2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

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小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


【関連記事】

土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



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