日本国憲法も完璧ではない。その穴を拡げる改憲をしようと目論んでいる政治家もいる。
ちょっとしたことをきっかけに民主主義は崩されてしまうだろう。


すごくいい本だった。
今の中高生にこそ読んでほしい(まさかこれを読まれたら困ると考える為政者はいないよね?)。

しかし、戦争を経験している世代が民主主義の大切さを唱えていたのに、こういう教育を受けてきた世代が大臣や総理になったとたんに崩壊しはじめるってのはなんとも皮肉な話だよね。
教育って無力なのかもしれないと絶望的な気持ちになる。

まあ、今の二世三世大臣たちがまともに学校教育を受けていなかっただけ、という可能性も大いにありそうだけど……。

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2019年6月26日水曜日

【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』

会計が動かす世界の歴史

なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

ルートポート

内容(e-honより)
“お金”とは何か?私たちの財布に入っているお金には100円、1000円、10000円などの価値がつけられています。しかし、ただの金属、紙切れにすぎないものをなぜ高価だと信じているのでしょうか。貨幣や紙幣に込められた絶大な影響力―。その謎を解く手がかりは人類と会計の歴史のなかにあります。先人たちの歩みを「損得」という視点で紐解きながら「マネーの本質を知る旅」に出かけましょう。

おもしろい本だった。

この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。

ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。



 私たち人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと、そして文字を発明したのです。
 さらに注目すべきは、これがお金――金属製の硬貨――が発明されるよりも、ずっと以前のできごとだということです。
 貨幣としての硬貨が登場したのは、紀元前7世紀ごろのリディア(現・トルコ領)というのが西洋では定説になっています。しかし、それよりもはるかに古い時代から人々は「簿記」を使って取引をしていたわけです。
 お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があったのです。

漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。

なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。

でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。

「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。



 一般的には「農耕の開始によって人類は豊かになった」というイメージがあります。約1万年前、貧しい狩猟採集生活を憂えた私たちの先祖は、素晴らしい創造性を発揮して、豊かな農耕定住生活を手に入れたのだ、と。
 しかし最近の研究では、まったく異なる姿が明かされつつあります。
 気候変動によって狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために、仕方なく農耕を始めたというのです。
 実際、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇しました。
 狩猟採集生活では木の実や肉類などをバランスよく食べられるのに対し、農耕定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素がデンプン質に偏ります。また、定住生活では人口密度が高くなります。身体的な接触が増え、さらに排泄物などで土壌や水源が汚染されて、疫病が簡単に蔓延します。

死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。

今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。

一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。

どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。

人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。

農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。



会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
 ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。「租税国家」の誕生です。
 国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えます。
 イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく後れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのでしょう。
 このような歴史的経緯から言えば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。
 もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが自国の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからにほかなりません。国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底を避けては通れないでしょう。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。

「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。

だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。

だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。

投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。

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【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』



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2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



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2019年6月19日水曜日

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

悪いものが、来ませんように

芦沢 央

内容(e-honより)
助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス!

嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。

己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。

こういう些細なエピソードとか。
 きっかけは、互いに結婚してからもふた月に一回程度のペースで会い続けていた短大時代の友人、倫代からの年賀状だったと思う。
 たしかに紗英は、彼女からの年賀状を見るのが憂鬱だった。互いに子どもがおらず、会えば仕事の話と旦那への愚痴で盛り上がれていた倫代が、他のみんなと同じように母親になって関心の先を子どもに変えてしまうのは寂しくもあった。どうせ子どもの写真なのだろうと、紗英はどこか白けた思いで年賀状をめくった。だが、それは紗英のものと同じ干支を使った味気ないものだった。
 なんとなく、嫌な予感がした。口実を作って共通の友達に連絡をとり、どこか祈るような思いでかまをかけた。
 倫代からの年賀状、かわいいね。
 ほんと、ハルキくん、倫代によく似てるよね。
 返ってきた答えに、やっぱり、となぜか勝ち誇るような思いで考えた。やっぱり、そうだった。倫代は、子どもがいる友達には子どもの写真入りの年賀状を、使い分けていた。
 わたしだってそうじゃないか、と紗英は何度も自分に言い聞かせた。わたしだって、結婚していない友達には結婚の話はしにくいと思っている。気遣いというそぶりで、見下している。――こんな話をしたら自慢に聞こえてしまうかもしれない、傷つけたらかわいそう、と。
 だから、倫代のことをひどいと思うことなんかできないのだと、そう考えながら、倫代の年賀状を捨てていた。

子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。


ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。

女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。



いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。

前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。

この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。

この歪んだ愛情に支えられた関係は、母と娘じゃないと成立しない。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。


瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。

そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。

げに恐ろしきは親子の縁よのぅ。


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