どうしても生きてる
朝井 リョウ
深刻なトラブルや悩みに直面した人たちを描いた短篇集。
『健やかな論理』の主人公は自殺や事故死をした人のSNSアカウントを調べて最後の「まったく予兆を感じさせないツイート」を集めている。
『風が吹いたとて』では、大した罪の意識を感じることなく不正に手を染める人と、上からの命令で不正に手を染めることの罪悪感に押しつぶされそうになる人の姿が描かれる。
『そんなの痛いに決まってる』ではマニアックな性癖を満たすために不倫に走る男や、SM動画が流出してしまった仕事では頼られる上司の苦悩がつづられる。
『籤』の主人公の女性は、出生前診断で生まれてくる子どもの先天性疾患がわかったとたん夫から堕胎を勧められる。
どれもみなヘビーだ。
たやすく「考えすぎだよ」「忘れちゃいなよ」とは言えないような重たい悩み。誰にでもふりかかりうる、そして解決方法のないトラブル。
若いうちは、己の才覚と努力で何でも解決できるとおもっていた。正しく、そして一生懸命生きていれば道は切り開けるのだと。
しかし長く生きてきておもう。しょせんは運だと。自分が健康に生まれたのも、それなりの教育を受けられたのも、刑務所に入っていないのも、今のところ食うに困っていないのも、子どもが健やかに育っているのも、天災で命を落としていないのも、すべては運だと。才能や努力のおかげじゃない。たまたまだ。
犯罪学では、ある地域にある期間にどれぐらいの犯罪が起きるかをほぼ正確に予想できるのだという。個人が犯罪に手を染めるかどうかは最終的には当人の意思に左右されるものだが、その〝意思〟を形成するものは時代や場所や環境で決まってしまうのだ。ミクロで見れば犯罪に手を染めるかどうかは当人の意思でも、マクロで見れば一定数が犯罪をすることは決まっている。
いってみれば「犯罪者」「貧困」「事故死」が何本か入ったクジを引くようなものだ。努力によって多少はずれクジを引く確率は下げられないけど、はずれクジの総数は変わらない。誰かがそのクジを引かなくてはならない。
特にそれを感じたのは、子どもが生まれるときだ。どんな子が生まれるか、生まれるまでわからない。天使のようにかわいい子もいれば、ものすごく手のかかる子もいる。重い障害や難病を抱えて生まれてきたら、これまでの生活も仕事も趣味も手放さないといけないかもしれない。
はっきり言ってクジだ。しかも引いたのがどんなクジでも、取り換えはきかない。親が大金持ちだろうが、天才だろうが、一流アスリートだろうが、望んだとおりの子どもが生まれてくることはない。
少し前に「親ガチャ」という言葉が流行語になったが、どんな親のもとに生まれてくるか、どんな子が生まれてくるかは、まさに運次第。
「親ガチャ」を好んで使う人もいるし「親ガチャ」なんて言葉に眉をひそめる人もいるが、何をいまさら。人間は何千年も前からガチャを引いてきたじゃないか。
いちばん身に染みた短篇が『流転』だった。
ストーリー担当と作画担当のコンビで漫画家デビューを目指していたふたり。見事連載を勝ち取ったものの、まもなく連載は終わり低迷期に入る。作画担当者はイラストの仕事に精を出すが、ストーリー担当だった主人公は恋人の妊娠を期に漫画を捨てサラリーマンになる。「自分に正直に生きる」をやめたはずの主人公の前に再び転機が訪れるが……。
ぼくもいろいろ諦めて生きてきた人間だ。才気あふれる文章で食っていきたいとか、サラリーマンでない生き方をしたいとかおもったこともある。でも、今はしがないサラリーマン。自分の天井も見えてきた。ぼくがこの先、有名アーティストや皆があこがれるクリエイターや年収1000万円プレイヤーになることはほぼないだろう。
でもまあ、住むところや食うものに困らず、愛する家族がいて、つつましくも平凡な暮らしも悪くないとおもって生きている。その気持ちは嘘じゃない。でも別の生き方が選べるとしたら? それでも今の生活を選ぶか? と訊かれると、即答はできない。
どの生き方がいいかなんかわからない。「悪い生き方」はあるけど、「最良の生き方」はない。「睡眠時間や余暇を犠牲にして、そこそこのポジションの漫画家になる」と「サラリーマンになってそこそこ安泰の生活を送る」のどっちがいいかなんてわからない。たぶんどっちを選んでも後悔は残るのだろう。正解なんてないことはわかっている。でも、「やっぱりあっちが正解だったのかも」とも考えてしまう。
すごいのは「夢破れて、いろんなものに妥協して生きている男」の悩みをこれでもかと克明に書いているのが、朝井リョウという作家だということだ。
朝井リョウ氏は大学在学中に小説家デビューを果たし、以来作家として一線でやってきている。直木賞も受賞した。
はたからみれば間違いなく「自分の信じる道を貫いて成功した人」だ。もちろん内面には様々な苦労があっただろうし、挫折や妥協もあっただろう。それでも、誰が見たって〝成し遂げた〟側の人間だろう。
にもかかわらず〝成し遂げられなかった〟人の苦悩を残酷なほど克明に書いている。こういうことができるのが本物の作家というやつなのだろう。物語の中で別の人生を送れる人。
そういや朝井リョウ『何者』も、就活で心へし折られたぼくとしてはすごく身につまされる話だったけど、朝井さんは在学中にデビューしているからたぶん就活もあんまりしてないんじゃないかな。それであれが書けるのか。すげえなあ。
ばかばかしいネット動画に救われる『七分二十四秒めへ』も好きだった。
若いときにこの短篇を読んでいたら、さっぱりわからなかっただろう。でも三十代後半になったらわかる。
この物語には、バカなことばかりするYouTuber(作中にはYouTubeとは書かれてないけど)に救いを求める女性が出てくる。
ぼくはネット動画はあまり観ないけど、テレビでたまに『かわいい動物大集合。びっくり映像100連発!!』みたいな番組を観る。
昔は、そんな番組ぜったいに観なかった。何も得られない、何の学びもない。作り手の知性などみじんも感じられない。時間の無駄だとおもっていた。
でも最近は考え方が変わった。たしかに時間の無駄だ。けど、それでいいじゃないか。むしろ有用な情報などテレビに求めていない。学びたければ本を読む。ニュースが見たければネット上にもっとスピーディーで余計な演出が施されていない情報が見つかる。テレビは毒にも薬にもならない暇つぶしでいい。
何も得られないもの、何も成長させてくれないもの、一円の得にもならないもの。そうしたものが必要な時間も、人生にはある。おっさんおばさんになると余計に。
ぼくが朝井リョウの小説を好きなのは、文章から底意地の悪さが見え隠れするところだ。視点が意地悪なのだ。
ぼくも性格が悪い人間なので、こういう嫌らしい表現は大好きだ。言わなくてもいいことを指摘してしまうところ。たまんないね。
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