2018年10月11日木曜日

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』

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『落語と私』

桂 米朝

内容(e-honより)
落語の歴史、寄席の歴史、東京と上方のちがい、講談、漫談とのちがい、落語は文学か、女の落語家は何故いないか等々、当代一流の落語家にして文化人が、落語に関するすべてをやさしく、しかも奥行き深い蘊蓄をかたむけて語る。

人間国宝だった桂米朝氏による、落語についてのエッセイ。
中高生向けに書かれたもの、ということで平易な言葉で語られていて、すごくわかりやすい。
しかし平易だからといって浅薄なわけではない。言葉のひとつひとつに、その道を究めんとする者ならではの奥ゆきがある。

落語のことをよく知らない人に訊かれる「落語と漫談のちがいってなんなの?」とか「古典落語と新作のちがいって何?」みたいな質問に対して、米朝さんは真摯に回答している。
一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えをぶつける、みたいな本。



米朝さんは噺家としても超一流だったけど、それ以上に芸の探究者として偉大な人だ。これだけ真摯に落語に向き合った人は後にも先にもちょっといないんじゃないだろうか。

たとえば、噺の冒頭によくある「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」というやりとりについての考察。
「こんにちは」と言っても「ごめんください」と言っても「コンチハ」とやっても「ごめんッ」とやっても威勢よくやるのと物静かに言うのでは、たいへんにちがいのあるもので、男女の別、老若のちがい、さらに職人か商売人か、そそっかしい男と落ちついた人、それに「こっちへおはいり」という受け手の人物とどちらが目上かということ。また、訪問の目的が、べつに用事もないが、むだばなしにやってくる時と、借金でもしようと思ってくる時とは、調子がちがって当然です。さらにまた、暑い時、寒い時という季節の点も考えにいれておかなければなりません。もう一つ大事なことは、家の構造なり大きさなりです。長屋といっても、戸をあけたら裏口まで見とおせる家もあれば、もうすこし気のきいた小ぎれいな長屋もあります。ガラリとあけたところに相手が坐っているのか、つぎの間(ま)からあらわれて「おう、まあこっちへおはいり」と言うのか、これはこんどは受ける側の問題になってきます。
「こんにちは」とはいってくる人物の場合と同様に、それを見て「おう、まあこっちへおはいり」と言う人の語調や視線も態度もさまざまにあるわけで、「おう」と相手を見た瞬間にいつもやってくる隣人である場合と、めったにこない珍客の時と、来るはずのない意外な人の場合と、それぞれ受け方にちがいがあるのは言うまでもありません。それに落語の内容によって、顔を見たらきびしく意見をしてやろうなどと思っている相手であった時なんか、顔の表情にもそれだけの演技がいるわけです。「こんにちは」「こっちへおはいり」だけでも、いくとおりにも演じ分けられてこそ、玄人のはなし家です。

「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」だけのやりとりが、これだけの思慮に裏付けられているのだ。すげー。

もちろん米朝さんのような名人になるといちいちこんなことを考えて演じていたわけではないだろうけど、でもこういう理論に裏打ちされたしゃべりをしているのだから何も考えずに話している人とは説得力がちがう。そりゃ噺に深みが出るわなあ。

きっと米朝さんは演者としてだけでなく、師匠としてもすぐれた師匠だったんだろうなあ。うまく演じることはできても、これだけのことを言語化して伝えられる噺家はそう多くないだろう。
米朝一門から高名な噺家が多く出ているのもむべなるかな。



特に印象に残ったのがこの話。
 つまり、甲がしゃべっている時は、演者は甲という人物になって、甲をあらわしているのはちがいないのですが、その甲の目の使い方と、セリフの内容によって、じつは乙が描かれているのであることを忘れてはならないのです。
甲の姿勢、表情、言葉づかい、話す内容によって、聴き手は「乙は甲の弟分なんだな」とか「ぞんざいな扱いを受けている奥さんなんだな」とか思い描く。
これはひとり芝居の落語ならではの表現だよね。

『ゴドーを待ちながら』とか『桐島、部活やめるってよ』のような、「ある人物を一度も登場させずに周囲の人間のセリフのみによってその人物を描く」という作品があるが、落語は常にそれをやっているわけだ。すごいなあ。
すべての噺家がこれを考えてやっているわけではないだろうけど。


米朝ファン、落語ファンはもちろん、表現活動が好きな人にとってはおもしろい本なんじゃないかな。

じつはこの本、うっかりまちがえて二冊買っちゃったんだけど、でも二倍のお金を払っても損はないと思えるような内容でした。


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