ラベル 読書感想文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 読書感想文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年8月9日金曜日

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

世にも奇妙な人体実験の歴史 

トレヴァー・ノートン (著)  赤根洋子 (訳)

内容(e-honより)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線…。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた!梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。

いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。

世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。

ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。

でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。

そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。




『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。

この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。

毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
 この問題に決着をつけるためには実験が必要だった。ハンターのアイディアは、誰かを淋病に感染させ、その人に梅毒の兆候が現れるかどうかを待つ、というものだった。兆候が現れれば仮説が正しかったことになるし、現れなければ仮説が間違っていたことが明らかになる。淋病にも梅毒にも感染していないことが確実に分かっていて、しかも性器を気軽に毎日診察できる実験台と言えば、間違いなくハンター自身しかいなかった。
 ハンターは自分のペニスに傷をつけ、ボズウェルが「忌まわしきもの」と呼んだ淋病患者の膿をそこに注意深く塗りつけた。数週間後、彼のペニスには硬性下疳と呼ばれる梅毒特有のしこり(これはのちに、「ハンターの下疳」と呼ばれるようになった)が現れた。そのとき彼が覚えた満足感を想像してみてほしい。
 ハンターが考慮に入れていなかったことが一つあった。それは、膿を提供した患者が「淋病と梅毒の両方」に罹患しているかもしれないということだった。彼はうかつにも、自らの手で自分を梅毒に感染させてしまったのである。早期に進行を食い止めなければやがて鼻の脱落、失明、麻痺、狂気、そして死へと至る恐ろしい病、梅毒に。理性的な人間もときにはまったく道理に合わないことをするものである。
こんなエピソードのオンパレード。

世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。

それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。

 彼の最初の成功は、アヘンの有効成分を発見し、これを(ギリシャ神話の眠りと夢の神モルフェウスに因んで)モルヒネと名づけたことだった。彼はまず、純粋なモルヒネを餌に混ぜてハツカネズミと野犬に食べさせ、その効果をテストした。彼らは永遠の眠りについた。これに怯むことなく、彼は仲間とともにモルヒネを服用し、その安全量を見極めようとした。彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した。すぐに全員が熱っぽくなり、吐き気を催し、激しい胃けいれんを起こした。中毒を起こしたことは明らかだった。ことによると、命に関わるかもしれない。嘔吐を促すために酢を生で飲んだあと、彼らは意識を失って倒れた。酢を飲んだおかげで死は免れたが、苦痛は数日間続いた。
 ゼルトゥルナーはモルヒネの実験を続け、アヘンで和らげられないほどの歯痛にもモルヒネなら少量で効くことを発見した。彼は、「アヘンは最も有効な薬の一つだ。だから、医師たちはすぐにこのモルヒネに関心を持つようになるだろう」と期待を抱いた。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?

しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。

こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。




今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。

それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。

 フィールドが死ぬほどの目にあったにもかかわらず、その後ウィリアム・マレルという若い医師がフィールドと同じ実験を試みた。マレルの実験方法は驚くほどカジュアルだった。彼はニトログリセリンで湿したコルクを舐め、それからいつもの診察を始めた。しかし、すぐに頭がズキズキし、心臓がバクバクし始めた。
「鼓動のその激しさといったら、心臓が一つ打つ度に体全体が揺れるのではと思われるくらいだった……心臓が鼓動する度、手に持ったペンがガクンと動いた」。にもかかわらず、彼はニトログリセリンの自己投与を続け、その実験はおそらく四十回以上に及んだ。彼は、ニトログリセリンの効果のいくつかが当時血管拡張剤として使用されていた薬のそれに似ていることに目ざとく気づき、自分の患者にニトログリセリンを試してみた。現在、ニトログリセリンは狭心症の痛みを緩和するための標準的な治療薬になっている。

この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。

人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。

読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。


【関連記事】

ぼくのほうがエセ科学



 その他の読書感想文はこちら





2019年8月7日水曜日

【読書感想文】失敗は見て見ぬふりの日本人 / 半藤 一利・池上 彰『令和を生きる』

令和を生きる

平成の失敗を越えて

半藤 一利  池上 彰

内容(e-honより)
政治の劣化、経済大国からの転落、溢れかえるヘイトとデマ。この過ちを繰り返してはならない。平成の失敗を徹底検証する白熱対談!

世界情勢、政治、天皇、災害、原発、インターネットといったテーマを切り口に「歴史やニュースをわかりやすく伝えるプロ」のふたりが平成という時代をふりかえった対談。

たくさんのテーマを扱っているので、ひとつひとつの話はちょっと浅くて物足りない。たとえば「平成の政治史」だけで一冊ぐらいの分量だったらもっとおもしろかったとおもう。
でもまあ、これ以上深い話はこの人たちの仕事じゃないか。入口まで連れていくのが半藤さんと池上さんの仕事だもんな。




「平成の失敗を越えて」とサブタイトルがついているように、話の八割ぐらいは「平成の三十年で悪くなったこと」についてだ。
年寄りのぼやきっぽさもあるが、こと日本の経済と政治に関してはまちがいなく劣化しているとぼくもおもう。
平成の三十年で、日本は数えきれないほどの失敗してきた。そしてそのほとんどはきちんと総括できておらず、いまだ手つかずの問題も多い。

政治の不調の原因は、特定の個人や団体にあるのではないとぼくはおもう。
「小選挙区制」というシステムの問題だ。
小選挙区比例代表並立制を生んだのは、1994年に成立した政治改革四法である。
池上 あのとき、「政治改革」が正義でそれに反対するのは「守旧派」あるいは「抵抗勢力」とレッテルを貼られた。「改革に反対する者たち」と括られて。
半藤 わたくしもそう言われました(笑)。二党政治というのは日本人に向かないと、かねてわたくしは思っていました。戦前の日本は民政党と政友会の二党政治でした。野党になったほうは、ときの政権をひっくり返そうと思ってしばしばおかしな勢力と結びついた。昭和初期に政友会と結びついたのが軍部と右翼でした。そしてやがて、軍部は政友会を利用しつつ好き勝手をはじめてこの国を戦争へと向かわせることになるんです。と、いうような歴史があるのだから日本の二党政治は怖いよ、と言っても、おっしゃるように「守旧派」呼ばわりされてしまう始末でね。
池上 イギリスやアメリカのように対立する二党による政権交代があったほうがいい、という論調がたしかにメディアでも強かった。日本は中選挙区制だからずっと政権交代が起きないのだと。小選挙区制にすれば大量の死に票を出すことにはなるけれど、そのことよりも、どちらかが勝つという仕組みのほうがいい。そう言って制度を変えるわけですよね。
 じつはその頃イギリスでは、保守党と労働党だけではなく、第三の勢力として自由民主党が出てきていました。二党ではかならずしもうまくいかないということが明白になっていたからです。にもかかわらず日本では政権交代可能な二党が、競い合うような制度がいいと信じられていた。アメリカだってそうじゃないか、共和党と民主党で代わる代わる政権を担当しているよと。なんとなくこう、海外はこうなっているから日本もそうすべきだ、というような発想や主張は根強くありますね。「世界に遅れるな」とばかりに。
小選挙区制のダメなところは今までにもさんざん書いているのでここではくりかえさないけどさ。

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】

民主主義を破壊しかねない小選挙区制だけど、導入されたときは
「民主主義をぶっこわすために小選挙区制にしよう!」
とおもっていた人はほとんどいないんだろう。当時の人たちは「小選挙区制こそすばらしい制度」と信じていたんだなあ。

民主主義をぶっこわしたのは当時の日本人みんなだったのだ。
半藤 こうして認めてみると、やっぱり小選挙比例代表並立制の導入は、日本の岐路でしたねえ。政治家がすっかり政党のロボットになっちゃった。死に票が山ほど出て選挙が民意を伝えるものではなくなってしまった。よく主権、主権といいますがね、主権には二種類ある。国内的な政治主権と、外政的な政治主権です。北方領土変換交渉のさなか、ブーチンが安倍総理にこう言いました。「そこにアメリカの基地など決してつくらせないと言うけれど、沖縄で新基地建設業反対があれだけ叫ばれているというのに、政府与党はそれを無視しているじゃないか」と。つまり日本はアメリカの要求に逆らえない国なのだから、なんでもイエスなんだから、北方領土でもまたおなじことになるという疑念を示した。それが意味するのは、安倍首相の国内的政治主権というものは、ぜんぜん国民に説得力がないということなんです。
 プーチンが指摘したように、日本の政府与党は、選挙で勝ったら好きなようにやっていいのだとばかりに世論なんか無視している。わたくしに言わせりゃ、もとはと言えば小選挙区比例代表並立制のせいなんです。

まあ失敗したこと自体はいいわけだよ。
現状を予想できた人は当時ほとんどいなかったんだろうし。
ダメなのは失敗を改める制度がないことなんだよね。

今の国会議員の多くは小選挙区制のおかげで当選できた人たちなので、それを変えようとしない。
政治制度なんて完璧になるはずないんだから、フィードバックが働かない制度をつくっちゃだめだよ。

現行の小選挙区制は裁判所もずっと違憲状態だっていってるのにいっこうに直らないんだから。
民意がそのまま反映されたら困る人がいるんだろうなあ。

選挙制度は利害関係者である政治家に決めさせちゃだめだよね。裁判所とかの独立した機関にやらせなきゃ。

特に最近は、情報の地域差はすごく少なくなったし、その一方で都市と地方の人口差は開くばかり。地域ごとに選挙区を分ける理由がどんどん薄くなっていっている。
個人的には、大選挙区制にしてしまってもいいんじゃないかとおもう。




原発について。
半藤 日本では送電網をもっている旧電力会社のカがあまりに強いので、地域に合った発電・供給を実現する新しいとりくみがうまくいかないようですね。いつもギクシャクしている。いまだに原子力発電にしがみついている。
池上 ドイツは、メルケル首相が福島第一原発の大事故を見てエネルギー政策をすぐさま転換しました。前の年にメルケルさんは従来の脱原発政策を緩和させて、運転延長の方針を打ち出したばかりだったんです。しかしあの事故を契機に原発廃止に明確に舵を切った。「あの日本ですらコントロールできないものは止めるべきだ」と言ったんです。
 イタリアでも、二〇一一年のフクイチの事故後の六月、原子力発電の再開の是非を問う国民投票があって、政府の再開計画が否決されているんです。街頭インタビューで反対票を投じたご婦人が、「原発は日本人ですらコントロールできない。街のごみ収集もちゃんとできないイタリア人が、管理できるわけないわよッ」と答えていました(笑)。
半藤 他山の石としたドイツもイタリアも、えらいもんです。ところが当事国である日本の政治家どもは福島の大災害からまったく学んでいない。で、原発輸出に熱心になっている。原発問題は、平成が残した大課題だと思いますねえ。

日本の原発の失敗を見てドイツやイタリアは原発廃止に舵を切ったのに、当事国である日本だけがいまだに原発にしがみついている。
失敗であることに気づきながら責任をとりたくないばかりに失敗から目を背け、取り返しのつかない事態へ突き進んでしまう。すごく日本らしい光景だ。

「日本軍が負けるわけがない」
「地価が下がるわけがない」
「原発が制御不能になることはない」
昭和も平成も、失敗に対する日本の体質は少しも変わっていないなあ。




ぼくはまだ三十数年しか生きていないけど、ここ数年で国内の空気はどんどん息苦しくなっているように感じる。

この本の中で池上さんと半藤さんが「我々もネットでは反日と呼ばれている」とボヤいている。
彼らは日本もアメリカも中国も北朝鮮も等しく「いいとこもあるし悪いとこもあるよね。悪いところはちゃんと批判しなければ」という立場をとっているとおもうんだけど、それでも「反日」になってしまうのだ。
日本政府礼賛でなければ「反日」、という風が吹いているように感じる。

もちろんそういう人がごく一部であることはわかってるんだけど、声が大きい(あるいは複数アカウントを使うなどして数を多く見せている)から多数派であるように感じてしまう。ああ、息が詰まるぜ。


この閉塞感は、経済と無関係ではないだろう。
残念ながら日本の経済力は(少なくとも相対的には)どんどん落ちていっている。日本は先進国ではなく衰退途上国だ、と誰かが言っていた。多くの日本人の実感に近いとおもう。

景気のいいときには「このままじゃ日本はだめだ。立ち止まって反省しよう」みたいな言説が主流だったのに、経済が成長しなくて閉塞感が高まるとかえって「威勢のいい話以外は認めないぜ!」という雰囲気になってしまう。
現実から目を背けたくなるのだ。

つぶれる会社ってこんな空気なんだろうなあ。
そういやぼくは以前書店にいたけど、出版業界ってもう衰退していくことが誰の目にも明らかだから、業界の集まりなんかでも逆に景気のいい話しか出てこないんだよね。
「こんな仕掛けをした本が売れました!」とか「〇〇出版社が業績アップ!」みたいな。

たぶん大戦に突入したときも同じような空気だったんだろうね。





以前、『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』という本の感想としてこんなことを書いた。

日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

この体質は今もって変わっていない。

だからこそこうして半藤・池上両氏は「平成の失敗を振り返ろう」と警鐘を鳴らしているわけだが、そういう人は少数派で、多数派からは「せっかくの前向きな空気に水を差すなよ」と疎まれてしまう。

はたして令和時代は失敗を総括して軌道修正のできる時代になるんだろうか。
それとも、過去と同じように取り返しの失敗に突き進んでいく時代になるのだろうか。
ぼくの予想は、残念ながら……はぁ……。


【関連記事】

【読書感想文】 池上 彰 『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』

【読書感想文】半藤 一利『幕末史』



 その他の読書感想文はこちら


2019年8月1日木曜日

【読書感想文】小田扉『団地ともお』


小田扉『団地ともお』


漫画の魅力を文字で伝えるのはなかなか困難だが、『団地ともお』という漫画の魅力は、センスのいい笑いと不条理な世界観の融合にある。

昔はトンカツのようなこてこてのギャグも好きだったが、歳をとると「どやっ、おもろいやろっ! わろてや!」って感じのギャグはもう胃もたれして受けつけなくなってきた。
その点『団地ともお』の笑いはぜんぜんもたれなくていい。うどんのようにおなかにやさしい。


主人公のともおは、団地に住む小学生。
団地というと高度経済成長期のイメージだが、ともおは現代に生きる小学生だ。
アイテムとしてパソコンも出てきたりするが、基本的にぼくが小学生だった1990年代とあまり変わらない生活をしている。
虫を集め、カードゲームに興じ、単身赴任中の父さんが帰ってきたら飛びあがって喜び、宿題を娯楽に変えられないかと頭を悩ませ、野球やサッカーで泥だらけになっている。

ぼくも同じような遊びをしていた。
ところがふしぎと、ノスタルジーを感じない。

ひとつには『団地ともお』を読んでいるときはぼくも男子小学生の気持ちに戻っているから。小学生が小学生の生活にノスタルジーを感じるわけがない。

そして『団地ともお』の世界は日常的でありながら非日常だから。
基本的に一話完結なのだが、突然パラレルワールドが描かれたり、過去に行ったり、幽霊が出てきたり、モノや動物が意識を持ったりする。そのことに対して、たいていの場合なんの説明もない。あたりまえのようにファンタジー世界が描かれる。
読んでいるうちに「どうやら今回はパラレルワールドの話らしいな」となんとなくわかるだけだ。
で、翌週には何事もなかったかのように現代の団地に戻っている。

かつてラーメンズの小林賢太郎氏が自分たちのコントについて「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常を描いている」と語っていたが、それに近い。
奇妙を奇妙と感じさせないように描く、ってなかなか易しいことじゃないよね。

これもまた小学生っぽい。子どものときって、異世界がもっと身近にあった気がする。
ふとした瞬間に妙な世界に行ってしまうことがたびたびあったんじゃないかな。たぶん気のせいだろうけど。




『団地ともお』には、しばしば死が描かれる。
死者が幽霊となって出てくる、みたいな軽快な話が多いが、中にはすごく現実的な描き方をしていることもある。
印象に残っているのは、どちらも初期の名作だが、
「過去に子どもをなくした夫婦がともおを預かり、冗談めかして『うちの子になっちゃう?』と言うエピソード」と
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」
だ。

どちらもセンセーショナルな死ではなく、日常からすごく身近なところにある死だ。

「過去に子どもをなくした夫婦」は、もう悲嘆にくれてはいない。子どもを亡くしたのは何年も前のことだからだ。悲しい思い出ではあるがそれなりに自分の中で消化して、日常を取り戻している。
しかしともおが遊びにきたことでかさぶたになっていた傷口が開いて、様々な思いが少しずつ流れだす。
この表現がさりげなくてすばらしい。


「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」が伝えるのも、悲しみというより喪失感に近い。

ぼくは数年前旧友を亡くした。くも膜下出血による突然死だった、と聞いた。
亡くなった彼とは教室で言葉を交わす程度で、すごく仲が良かったわけではない。高校卒業後は同窓会で一度会ったことがあるだけ。死んでいなかったとしても、もしかしたら一生会わないままだったかもしれない。
けれど、訃報を耳にしたときは胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。そうか、あいつはもういないんだなあ。涙を流すほど悲しいわけではない。病死なのだから誰かを恨むような気持ちでもない。ただ茫々とした寂しさがあった。

たいていの死はそんなものなのだろう。悲しくないわけじゃないけど、号泣したり憤ったりするほとではない。
子どものころに戻りたいとおもっても戻れないのと同じで「寂しいけどしょうがないな」ぐらいの感覚。

この感覚を漫画で表現できる(しかもユーモアで包みながら)漫画家はそう多くないだろう。
『団地ともお』にはときどきこうした文学としか言えないような回がある。
ばかばかしいギャグの間に質の良い文学がはさみこまれるのだから、たまらない。




主人公が男子小学生なので「男子から見た世界」が描かれることが多いのだが、『団地ともお』に出てくる女子もまた魅力的だ。
小田扉の初期の傑作『そっと好かれる』や『男ロワイヤル』で描かれていたような自由自在に生きる女性も魅力的だが、『団地ともお』の女子のリアルなたたずまいもいい。

乱暴者で男子にも喧嘩で勝つ女の子、まじめで先生からのウケはいいが男子からは嫌われている女の子、言いたいことをはっきり口に出せない女の子、集団になると強気な女の子、人の嫌がる仕事を人知れず引き受ける女の子。
どのクラスにもひとりはいたような子ばかりだが、彼女たちの悩みが丁寧に描かれている。

そういえば小学生のときって、男子にとっては女子という存在はひとしく"敵"だったよなあ。なにかというと男子と女子が対立。おとなしい子ややさしい子でも、女子というだけで敵だった。

彼女たちにもそれぞれの悩みがあるなんて、当時はまったく考えなかった。からっぽだとおもっていた。実はぼく自身がからっぽだっただけなんだけど。
そうかあ、あのおとなしい女の子たちもこんなことに悩んでたんだろうなあ。数十年遅れで女子小学生の気持ちがちょっと理解できたような気がする。




最終回もいつも通りの『団地ともお』だった。『団地ともお』らしい。
あんまり終わった、という感じがしない。まるではじめから自分自身の過去の思い出だったような気がする。

ときどきでいいから、また続きが読みたいなあ。

【関連記事】

【エッセイ】エッチに関するルールについて

【エッセイ】男子における「かっこいい」の信憑性に関する考察

工事現場で遊んでいる男子小学生


2019年7月31日水曜日

【読書感想文】犯人が自分からべらべらと種明かし / 東野 圭吾『プラチナデータ』

プラチナデータ

東野 圭吾

内容(e-honより)
国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは?鍵を握るのは謎のプログラムと、もう一人の“彼”。果たして神楽は警察の包囲網をかわし、真相に辿り着けるのか。

ミステリとおもって読みはじめたが、近未来SF+サスペンス+サイコ小説って感じだった。

多重人格の主人公、素性不明の謎の少女、DNA捜査システム、新技術をめぐる日米の攻防、裏に隠れた大物の陰謀……と東野圭吾氏にしてはずいぶんケレン味の強い設定。

ただ、どぎつい設定のわりにストーリー展開は平凡。ある研究者が冤罪で追われ、警察から逃亡しながら真犯人を追う……。と、今までに何度も読んだことのあるような展開。真犯人も「まあ順当だよね」という人選だし、謎となっている“プラチナデータ”も想像を超えてくるものではなし。

まあそれだけなら「そこそこのサスペンス」だったんだけど、ラストでがっかりして大きく点数を下げた。

「主人公を追い詰めた犯人が自分からべらべらと種明かし」があったからだ。

これやられたらほんと興醒めなんだよなー。

「おまえはどうせ死ぬのだから冥土の土産に教えてやろう」ってやつね。

聞かれてもないのに自分に不利になることを長々と語るやつね。

計算高くて慎重なはずの犯人なのに、その瞬間だけは相手に逃げられるとか録音されてるとか一切考えないやつね。

『プラチナデータ』の犯人は、典型的なこのタイプだった。
まあしゃべるしゃべる。
全部教えてくれる。なんて親切なんだ。
おまけに、抵抗した主人公と格闘している間もべらべらしゃべる。
「君も警察官だから、武道の心得はあるだろう。しかしこう見えて、私も柔道では黒帯なんだ。おまけに薬の影響で、君は十分な実力を発揮できないときている。勝負あったね。ああ、もう一つ付け加えておくと、この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかけることなど、私にとっては朝飯前なんだよ」
これ、信じられないかもしれないけど、犯人と主人公が銃を奪いあって格闘しているときに、犯人が主人公の首を絞めながらいうセリフだからね。
生きるか死ぬかの格闘をしながらいうセリフかね、これが。

つまりこれは作中で交わされている会話じゃなくて読者に対する説明なんだよね。
無理のあるストーリーをごまかすために、言い訳がましいセリフを登場人物に吐かせてるわけです。
「素手での格闘になったら警察官が勝つだろ」「絞め殺したらすぐばれるだろ」というツッコミを封じるために説明させているわけです(ちなみに「この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかける」方法は一切説明されない。思い浮かばなかったんでしょう)。

コントを演じている役者がいきなり客席のほうを向いて「えー今のは何がおもしろかったのかといいますと……」と説明しだしたようなものなのです。
だせえ。


東野圭吾作品って初期作品はともかく最近はどれも一定の水準をキープしてるとおもってたんだけど、これはめずらしくその水準に達してなかったなー。


【関連記事】

【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月30日火曜日

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

「地図感覚」から都市を読み解く

新しい地図の読み方

今和泉 隆行 

内容(e-honより)
方向音痴でないあの人は地図から何を読み取っているのか。タモリ倶楽部、アウト×デラックス等でもおなじみ、実在しない架空の都市の地図を描き続ける鬼才「地理人」が、地図を感覚的に把握するための技術をわかりやすく丁寧に紹介。オールカラー図解。

地図界では有名人の地理人こと今和泉隆行さんの本。
先日、この人のトークショーに行ってきた。『新しい地図の読み方』もトークショーの会場で買ってきたものだ。
地理人氏は、存在しない町の地図を描いた「空想地図」で有名だ。
空想地図については以下のサイトなどを参考にされたし。
 地理人研究所
 空想都市へ行こう!

空想地図もおもしろいのだが(トークショーで知って驚いたのだが、空想地図を描く人はけっこういるらしい。日本にひとりかとおもっていた)、『「地図感覚」から都市を読み解く』では空想地図の話はほとんどなく、「地図感覚」について語られている。


突然ですが、ここで問題。
この本、紙の本だけで電子書籍版は出ていない。
電子書籍にできない理由があるんだけど、それは何でしょうか?
(答えはこの記事の最後に)



地図感覚とは何か。
「地図を見て多くの情報を読み取る能力」のことらしい。

ぼくなんか地図を読むのが苦手で、地図を見るのは目的地までの経路を調べるときぐらい。
それも「ええと、駅を出て電車の進行方向に向かって進んで、ふたつめの角を左、で、公園の次の角を右にいったところか」と、必要な経路をみるだけでせいいっぱいだ。空間認知能力が低いので、情報を言語化しないとおぼえられないのだ。しかも「来たときは犬がいたところを右に曲がった」とか、まったくあてにならない情報に頼ってしまう。
もっとも最近はGoogleマップのおかげでほとんど迷うことはなくなった。ありがたい。

だが地理人氏のような地図感覚に長けた人は、ぼくと同じ地図を見ても
「このへんは古くから住んでいる人の多い地域だ」
「この道は週末は渋滞するね」
「ここは都市計画に失敗したところだな」
とかわかるらしい。
平面の地図から、街並み、人の流れ、住人の気質、歴史、将来の展望などもわかるのだ。ただただ驚くばかり。
 地図ネイティブになることは、最低限の実用性を得られるだけでなく、その土地と通じ合う感覚を得ることができます。しかしこうしたアプローチ、習得法はこれまでなく、本書で風穴を空けたつもりです。これまでの章では個別具体的な話をしましたが、ここまで例に出てきた地図は、比較的煩雑な地図ばかりでした。複雑なものは分解し、単純化する必要があります。頭の中でいくつかの層に分けて見たり、重ねたりすると咀嚼できるようになります。たとえば都市地図の場合、店舗ロゴからはチェーン店の密度、建物の色からは建物の用途、道路の色からは道路の重要性(幹線道路かどうか)、背景の色からは町域が見えてきます。そしてそれらを重ねて見えてくることもあるのです。

そういえば、サッカー好きの知人と話していたときのこと。
「サッカーって観てても退屈じゃない? なかなか点が入らないし、0ー0で終わることすらあるじゃない」
というと
「退屈なのはボールの動きしか追ってないからですよ。ボールを持っていない人の動きを見ていると戦術がわかるし、戦術がわかれば両チームの駆け引きが見えてくる。そこを楽しむのがサッカー観戦です。将棋は王将をとるのが目的ですけど、王将の動きだけ見ていてもぜんぜんおもしろくないでしょう。それといっしょですよ」
と言われた。
なるほど、と感心した。それを聞いたところでぼくには戦術なんてわからないわけだが、とにかくサッカー通は素人とはぜんぜんちがうところを見ているのだとわかった。

地図も同じようなものなのだろう。
地図感覚に長けた人にいろいろ解説してもらいながら街をぶらぶら歩いたら楽しいだろうなあ。




駅前が栄えている街と、そうでない街があることについて。
 鉄道は、今や大都市圏のみならず、全国県庁所在地等の地方都市周辺でも大きな役割を担っています。今や地方でも、短距離の普通列車は通勤通学に使われ、日常的な利用も多くなりましたが、開通当初は蒸気機関車で牽引される長距離列車や貨物列車が中心でした。蒸気機関車の時代は煙害もあれば、機関車や貨車が待機、転回するための広い敷地を要したため、駅は市街地から離れたところに作られました。このため鉄道駅の場所を見ると、そこが明治時代の市街地のぎりぎり外側であることが多いのです。さきほど紹介した熊本駅も、明治時代の街の外れです。ただ、山形市、福山市などのように、駅が城の真ん前にできる、という例外もあります。城の敷地が官有地として接収され、広大な空き地となり、ここに駅が作られることもありました。
 名古屋市で最も賑わうのは名古屋駅ではなく栄、福岡市では博多駅ではなく天神が中心的な市街地です。こうした中心市街地は江戸時代からすでに街でしたが、名古屋駅も博多駅も、明治初期の市街地の少し外側なのです。当初、駅は単なる遠距離交通の拠点で、街ではなかったのですが、今や名古屋駅、博多駅ともに、栄、天神に次ぐ大きな市街地になっています。

高度経済成長期以降に開けたような新しい街だと駅が街の中心になっていることが多いが、古くからにぎわっていた街だと駅は市街地のはずれにつくられたのだという。

そういえば、人気のない商店街を通るたびに
「なんでこんな微妙な位置に商店街があるんだろう。こんなに駅から遠かったらシャッター街になるのは当然だろ」
とおもっていたが、あれは順番が逆だったんだな。駅があってそこから離れたところに商店街がつくられたのではなく、商店街が先にあって、商店街のすぐそばには駅をつくる土地がないから離れたところにつくったらそっちのほうがにぎわうようになったのだ。
なるほどねー。

ぼくは京都市に住んでいたことがあるが、JR京都駅は街のはずれにある。
JRを利用するたびにバスで京都駅まで行かなくてはならないので「なんでこんな不便なところに」とおもっていたが、京都のように古い街だと中心部に駅や線路をひけないんだよな。建物も文化財も多いし。
だから京都の中心部である四条河原町付近には地上を走る鉄道はない(阪急や京阪が通っているが河原町付近では地下を走る)。
鉄道は新参者なんだね。

ぼくは鉄道網が整備されてから生まれたし、幼少期は戦後に開発された街に住んでいたので「鉄道があってその周りに人が住む」という感覚だったんだけど、逆パターンも多いのかー。

こういうことを知っていると、街歩きも楽しくなるね。




この人は「地図とは文章や写真と同様に表現手法のひとつだ」と書いていて、はじめはあまりぴんと来なかったのだが、講演や本の内容を見ているうちになんとなく共感できるようになってきた。
地図は事実をありのまま伝えているように見えるけど、三次元のものを二次元に落としこむ、大きなものを小さく縮尺するという過程で、必ず「何を載せて何を載せないか」と絶えず選択を迫られているはずだ。
情報をそぎ落とし、ときにはつけくわえる過程には必ず「車を運転する人が迷わないように」「住人が生活に困らないように」「山歩きをする人の助けになるように」といった作者の意図が入るわけで、そう考えるとたしかに地図は表現手法のひとつだよなあ。

考えたこともなかったが、自分とはまったく異なる考え方をする人の話を読むのはすごくおもしろい。
世界がほんのちょっと広がったような気がする。




(クイズの答え)

電子書籍だと、閲覧者の環境によって地図の大きさが変わってしまうので、「1/25,000」といった縮尺が嘘になってしまうんだよね。

ところでこないだ『チコちゃんに叱られる!』で「これがトウモロコシを400倍に拡大した画像です」ってやってた。
すべてのテレビでも400倍に見えるわけないだろ!


【関連記事】

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月19日金曜日

【読書感想文】中学生のちょっとエッチなサスペンス / 多島 斗志之『少年たちのおだやかな日々』

少年たちのおだやかな日々

多島 斗志之

内容(e-honより)
人間の一生にも禍いの起きやすい時がある。その最初はたぶん思春期だろう。性に目覚めるだけの年頃ではなく、人間界の様々な”魔”にも出逢いはじめる時期だ。本書は十四歳の少年たちが”魔”に出逢う珠玉の恐怖サスペンス短編集。

七作の短篇からなる作品集。
それぞれべつの話だが、どれも主人公は十四歳の少年。

ある出来事をきっかけに日常が少しずつ壊れてゆく……というサスペンス。
「友人のお母さんの浮気現場を見てしまう」「友達のお姉さんにゲームをしようと誘われる」「教師から泥棒の疑いをかけられる」
といった、どこにでもありそうな出来事が引き金となり、少年たちが恐ろしい目に遭う。
すごく鮮やかなオチはないが、それぞれテイストが異なる怖さを描いていて楽しめた。


十四歳男子を主人公に据えるという設定がいい。
自分が十四歳のころを思いだしても、火遊びをしたり、高いところに登ったり、入っちゃいけない場所に入ったり、言っちゃいけないことをいったり、詳しくは書けないようなことをたくさんした。
あの頃SNSがなくてほんとうによかった(インターネットはかろうじてあったが子どもが遊べるようなものではなかった)。

十四歳って、身体は大人になりつつあって、性的な好奇心は大人以上に高まって、けど社会的にはぜんぜん子どもで、でも自分の中では全能感があって、周囲に対して攻撃的になって、大人が嫌いで、世間のことをわかったような気になって……というなんともあやういお年頃だ(「中二病」はおもしろい言葉だけど、その一語だけでひとまとめにしてしまうのはもったいない)。

そんなあやうい十四歳だから、危険をかえりみずに未知の世界に足を踏み入れてしまう気持ちはよくわかる。


読んでいていちばんドキドキしたのは『罰ゲーム』という短篇。

友だちの家に行ったら、きれいだけどちょっとイジワルなお姉さんが「ゲームをしよう」と持ちかけてくる。
エッチな展開に持ちこめそうとおもった主人公はそのゲームに乗ることにする……という、なんともドキドキする導入。
ところがお姉さんが決めた罰ゲームはとんでもないもので……。

こわい。でもエロい。
エロの可能性が待っているのに退くわけにはいかない。エロの前では恐怖すらも絶妙なスパイスになってしまう。
このお姉さん、明らかに頭イカれてるんだけど、"エロくてイカれてるお姉さん"って最高じゃないですか。


小学五年生のとき、ジェフリー・アーチャーの『チェックメイト』という短篇小説(『十二の意外な結末』収録)を読んで、すごく昂奮した。

今思うとエロスとしても小説としても大した話じゃないんだけど、エッチなお姉さん+この先どうなるかわからない展開 というのは、思春期男子にとっては居ても立ってもいられないぐらいのドキドキシチュエーションなのだ。

中学生だったときの気持ちをちょっと思いだしたぜ。あっ、そういう青春小説じゃなくてサスペンス? 失礼しました。


【関連記事】

【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月16日火曜日

【読書感想文】ミニオンアイスみたいなことをやられても / 湊 かなえ『少女』

少女

湊 かなえ

内容(e-honより)
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

ううむ。
よくできている。が、よくできているがゆえにおもしろくない。
とにかく偶然がすぎる。
「たまたま〇〇が□□の親だった」「あのときの××がなんと△△につながっていた」みたいなのがひたすら続く。
天文学的確率の20乗。いくら宇宙が広いからってこれはやりすぎ。


リアリティのない小説が嫌いなわけじゃない。
「ありえねーよ!」って設定も、それはそれでいい。

ただ。
ありえない展開の小説にするには、それなりのテイストが必要なわけ。

『ホーム・アローン』はコメディだからおもしろいわけじゃん。ケヴィン少年の策略がことごとくうまくいくのはご都合主義だけど、それも含めて楽しいわけじゃん。コメディだから。
でもサスペンス映画のラストで、主人公が敵を撃退するために『ホーム・アローン』みたいな仕掛けをやったら興醒めするよね。

べつのたとえをするとさ。
サーティワンアイスクリームに「“ミニオン” フラッフィワールド」って味があるのね。
映画のミニオンとコラボした商品で、公式サイトによると「ストロベリー風味、マシュマロ風味、コットンキャンディが織りなすフワかわいい美味しさ!」って書いてある。

“ミニオン” フラッフィワールド

まあばかみたいなアイスクリームだよね。
でもアイスクリームだからこれでいいわけじゃん。
だってみんながサーティワンアイスクリームに求めるのは「楽しさ」「おもしろさ」「はじけとんだ感じ」であって、「素材にこだわったおいしさ」とか「プロの料理人の熟練した技術」とか「栄養」とかじゃないから。
だからミニオンのハチャメチャな味でもぜんぜんオッケー。

でも老舗の天ぷら屋が「“ミニオン” フラッフィワールド味はじめました!」ってやったらげんなりするでしょ。いや天ぷら屋にそういうの求めてないから、ってなるじゃん。


そういうことなんだよね。
だから『少女』もかる~いタッチで書いてくれたらおもしろかったはず。よくできてるなーって素直に感心できたとおもう。
映画『キサラギ』なんかやはり死を扱った作品だったけど、とことんポップに描いていたから、ストーリーのありえなさも含めて楽しめた。

かといって湊かなえさんがポップで底抜けに明るい小説を書いたら、それはそれでなんかイヤだな……。


【関連記事】

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

【読書感想文】ピタゴラスイッチみたいなトリック / 井上 真偽『探偵が早すぎる』



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月9日火曜日

【読書感想文】ビミョーな間柄の親戚 / 新津 きよみ『孤独症の女』

孤独症の女

新津 きよみ

内容(e-honより)
甥の翔が生まれたとき、目元が由希によく似ていると言われた。似ていたのは顔だけでなく、幼い翔は絵の才能があった。画家になることが夢だった由希は、その夢を託すように彼に絵の指導を始めた。いつしかその思いは過剰なものとなるが、成長する翔の時間は他のものに奪われていく。焦燥を隠しきれない由希は―(「愛甥」)。全七篇、様々な家族のカタチを描く珠玉の作品集。

姑、異母兄弟、義理の兄、兄嫁、別居中の夫など「ビミョーな間柄の親戚」との関係を描いた短篇七篇を収録。


ぼくもいい歳になったし結婚したことで「ビミョーな間柄の親戚」が増えた。
義父母、義妹、義妹の夫、義兄、義兄のおとうさん、義兄のおとうさんが再婚した相手(つまり義兄の義母)、いとこの夫、いとこの子(従甥(じゅうせい)/従姪(じゅうてつ)っていうんだって。なんか怖い響きだよね)……。

配偶者は自分で選ぶけど、その親戚までは選んで親戚になったわけじゃない。妻の妹の夫、なんてほぼ他人だ。
だけど親戚の集まりや法事などで顔を合わせる機会はけっこうある。むげにもできない。
けれど年齢も職業もぜんぜんちがうし共通の趣味もない。
ちょっとした話はしなければならないが共通の話題もない。「お正月休みはいつまで?」とか「お子さん大きくなりましたよねえ」「いやまだまだわがままな子どもですよ」とか毒にも薬にもならぬ話題でなんとかやりくりをする。大人ってたいへんだ。

幸いうちの親戚はみんな常識人だし(たぶん)、そもそもお互いそんなに濃密な付き合いをしないようにしているので「間が持たなくて気づまり」ぐらいで済んでいるが、「金に困っている親戚」とか「良からぬことを生業にしている親戚」とか「やたらとなれなれしくしてくる親戚」とかがいると、苦労もそんなもんでは済まないだろう。

誰しも「この人と結婚していいだろうか」と悩むだろうが、ぼくに言わせれば結婚がうまくいくかどうかなんて運でしかないとおもう。
結婚してから豹変する人は(たいていの場合悪くなる)いくらでもいるし、それを事前に見抜くのはほぼ不可能だろう。
結婚相手ですらわからないのだから、結婚相手の親戚がマトモな人かどうかなんてわかるわけがない。完全に博打だ。

無作為に選んだような相手と、家族同然の付き合いをしたりお金の交渉をしたりしなければならないわけだから、当然そこにはサスペンスやホラーのドラマが生まれる。
小説としていい題材だとおもう。




中でもいちばんおもしろかったのは『愛甥』。

顔も才能も自分に似た甥に対して、果たせなかった夢を投影する独身の伯母。甥に期待するあまり両親の教育方針に疑問を持ち……。

正直早い段階でオチは読めたが、それでもよくできた小説だとおもう。
叶えられなかった過去の夢を投影する先として、甥という存在はすごく絶妙だ。

ぼくにも姪と甥がいるが、すごくかわいい。
自分の子に感じるのとはまたちがった愛おしさがある。

姪や甥に対しては、ただかわいがるだけでいい。将来をおもって厳しく叱ったりしなくていい。たまに会うだけなので好きなだけかわいがってやればいい。会うたびにお年玉やプレゼントをあげて、いっしょに遊んでやる。甥姪がおかあさんに怒られていたらなぐさめてやる。多少のわがままも笑って許してやる。
甘やかすので、向こうもこちらになついてくる。なおのことかわいい。

甥や姪は遺伝子的にはけっこう近い。四分の一は自分と同じ遺伝子を持っている計算になる。孫と同じだ。
働きバチは子どもを産むことができないが、妹のために働く。妹や姪が出産することで自分の遺伝子を残すことができるからだ。
甥や姪がかわいいのは、遺伝子を残す上でもあたりまえのことだ。

わが子であればふだんから見ている分、欠点も見える。
けれどたまに会う甥や姪はいいところしか見えない。ぼくが彼らに「優しいおじさん」の顔しか見せないのと同じで。
だから余計に期待を抱いてしまうのかもしれない。


遠くから応援する程度であれば過度な期待に害はないかもしれないが、なまじっか距離が近ければその期待は甥姪を苦しめる刃になるかもしれない。

「おじ/おば」と「甥/姪」の関係って、家族であり他人であり上下関係であり横の関係であり、じつは愛憎紙一重な間柄かもしれない。


【関連記事】

【エッセイ】結婚式における脇役



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月8日月曜日

【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

二度はゆけぬ町の地図

西村 賢太 

内容(e-honより)
中卒で家を出て以来、住み処を転々とし、日当仕事で糊口を凌いでいた17歳の北町貫多に一条の光が射した。夢想の日々と決別し、正式に女性とつきあうことになったのだ。人並みの男女交際をなし得るため、労働意欲に火のついた貫多は、月払いの酒屋の仕事に就く。だが、やがて貫多は店主の好意に反し前借り、遅刻、無断欠勤におよび…。夢想と買淫、逆恨みと後悔の青春の日々を描く私小説集。

この人の本ははじめて読んだ。気になってはいたんだけどね。芥川賞受賞式での「風俗」発言とか、テレビに出ても少しも賢く見えるようにとりつくろわないところとか。

小説ではあるがほぼ実話だそうだ。
主人公の「北町寛多」はその字面からして明らかに「西村賢太」だ。
すごくおもしろかった。
身内の恥を切り売りするのが小説家の商売だとどこかで読んだことがあるが、それにしてもよくぞここまで己の醜いところをさらけだせるものだと感心する。

たとえば『潰走』における、家賃を払わない寛多と大家である老人のやりとり。
「とにかく、六千円あるならば、まずはそれを内金として払って下さい。こっちはあんたにあの部屋を、無代提供してるわけじゃないんですよ」
 もはや貫多も、これ以上この老人からの必要以上の恥辱に晒されるのには耐えられず、目に涙をためながら、仕方なく有り金をそっくり差し出した。
 するとそれを取り上げた老家主は、さらに残金はいつ入れるのかと、手をゆるめることなく追及してくる。そしてこれも、一週間後に、と答えたのを強引に三日後までとされてしまい、尚かつそれについては念書まで提出することを約させられることとなった。
 貫多が吐きたい気持ちを抑え、持ち主憎さで、もはやけったくそ悪いだけのかのアパートの自室に戻ったときは、毛布と僅かな衣類が転がっているきりの四畳半には、すでに暗闇の匂いが広がっていた。
 電気をつけてポケットに残ったジャラ銭をかぞえ終わると、ふいとあの老家主に対して殺意が湧いてきた。そしてその思いはすぐと我が身に返り、中学時分にだって、したことはあれ、決してされたことはなかったあのカツアゲを、あんな老人からやってのけられ不様に震えてた自分を、実際蹴殺してやりたい衝動に駆られてきた。
自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱く。ひでえ。ラスコリーニコフかよ。

この北町寛多、クズすぎて同情できるところが少しもない。
家賃を滞納したのも稼ぎを風俗や酒に使ったせいだし、大家に対してもその場しのぎの言い訳ばかり並べている。誰が見ても10対0で寛多が悪い。
にもかかわらず、その後も家賃を督促する大家のことを「悲しい生きもの」だの「余りの非常識」だの「嘗めきった態度」だの「乞食ジジイ」だの、さんざんにこけおろしている。クズ中のクズだ。

しかし。
見ないようにしているだけでぼくの中にも北町寛多は存在する。
周囲の人間を全員自分より下に見て、己の怠惰さが招いた苦境を他人のせいにして不運と嘆く人格は、たしかにぼくの中に生きている。己の不幸は他人のせい、他人の不幸はそいつのせい。己の欲望や怠惰になんのかんのと理由をつけて正当化。

この本を読んでいると、見たくもない鏡をつきつけられているようでなかなかつらい。おまえは寛多を嗤えるのかい、と。

ぼくは今でも身勝手な人間だが、特に二十歳くらいのときはもっとひどかった。
自分以外はみんなバカだとおもってた。それを公言してはいなかったが、きっと言動からはにじみ出ていただろう。

傲岸不遜、けれども他者に対しては潔癖さを求める。
北町寛多はまさしく過去のぼくの姿だ(もしかしたら今の姿かもしれない)。



全篇味わい深かったが、特に『春は青いバスに乗って』はよかった。

ずいぶんメルヘンチックなタイトルだとおもって読んでみると、著者(じゃなかった北町寛多)が警官をぶんなぐって警察のお世話になったときの話だった。

つまり青いバスとは、あの金網のついた警察の護送車のことなのだ。そういや青いな。
――ところで慣れと云うのは恐ろしいもので、当初一秒でも早くここから出たかった私も、それから三日も経てると、これでもう少し煙草が吸え、たまに面会人でも来てくれれば、それ程留置場と云うのも悪くない気分になっていた。留置場と云うより少し規則の厳しい寮にいるような錯覚が起きるときもあり、横になってひたすら雑誌に目を落としているときなぞ、ふいに自分が入院生活でも送ってるかの思いがした。現に健康面でも、毎日飲酒していた私がここに来て一週間足らず、その間、当然ながら一滴の摂取もないだけでえらく体にキレがあり、頭も妙に爽快である。かようなブロイラーじみた日々は、本来ならぶくぶくと太りそうなものだが、後日ここを出た直後に体重を測ったら、逆に八キロ近く落ちていた。
 こうなると留置場も、どうも私にとってはある意味天国で、その環境は少なくとも自己を見つめ直したり、罪を隠い改めるような余地なぞ全く生まれぬ場所であるようだった。ただ、ここに入るには家族親類、友人がいなければ絶対に不利である。面会や差入れのない惨めさや不便さが解消され、それに性絵面で、せめて便所の謎の両側にもう少し目隠しがあれば(そう云えばここへ入って一週間、少なからぬ心労でついぞその気にもならなかったが、下腹部の疼きはそろそろ臨界に近い雰囲気もあった。それであえて借りる本に成人雑誌は選ばないようにしたが、ここに二箇月近く収容されながらそれをすすんで手にし、平然と眺めている広岡たちは、この点をどう解消しているのだろうか)、ここは一種の保養所みたいなものだし、これなら何度入ってもいいとさえ思えてくる。
幸いにしてぼくはまだ留置所に入ったことはないが、留置所の環境が「ある意味天国」というのは容易に想像がつく。

なにしろ決断しなくていいのだから。決断しなくていいことほど楽なことはない。
決められた時間に決まったことだけやって、先のことは何も考えずに生きていく。これぞ天国の生活だ。だってそうでしょ? 天国の住人たちが「これから先どうやって生きていこう」「ずっとこんな生活を続けていていいんだろうか」って思い悩む?

学校生活というのも、留置所の生活に近いとおもう。
言われたことだけやっていればいい。いくつかのルールがあってそれさえ守っていればそこそこ快適な生活が保障される。ただしルールを逸脱した場合は厳しい罰が課せられるが、決断をしたくない人間にとってはいたって気楽なものだ。

ぼくは学校生活を楽しいとおもっていた人間なので、留置所や刑務所に入ってもそこそこうまく適応できるだろうという気がする。
もっと今のところは入る気ないけど。

【関連記事】

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』



 その他の読書感想文はこちら



2019年7月5日金曜日

【読書感想文】政治の世界の不透明さ / 曽根 圭介『黒い波紋』

黒い波紋

曽根 圭介

内容(e-honより)
元刑事・加瀬将造(38)は、借金取りから逃げ回るロクデナシの日々を送る。ある日、子どもの頃に家を出ていった父親が、孤独死したとの知らせを受ける。加瀬は父親が住んでいたボロアパートを訪ね、金目のものがないかと探すと、偽名で借りた私書箱の契約書があり、何者かが毎月30万円を送金していることを知る。さらに天井裏には古いVHSのビデオテープが隠されていた。再生した映像に映っていたのは…。

曽根圭介作品を読むのは六冊目。
……なのだが、これは期待外れだった。

中盤まではおもしろかったんだけどな。

死んだ父親の遺品を整理していたら、「毎月三十万円を誰かから送金されていた」記録の残る通帳と、犯罪行為を記録したビデオテープを発見する。
で、それらをもとに話が進んでいくので「なるほどこの三十万円とビデオテープの出所が最後につながるのね」と思いながら読んでいたら……。

つながらないんかい! まったくの別案件かい!
途中で国会議員、革命家グループ、右翼団体、冤罪事件などいろんな要素が出てくるのだが、それらもほとんどつながらないまま終わってしまう。
えええ……。
「最後で明らかになる意外な真相」みたいな感じをすごい出してたのに……。

曽根圭介作品、文章はさほどうまくないけどプロットはしっかりしていてそこが好きだったんだけどな。
これは風呂敷の畳みかたがへただったなあ。



この小説内では殺人、脅迫、暴力などが描かれるが、そのへんの描写はべつにこわくない。
おそろしいのは「政治の世界」だ。
もちろんこの作品はフィクションだが、「政治の世界ならこれぐらいのことがまかりとおってもおかしくないな」とおもわせる説得力がある。

ぼくもそうだけど、政治家と個人的にかかわったことのない人にとって政治家稼業ってまったく得体が知れない世界じゃないですか? 政治家という人物はよく見るのに、裏で何をやっているかまったく知れない。
その不透明さは、もしかしたらヤクザ以上かもしれない。

『黒い波紋』はそういう怖さを書こうとした作品だったのかもしれない。
そうだとしたらすごくおもしろい試みなんだけど、それにしては余計な要素が多すぎるんだよなあ。

いろんな要素をちりばめすぎて散漫な印象になっちゃったな。


【関連記事】

【読書感想文】曽根 圭介『鼻』

【読書感想文】曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



 その他の読書感想文はこちら


2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


【関連記事】

土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



 その他の読書感想文はこちら


2019年7月1日月曜日

【読書感想文】低レベル検察官の身勝手な仕返し / ジリアン・ホフマン『報復』

報復

ジリアン・ホフマン(著)  吉田利子(訳) 

内容(e-honより)
太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた―それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった!この男を無罪放免にしてはならない―恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ…。期待の大型新人による戦慄のサスペンス。

法学生だったクローイは、覆面男にレイプされ心身ともに深い傷を負った。
数年後、C・Jと名前を変えて検察官に彼女は、連続殺人事件の容疑者として逮捕された男が自分をレイプした男だと気づく。
C・Jは男を死刑にするために検察官として戦いを挑むが……。


残虐な連続殺人事件を扱っているが、わりと早い段階で容疑者が捕まるのでたぶん多くの読者は「捕まったやつは犯人じゃないのでは」と気づくだろう。「謎の密告電話」というわかりやすいヒントもあるし。
これ以上はネタバレになるが、犯人はたいして意外な人物じゃない。

この本の読みどころは犯人捜しではなく(そもそも犯人を捜すのは検察官の仕事ではない)、検察官でありレイプ被害者であるC・Jが、連続殺人犯であり自分をレイプした男(とおぼしき人物)とどう立ち向かうかという心理描写のほうだ。

C・Jが心に傷を負うきっかけとなるのが学生だったC・Jがレイプされるシーンだが、これがとにかく恐ろしい。
丹念に描写されるので、もう読んでいられない。そこまで細かく書かなくてもだいたい何されたかわかるからもういいよ、とおもうのだが作者は筆を止めない。ひたすらC・Jが苦しむ姿が書かれる。これがきつい。


ぼくも娘を持つようになり(といってもまだ幼児だが)、性犯罪に対しては被害者側の立場で考える割合が増えた。
もしも娘が……とおもうと、つらすぎてそれ以上思考が進まない。

中盤以降には殺人被害者の描写や終盤の格闘シーンなどのヤマ場もあるのだが、プロローグの不快感に比べたらかすんでしまう。
冒頭が強烈すぎてしりすぼみの印象。中盤以降もおもしろいんだけど。



ここからはネタバレになるけど、もやっとしたところ。

容疑者を起訴する際に、検察が不正をはたらく。

「捜査の手続きが不正であれば、その捜査によって得られた証拠はすべて無効となる」
というルールがあるのだが(そうじゃないと警察がやりたいほうだいになっちゃうからね)、検察官であるC・Jは、警察官が逮捕時に必要な手続きを踏まなかったことを知りながら強引に起訴に踏みきる。
裁判では、警察官と口裏を合わせて嘘をつく。
C・Jは葛藤しながらも「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」と不正をはたらく決断をする……。


いやあ、ダメでしょ。ぜったいにあかんやつ。
証拠はほとんどなし、容疑者は否認、逮捕時には警察側の不適切な手続き。あるのは検察官の直感だけ。
これで起訴したらダメでしょ。しかも有罪になれば死刑になる罪状で。

「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」じゃねえよバカ。
100人の真犯人を見逃してでも、1人の冤罪を生みださないことを優先させるのが法治国家なんだよ。

小説にいちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうけど、そうはいっても「裁判に私怨を持ちこむ」「私怨を晴らすために手続きの不正に目をつぶる」って、こいつのやってることは検察官として最低だ。
それならそれでハチャメチャ検察官として描くんならいいんだけど(両津勘吉が何やっても許されるように)、法制度をおもいっきり無視しといて「あたしは多くの犠牲者を救った正義のヒロイン」みたいな顔をすんじゃねえよ。身勝手な正義に酔って己のダメさに気づいてすらいない腐れ外道だなこの女。
ここまでダメ検察官だと、いくら被害者だったからといえまったく共感できない。むしろ被告人のほうが気の毒になってくる。

この検察官のやってることは『かちかち山』レベルの仕返しだよ、ほんと。


【関連記事】

【読書感想】トマス・ハリス『羊たちの沈黙』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月27日木曜日

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』

民主主義

文部省

内容(e-honより)
「民主主義」―果たしてその意味を私たちは真に理解し、実践しているだろうか。昭和23年、文部省は新憲法の施行を受けて当代の経済学者や法学者を集め、中高生向けに教科書を刊行した。民主主義の根本精神と仕組み、歴史や各国の制度を平易に紹介しながら、戦後日本が歩む未来を厳しさと希望をもって若者に説く。普遍性と驚くべき示唆に満ちた本書はまさに読み継がれるべき名著といえる。全文収録する初の文庫版!

昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。
民主主義とは何か、なぜ民主主義の社会であるべきなのか、民主主義を根付かせるには何をしたらいいのか。こうしたことが丁寧に書かれている。教科書でありながらすごく重厚な本だ(刊行されたときは上下巻だったそうだ)。

昭和二十三年ということはまだ日本は独立国ではなく連合国の占領下にあった時代。
当然この教科書もGHQのチェックが入った状態で書かれたはずだ。

軍国主義の大日本帝国がこてんぱんにやられ、民主主義という新しい風が吹き込んでくる。その中で、当時の学者や官僚が若者に対してどんなことを期待をしていたのか。
この本を読むと、当時の「新しい時代の幕開け」という空気が感じられる。
当時の国の中枢にいた人たちが、いかに日本が民主主義国家として生まれ変わることに期待してひしひしと伝わってくる。

残念ながらその期待は七十年たった今もかなえられていないけれど。



七十年前に刊行された本だが、驚くほど今の世の中にあっている。
悲しいことに。
そう、ほんとに悲しい。
「七十年前はこんなことをありがたがっていたのか」と言える世の中であってほしかった。
「この頃は国民主権があたりまえじゃなかったんだねえ。政府が国民を押さえつけようとしていたなんて今では考えられないねえ」と言える世の中であってほしかった。


『民主主義』の中で「こんな世の中にしてはいけない」と書かれている社会に、今の日本はどんどん近づいている。
 全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中でいちばん尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言いわけはいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう五年、いや、もう十年がまんすれば、万事うまくゆく、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄のために犠牲にならなければならないと言う。その間にも、独裁者たちの権力欲は際限もなくひろがってゆく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者たちの考えている通りに運んでいった。
 つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちをうって、元も子もなくしてしまう。

美しい国にしよう、国家秩序のために基本的人権を制限しよう、と叫ぶ連中が幅を利かせている。
増税や社会負担増加で今は苦しくても国家が経済的に成長すればやがては楽になる。君たち庶民もいつかはトリクルダウンにあずかれるのだから耐えなさい。

今の日本を支配しているのは、まさにここに書かれている「全体主義」そのものだ。

情報伝達手段は発達したはずなのに、資料は廃棄され、データは捏造され、公共放送機関は人事権という金玉を政府に握られ、権力者はなんとかして情報を隠そうとする。
 これに反して、独裁主義は、独裁者にとってつごうのよいことだけを宣伝するために、国民の目や耳から事実をおおい隠すことに努める。正確な事実を伝える報道は、統制され、さしおさえられる。そうして、独裁者の気に入るような意見以外は、あらゆる言論が封ぜられる。たとえば馬車うまを見るがよい。御者はうまが右や左を見ることができないように、目隠しをつける。そうして御者の思うとおりに走らなければ、容赦なくむちを加える。馬ならば、それでもよい。それが人間だったらどうだろう。自分の意志と自分の判断とで人生の行路をきりひらいてゆくことのできないところには、民主主義の栄えるはずはない。

個人的には「熱い正論をふりかざす人間」が苦手なのだが、今の世の中に欠けているのは理想論なんじゃないかとおもう。

こういうことって今、誰も言わないでしょ。
人権は大事だ、一人の生命は地球より重い、権力は弱者のためにこそ使うべきである。

そんなことあたりまえだとおもっているから誰も口にしない。
でもほんとはあたりまえじゃない。我々が享受している自由は先人たちの不断の努力によって支えられてきたもので、天からふってくるものじゃない。気を抜くと権力者によってすぐに奪われてしまうものだ。
めんどくさくてもちゃんと正論を言わなきゃいけない。

ぼくは星新一作品を読んで育ったので熱い意見に冷や水をぶっかけるような「シニカルな視点」が好きなのだが、シニカルな意見がおもしろいのは熱い議論があってこそだ。
みんなが冷や水をぶっかけてたら風邪をひいてしまう。

今って、国のトップに立つような人たちですら
「現実的に全員を救うのはムリっしょ」
「世界平和なんか達成されるわけないっしょ」
「立場がちがう人と話しあったってムダっしょ」
みたいなスタンスじゃないですか。
理想とかビジョンに興味がないし、そのことを隠そうともしない。
作家だとか落語家だとかが片頬上げながらそういうこというのはいいけど、でもそれを政治家がいったらおしまいでしょ。

「愛は地球を救う」ってのはきれいごとすぎて気持ち悪いけど、でももしかしたら愛は地球を救うんじゃねえかって気持ちも一パーセントぐらい持っておきたい。
ひょっとしたらほんとに愛が地球を救うかもしれない。そういう夢を見せてくれるのが政治家の仕事なんじゃないかとこのごろはおもっている。



この本、前半はビジョンを提示し、中盤以降は諸外国の民主主義の成り立ちや日本における政治・社会の変遷をたどることで民主主義国家の実現に向けた方法論を考察するという構成になっている。

この構成がすばらしい。ただきれいごとを語るだけではなく、過去の失敗例や外国の事例なんかがあることで具体的に考えるための手助けになっている。
GHQ検閲下にあったはずなのにアメリカの制度を手放しで褒めているわけではないのもすばらしい。
ほんとよくできた教科書だ。

 だからイギリスは君主国ではあるが、政治の実際の中心を成すものは議会である。中でも、国民によって選ばれ、国民を代表しているところの庶民院である。庶民院を中心とするイギリスの議会は、立法権を持った最高の国家機関であって、同時に、政府の行ういっさいの行為を批判するという重大な役割を果たしている。政府は議会の多数党の支持を受けているが、議会にはかならず反対党があって、政府の政策を常に批判し攻撃する。
 これに対して、政府は、くり返してその政策を説明し、弁解し、擁護しなければならない。政府は、それによってたえずその政治方針が正しいかどうかを反省することになるし、国民は、それによって常に政治問題の中心点に批判の目を注ぐこととなる。このような政治上の議論が公明に行われる舞台として、議会は最も重要な機能を果たしているし、イギリスの議会は、この重要な任務を模範的に遂行しているといってよい。

よく「野党はなんでもかんでも反対してばかりだ」といって揶揄する人がいる。

ぼくは「野党はなんでもかんでも反対」でもいいとおもっている。野党が賛成ばかりになったらもうその国の民主主義は終わりだ。
自民党が下野したときも与党案に反対ばかりだった。それでいいのだ。反対意見にさらに反論することで議論が深まり、より完成度の高い法案ができる。

学生が論文を書いたら、指導教官がそれをチェックする。疑問を投げかけたり不備を指摘したり書き直しを命じたりする。
それを受けて学生は論文を書きなおす。より説得力を増した論文ができあがる。
この肯定を「教授は人の論文にケチをつけてばかりだ」といって否定する学生がいたらバカだとおもわれるだけだろう。法案も同じだ。



ぼくはこないだ「民主主義よりもっといいやりかたがあるんじゃないか?」という記事を書いた。
 → 「いい独裁制」は実現可能か?

この本では、そういった反論も予想した上で、それでもやはり民主主義が最善だと結論づけている。
 人間は神ではない。だから、人間の考えには、どんな場合にもまちがいがありうる。しかし、人間の理性の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁主義は、失敗を犯すと、かならずこれを隠そうとする。そうして、理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
 これに反して、民主主義は、言論の自由によって政治の誤りを常に改めてゆくことができる。多数で決めたことがまちがっていたとわかれば、こんどは正しい少数の意見を多数で支持して、それを実行してゆくことができる。そうしているうちに、国民がだんだんと賢明になり、自分自身を政治的に訓練してゆくから、多数決の結果もおいおいに正しい筋道に合致して、まちがうことが少なくなる。教育がゆきわたり、国民の教養が高くなればなるだけ、多数の支持する政治の方針が国民の福祉にかなうようになってくる。そういうふうに、たえず政治を正しい方向に向けてゆくことができる点に、言論の自由と結びついた多数決原理の最もすぐれた長所がある。民主主義が、人類全体を希望と光明に導く唯一の道であるゆえんも、まさにそこにある。

ぼくは二大政党制を支持していない(当然小選挙区制も)。
それは、まちがいを認めなくさせるシステムだからだ。

政治における過ちは、ミスを犯すことではない。ミスを犯したことを隠すことだ。
「過ちを隠したい」という気持ちは誰しも持っている。それはなくせない。「権力者は過ちを隠そうとする」という前提で制度の設計をするしかない。

二大政党制は、為政者のミスで政党全体の権力が失われてしまうので、政党レベルで「ミスを覆い隠そうとする」力がはたらく。
集団が全力でミスを覆い隠そうとした場合、それを暴くのは並大抵のことではない。たとえば個人の殺人はほぼ間違いなく犯人が検挙されるが「村ぐるみで一致団結して殺人を覆い隠そうとした」場合はかなりの確率で逃げおおせることができるだろう。

民主主義国家にとって必要なのは嘘がばれやすくする仕組みなのだが、二大政党制は不都合な事実を隠蔽しやすくさせる。

党内で常に権力闘争が起こっているかつての自民党の状況のほうが、むしろ健全(いちばんマシ)なんだったとつくづくおもう。



人類の歴史を見ても、権力者が他者の人権を制限してきた時代のほうがずっと長かった。
今は「たまたま、例外的に民主主義が保たれているだけ」だ。

この本には「明治憲法の下でも民主主義国家になることはできた」と書いてある。少なくとも明治憲法をつくった人たちは国民主権の世の中にしたいという高邁な精神を持っていたはずだ。
けれど明治憲法にはいくつかの不備があり、二・二六事件などをきっかけにあっという間に軍部の暴走を許すことになった。今の日本国憲法も完璧ではない。その穴を拡げる改憲をしようと目論んでいる政治家もいる。
ちょっとしたことをきっかけに民主主義は崩されてしまうだろう。


すごくいい本だった。
今の中高生にこそ読んでほしい(まさかこれを読まれたら困ると考える為政者はいないよね?)。

しかし、戦争を経験している世代が民主主義の大切さを唱えていたのに、こういう教育を受けてきた世代が大臣や総理になったとたんに崩壊しはじめるってのはなんとも皮肉な話だよね。
教育って無力なのかもしれないと絶望的な気持ちになる。

まあ、今の二世三世大臣たちがまともに学校教育を受けていなかっただけ、という可能性も大いにありそうだけど……。

【関連記事】

【読書感想エッセイ】 岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月26日水曜日

【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』

会計が動かす世界の歴史

なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

ルートポート

内容(e-honより)
“お金”とは何か?私たちの財布に入っているお金には100円、1000円、10000円などの価値がつけられています。しかし、ただの金属、紙切れにすぎないものをなぜ高価だと信じているのでしょうか。貨幣や紙幣に込められた絶大な影響力―。その謎を解く手がかりは人類と会計の歴史のなかにあります。先人たちの歩みを「損得」という視点で紐解きながら「マネーの本質を知る旅」に出かけましょう。

おもしろい本だった。

この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。

ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。



 私たち人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと、そして文字を発明したのです。
 さらに注目すべきは、これがお金――金属製の硬貨――が発明されるよりも、ずっと以前のできごとだということです。
 貨幣としての硬貨が登場したのは、紀元前7世紀ごろのリディア(現・トルコ領)というのが西洋では定説になっています。しかし、それよりもはるかに古い時代から人々は「簿記」を使って取引をしていたわけです。
 お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があったのです。

漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。

なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。

でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。

「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。



 一般的には「農耕の開始によって人類は豊かになった」というイメージがあります。約1万年前、貧しい狩猟採集生活を憂えた私たちの先祖は、素晴らしい創造性を発揮して、豊かな農耕定住生活を手に入れたのだ、と。
 しかし最近の研究では、まったく異なる姿が明かされつつあります。
 気候変動によって狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために、仕方なく農耕を始めたというのです。
 実際、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇しました。
 狩猟採集生活では木の実や肉類などをバランスよく食べられるのに対し、農耕定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素がデンプン質に偏ります。また、定住生活では人口密度が高くなります。身体的な接触が増え、さらに排泄物などで土壌や水源が汚染されて、疫病が簡単に蔓延します。

死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。

今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。

一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。

どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。

人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。

農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。



会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
 ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。「租税国家」の誕生です。
 国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えます。
 イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく後れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのでしょう。
 このような歴史的経緯から言えば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。
 もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが自国の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからにほかなりません。国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底を避けては通れないでしょう。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。

「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。

だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。

だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。

投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。

【関連記事】

【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月19日水曜日

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

悪いものが、来ませんように

芦沢 央

内容(e-honより)
助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス!

嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。

己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。

こういう些細なエピソードとか。
 きっかけは、互いに結婚してからもふた月に一回程度のペースで会い続けていた短大時代の友人、倫代からの年賀状だったと思う。
 たしかに紗英は、彼女からの年賀状を見るのが憂鬱だった。互いに子どもがおらず、会えば仕事の話と旦那への愚痴で盛り上がれていた倫代が、他のみんなと同じように母親になって関心の先を子どもに変えてしまうのは寂しくもあった。どうせ子どもの写真なのだろうと、紗英はどこか白けた思いで年賀状をめくった。だが、それは紗英のものと同じ干支を使った味気ないものだった。
 なんとなく、嫌な予感がした。口実を作って共通の友達に連絡をとり、どこか祈るような思いでかまをかけた。
 倫代からの年賀状、かわいいね。
 ほんと、ハルキくん、倫代によく似てるよね。
 返ってきた答えに、やっぱり、となぜか勝ち誇るような思いで考えた。やっぱり、そうだった。倫代は、子どもがいる友達には子どもの写真入りの年賀状を、使い分けていた。
 わたしだってそうじゃないか、と紗英は何度も自分に言い聞かせた。わたしだって、結婚していない友達には結婚の話はしにくいと思っている。気遣いというそぶりで、見下している。――こんな話をしたら自慢に聞こえてしまうかもしれない、傷つけたらかわいそう、と。
 だから、倫代のことをひどいと思うことなんかできないのだと、そう考えながら、倫代の年賀状を捨てていた。

子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。


ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。

女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。



いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。

前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。

この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。

この歪んだ愛情に支えられた関係は、母と娘じゃないと成立しない。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。


瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。

そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。

げに恐ろしきは親子の縁よのぅ。


【関連記事】

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月17日月曜日

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

山女日記

湊 かなえ 

内容(Amazonより)
こんなはずでなかった結婚。捨て去れない華やいだ過去。拭いきれない姉への劣等感。夫から切り出された別離。いつの間にか心が離れた恋人。…真面目に、正直に、懸命に生きてきた。なのに、なぜ?誰にも言えない思いを抱え、山を登る彼女たちは、やがて自分なりの小さな光を見いだしていく。新しい景色が背中を押してくれる、感動の連作長篇。

登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。

上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。

どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
 姉と二人で歩いた時は、私は姉に独身でいることや経済的に不安定な生活を送っていることを責められるのではないかとモヤモヤした気分を抱えていたし、姉は自身の離婚問題について深く悩んでいた。それぞれの答えを探すような思いで急坂ばかりが続く山道を歩いていたのだ。大雨の中を。
 山は考え事をするのにちょうどいい。同行者がいても、一列で黙って歩いていると、自分の世界に入り込む。そこで自然と頭の中に浮き上がってくるのは、その時に心の大半を占めている問題だ。自分の足で一歩一歩進んでいると、人生だって、自分の足で進んでいかなければならないものだと、日常生活の中では目を逸らしていた問題についても、まっすぐ向き合わなければならないような気がしてくる。頂上までこの足で辿り着けたら、胸の内にも光は差してくるのではないかという期待が背中を押してくれる。そうやって、己と向き合いながら歩くのが登山だと思っていた。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。

友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。

とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。



そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。

中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。

ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。


【関連記事】

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月13日木曜日

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

シャレのち曇り

立川 談四楼

内容(e-honより)
落語家になるため弟子入り志願した若者(のちの談四楼)に、憧れの立川談志が告げたのは「やめとけ」の一言だった。―なんとか入門を許されるも、「俺と仕事とどっちが大事だ!」と無理難題に振り回される談四楼。恋に悩み、売れないことに焦燥し、好敵手と切磋琢磨する中で、ついに真打昇進試験が…。しかしそれは、落語界を震撼させる一大事件の始まりに過ぎなかった。師弟の情を笑いと涙で描く傑作小説。

立川談志氏の弟子であった立川談四楼氏による自伝的小説。

おもしろく読めたが、時系列がばらばらで読みにくいこと甚だしい。
いきなり時代が飛んだりさかのぼったりするので、読んでいて「えっ、あの話はどうなったの?」と混乱する。
発表時期がばらばらだったかららしいけど、一冊の本にするときになんとかできなかったものか。これはちょっとひどいぜ。編集者仕事しろ。

話にまとまりがないのは落語的といえるかもしれないけどね。ストーリーに一貫性のない噺ってけっこう多いし。
上方落語の噺だけど、『こぶ弁慶』なんかその典型だよね。前半と後半でまったく別の噺になるからね。登場人物も入れ替わっちゃう。



個々のエピソードは読みごたえがあった。
特に立川談志一門の落語協会脱退のくだりはおもしろい。

上方落語派のぼくにとって立川談志という噺家は
「偉そうにふんぞりかえっていてなんか嫌い(『M-1グランプリ2002』の審査員の印象がひどすぎて)」「落語はすごいらしい」
というぐらいのイメージしかなかった。
一度CDを聴いたことがあるが、江戸っ子訛りがどうも聞きづらく途中でやめてしまった。

しかしこの本に出てくる立川談志は、人間性の良し悪しはべつにして、ずいぶん弟子思いのいい師匠である。
「何だとゥ、独演会ィ?」
 寸志がその見幕に思わず謝ろうとするよりも早く、談志は一気に続けた。
「やれやれィ、やらなきゃしゃあねェ。独演会が打てる、つまり客が呼べる芸人だけが一人前というこった。それが俺の認識だ。前座だろうが二ツ目だろうが構うこたねェ、遠慮は要らねえから派手にやれ。だいたいなあ、俺の他に独演会を打てる落語家が何人いるってんだ、いやしねえだろ。何にも行動を起こさねえで、ただ居心地がいいというだけで寄席に安住してやがる。こんなに客が減ったのもみんなそいつらのせいなんだ。やれやれ、どんどんやれ。ただ、ひとつだけ言っておく。ネタだけはキッチリしたものをやれよ、前座噺で逃げようなんて思うな。で、いつやるんだ、木戸銭はいくらだ、客は何人呼ぶつもりだ、ゲストは誰なんだ、俺が要るのか要らねえのか……」と、それはもう矢継早に言った。
「お願いします、是非出て下さい。十月の三十一日です」
 寸志がやっとの思いで伝えると、「よし、事務所へ電話してみろ。空いてたら行ってやる」
「ハイ、その日は何もありません。空いてます」
「そうか、そこまで調べがついてるんじゃ仕方がねえな。じゃ、行ってやる。おめえの会に俺が出るなんてもったいねえぐらいのもんだ」
弟子の書いたものだから美化されている部分はあるだろうが、それにしても気風がいい。
落語協会を飛びだしたのも「弟子が真打昇進試験に落とされたことに納得できず」だというのがかっこいい。
事あるごとに「おまえらはおれの弟子なんだから腕はある」と口にするところ、ここぞという局面では現状に甘んじている弟子を厳しく叱りつける姿など、いやいい師匠だなと感心するばかり。
金に汚いところは江戸っ子っぽくないが、独自流派を立ち上げて弟子たちを食わせていかなければならないというプレッシャーがあっただろうことを考えると、それもやむなしとおもえる。
ビートたけし、高田文夫、横山ノック、上岡龍太郎など著名人を弟子として高座に上げて客寄せに利用したところなど、ずいぶん商才もあったんだなと感心する。

この本を読んで、「傲慢な天才」という談志のイメージは大きく変わった。
繊細で、周囲の人間をよく見ていた人だったのだろう。
考えてみれば当然の話で、人間観察に長けているからこそ噺家として大成したんだろうね。



印象に残るのは、真田家六の輔のエピソード。
真田家六の輔という名前の落語家は存在しないので著者が創作した人物なのだが、そのエピソードがあまりに生々しいのできっとモデルとなる人物がいたのだろうと想像する。

苦労人である師匠をもった六の輔。師匠は芸はうまいが気が弱く、そのせいで落語協会の中でも不遇の扱いを受けていた。
だが真打昇進試験で落とされた談四楼の師匠(談志)が落語協会を飛びだしたのとは対照的に、六の輔の師匠は「こらえろ」という。協会に対しての不満は多いはずなのにそれをひた隠し、弟子にまで不遇を強いる師匠に絶望する六の輔は、自由に見える談志一門の談四楼がうらやましくてたまらない。
だが不満や嫉妬を表には出さない六の輔はやがて酒におぼれてゆき、身体を壊すまでに……。

長くないエピソードだが、落語家という商売の業がぎゅっと凝縮されたような話だ。
ひょうきん、お気楽、自由闊達であることを求められながら、一方で伝統、師弟制度、閉鎖された組織という環境に身を置かなければならない落語家。
不満を感じながらも、表には出せない。ずいぶん因果な商売だ。

噺家という人種は自由に見えて、何よりも不自由な職業なのかもしれないな。


【関連記事】

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月7日金曜日

【読書感想文】ただのおじいちゃんの愚痴 / 柳田 邦男『「気づき」の力』

「気づき」の力

生き方を変え、国を変える

柳田 邦男

内容(Amazonより)
「孤独な時間」はなぜ大切か。人は孤独な時こそ悩み、苦しみ、寂寥感にとらわれ、それらを乗り越えるために懸命に考える。孤独なしに、考えるという「心の習慣」は身につかない。ネットの便利さやコンピュータが作る疑似体験に浮かれて、自己の内面と向き合う静かな時間や、現場体験によって自ら気づくことの意義を見失う現代人に、「目を覚ませ」と呼びかける警世の書。

ひさしぶりにどうしようもない本を読んだ。

そもそも、民俗学者の柳田國男氏の本だとおもって手に取ってしまった。
読んでいるうちに「あれ? 柳田國男さんってこんなに最近の人だったっけ? 明治とかじゃなかったっけ?」とおもって著者経歴を見てやっとまちがいに気がついた。

國男じゃねえのかよ! 誰だよ邦男って! まぎらわしい名前名乗りやがって!(本名なんだろうけど)



まあ、勘違いから出会った本が案外すばらしい本だったりして……とおもって読みすすめていたのだが、これがとにかくひどかった。

たとえば冒頭。
看護学生のエッセイを紹介し、その瑞々しい感性を絶賛する。そしてこう書く。
 佐藤さんは、自分の「気づき」をこう整理している。学生って、ひたむきだなあと、私は思った。「最近の若者は」などと、若者を一絡げにして批判するのは間違いだろう。いや、若者は捨てたものではない、希望をもてるぞ、と私は感じるのだ。
 高尾さんも佐藤さんも、進行したがん患者を担当するという厳しい試練を受けた中で、生涯の生き方にまで影響が及ぶような重要な「気づき」を経験している。とくに高尾さんは、患者の死というショッキングで悲しい体験をしている。そのことは若者にとっていかに現場体験が心の成長・成熟のために重要かを示している。これは看護学生だけの問題ではなかろう。
 このことは、広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られないということを示している。
は? なんで?

ことわっておくが、紹介されている看護学生のエッセイには、インターネットのイの字も出てこない。
実習を通して知り合った老人との交流と死別をつづったものだ。

それがなぜ「広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られない」になるんだ?
たぶんエッセイを書いた看護学生だってインターネットは使ってるだろうに(エッセイが投稿されたのは2007年だそうなので使っていないはずがない)。

どうしたの、おじいちゃん。
どうして、顔を合わせた交流だけが心の成長につながる体験で、ネットを通したらそうならないという短絡的思考なの? ゲームのやりすぎ?


この邦男おじいちゃんはその後も、手を変え品を変え「昔はよかった」をくりかえす。
「自分の頭の中にある美化された過去のイメージ」と「脳内でつくりあげた現代のかわいそうな境遇におかれた子ども」を対比しているのだから、前者のほうがいいのは当然だ。

そして、やたらとインターネットや携帯電話を目の敵にしている。
その攻撃材料がまた、「心が伝わらない」だの「忙しくて心のゆとりがない」だの「インターネットの便利さに漬かった若者は思考が浅い」だの、ことごとくうすっぺらい。もちろんなんのデータも示していない。
「よくわかんないけどおれが子どものときはなかったものをみんなやってるのが気に入らねぇ」なのがまるわかりだ。

きっとこういう人はいつの時代にもいたんだろう。
二十年前だったら「今の子どもたちはテレビゲームばっかりで……」と言ってただろうし、四十年前には「テレビばっかり……」と言ってたんだろう。そして六十年前は「今の子どもは漫画ばっかり読んで……」でそれより前は「小説ばっかり読んでるから……」だったんだろうな。
 私は、英文のこの絵本を持ち帰って、ゆっくりと再読すると、アメリカ人の作家と画家が、今という時代にこの絵本を創作して何を伝えようとしたのか、その意図がしっかりと私の心の中に浸み渡ってきた。そして、《これは日本の子どもたちはもとより大人たちにも、ぜひ読んでほしい絵本だ》という思いがこみあげてきた。
 ケータイ、ネット、ゲーム、勉強、競争主義といった一刻の余裕もない環境に取り巻かれ、何事につけ親から「はやく、はやく!」と急かされる今の子どもたちの状況に対し、何を取り戻さなければならないか、この絵本は、大事なキーワードを提示している。

昔の人は苦労していた。金や時間よりも大切なものを知っていた。それにひきかえ効率主義と拝金主義に洗脳された現代人は……。
こんな愚痴がひたすら並べられている。
いやいや、昔の人だってラクをできる方法があればぜったいそっち選んでたって! 昔の人は好きで苦労してたとおもってんのかよ、このおじいちゃんは。


まあ年寄りの愚痴に対していちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうが、驚くべきはこのおじいちゃんがノンフィクション作家を名乗っていることだ。おまけに「私はノンフィクション作家として論理的な思考ばかりを重視していたが、もっと人の心を見つめなければならない」的なことも書いている。

……。
論理的っていったいなんなんでしょう。



ことごとくゴミみたいな本だった(後半の河合隼雄氏の言葉を紹介しているところは興味深かったが、だったら河合隼雄氏の本を読めばいいことだ)。

この本から得られたものはただひとつ。

自分はこういう年寄りにならないようにしよう、という戒めだけだ。

ほんと、気を付けないとね。
五十年後に
「昔は連絡するためにはわざわざ携帯電話を使っていた。ものを調べるためにはパソコンやインターネットを使って一生懸命調べていた。たしかに面倒だったがその過程で得られるものも多かった。苦労していたからこそ、情報の裏にある人の心に気づくこともできた。それにひきかえ今は……」
とか言っちゃわないように。


【関連記事】

ぜったいに老害になる



 その他の読書感想文はこちら


2019年6月5日水曜日

【読書感想文】褒めるのがはばかられるおもしろ小説 / 池上 永一『シャングリ・ラ』

シャングリ・ラ

池上 永一

内容(e-honより)
加速する地球温暖化を阻止するため、都市を超高層建造物アトラスへ移して地上を森林化する東京。しかし、そこに生まれたのは理想郷ではなかった!CO2を削減するために、世界は炭素経済へ移行。炭素を吸収削減することで利益を生み出すようになった。一方で、森林化により東京は難民が続出。政府に対する不満が噴き出していた。少年院から戻った反政府ゲリラの総統・北条國子は、格差社会の打破のために立ち上がった。

大きな声では言えないけどおもしろかった。
スケールがすごい。
炭素の排出量を基準にした経済が世界の中心となり、実質炭素と経済炭素という概念が生まれる。
東京は地面を捨ててアトラスという巨大な人工台地をつくり、アトラスに暮らす特権的な人間と地面に生きるゲリラとに分かれる。
よくこんな設定おもいついたなと感心するばかり。

じゃあなぜ「大きな声では言えないけど」なのかというと、あまりにばかばかしい小説だからだ。
「ブーメランで敵をなぎ倒すゲリラの総統」「世界の炭素市場を荒らすシステムを開発した天才少女」「嘘をついた人間を殺す能力者」「外観を自由に変えることのできる装甲を持った軍隊」「人工地盤建設のための人柱」「炭素が生みだす新素材」「遺伝子操作によって種を飛ばして攻撃してくるようになった植物」など、設定が良くも悪くもマンガ的なのだ。
昨日の敵は今日の友、なストーリーも少年マンガっぽい。終盤の『ムー』感満載な展開も、中学生にウケそうな感じだ。
いい大人が読むもんじゃないなって感じの小説だ。いいおっさんが読んでおもしろかったんだけど。

それに登場人物がみんな超人すぎる。
なんなのこれ。脇役はばったばったと死んでゆくのに、主要な人物は何回殺されても死なない。肉体が滅びたのに甦るやつまでいる。ひでえ。
世界一速く走れて世界一バイオリンがうまくて世界一歌がうまくて世界一バレエがうまくて東大医学部を卒業して超絶美しい上に超強くてハーレーに乗って戦い、何度殺されても死なないお嬢様とか、このキャラ設定なんなの。
めちゃくちゃだ。

あとオカマで笑いをとろうとするのがすごく痛々しい。
安易にステレオタイプなオカマを出せばおもしろいんでしょ、という感覚は残念ながら今の時代にはあわなくなってしまった。すごく古くさく感じてしまう。
それが通用したのは平成中期までだね。

登場人物もストーリーもむちゃくちゃだけど、おもしろかった。

リアリティもへったくれもない小説なので、品性を疑われそうで手放しに褒めるのはなんだか気恥ずかしい。

これはあれだな、小説で読むもんじゃないな。漫画とかアニメ向きだな(じっさい漫画化もアニメ化もされたらしい)。



空中都市アトラス、炭素経済といった奇抜な概念もおもしろかった。
難民をほっといて、目先のイメージアップのためにオリンピック開催する政府とか。ぜんぜん非現実的じゃないか。

戦争を合法化するってアイデアもおもしろい。
 核と同じく環境を汚染する化学兵器は國子たちの生まれるずっと前に根絶したはずだった。今や戦争も国際法に則って行わなければ、厳しいペナルティが課せられる。国際社会は戦争を人間活動のひとつとして受け入れる代わりに、大量破壊兵器の所有を完全に放棄させた。戦争法は相手の降伏を待たずして勝敗が決まる。戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる。この戦争法の導入によって、奇しくも戦争は長期化することがなくなった。それはゲリラ戦にも適用される。千人の兵隊のうち三百三十四人が死亡すると、國子たちは戦争に負けたとみなされる。これを無視して戦闘を継続すると、国連が黙ってはいない。革命政府を樹立しても無効とされ、正当性を剥奪されてしまう。國子は出撃するとき、国連のサイトに戦争法に則って闘うことにサインした。相手国には非公開だが、国連のコンピュータはこの戦争をモニターしている。戦争は監視され制御を受けることで合法的な活動となった。ただし勝敗は国連が裁定する。國子たちが最後のひとりまで闘って勝利したとしても無効だ。それがわかっているから、迂闊にガスの中に兵を送り出せないのだ。

なるほどねえ。泥沼化を防げて、案外人道的かもね。
ただし「戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる」このルールだと、奇襲をかけて無警戒の市民八パーセントを一気に殺してしまうのがいちばん賢い戦略になってしまうので、そのへんは改良の余地ありだな。


【関連記事】

表現活動とかけてぬか漬けととく/【読書感想エッセイ】村上 龍 『五分後の世界』

【読書感想】安易に登場させられるオカマ / 吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』



 その他の読書感想文はこちら