2021年10月14日木曜日

表現するためのガソリン

このエントリーをはてなブックマークに追加

 昔やっていたブログとかmixiとかを含めると、もう二十年近くネット上に文章をアップしている。
 変わらないのは、昔も今もいちばんの読者はぼくだということ。

 ほんと、かつて自分が書いた文章ってどうしてこんなにおもしろいかねえ。天才じゃないかとおもうね。いや、まちがいなく天才だな。今のところその才能に気づいているのが自分自身だけってだけで。


 それはそうと、昔書いた文章を読むと「繊細だなあ」とおもう。
 いろんなことに腹を立て、憎み、傷つき、恐れ、愛している。
 今のぼくは、他者に対してここまで強い感情を持てない。
「ま、どうでもいいじゃない」とおもってしまう。

 ひとつには、歳をとったから。
 もうひとつは、子どもが生まれ、強い関心を抱く対象がそちらになったから。

 結果、その他のあれやこれやに対しては興味がなくなった。興味がないから許せる。
 傍若無人なおばちゃんも、無礼千万なおっちゃんも、無知蒙昧な兄ちゃんも、春蛙秋蝉なねえちゃんも、「まあそんな人もいるわな」とおもえるようになった。ぼくの人生に密接にかかわってこないかぎりはどうでもいい。
 いわゆる〝丸くなった〟というやつだ。

 じっさい、生きやすくなった。
 他者に対して腹を立てることが減り、ストレスを感じることが減った。ええこっちゃ。

 その反面、創造性は低下した。
 いや元々大したことなかったんだけど(天才なんとちゃうんかい)。
 元々高くなかったものが、さらに低下した。

 他の人はどうだか知らないけど、ぼくが何かを書くための原動力の多くを占めているのが「怒り」だ。
 「ふしぎ」とか「納得」とかをガソリンにして書くこともあるけど、いちばん筆が進むのは「怒り」だ。つまんねえ本の悪口とか、書きだしたら止まらんからね。
 逆に「好き」ではぜんぜん書けない。おもしろかった本の感想なんかは書くのに苦労する。

 しかし、歳をとって怒りを感じる力が弱くなってきた。
 生きやすくなった反面、表現する力は弱まった。

 今いちばん怒りを感じるのは政治に対してだけど、これに関しては書いてて楽しくないのでなるべく書かないようにしている。
 書きたいことはいっぱいあるけど、政治批判っておもしろくならないんだよなあ。
「あたりまえのことができていない政治」を批判しようとおもったら、あたりまえのことを書くしかなくなるから。


 まあぼくの場合は書く力が弱まってもさして困らないんだけど。趣味で書いているだけだから。
 これが表現を生業にしている人だと苦労するだろうな。

 有名な作家とか画家とかで、やたら破壊的な生き方をしている人がいるじゃない。借金しまくったり家族を不幸にしたりして。団鬼六タイプ。
 ああいう人たちって「周囲や己を傷つけて怒りを感じないと表現する力が衰えてしまう人」なんだろうな、きっと。

 ぼくも表現を仕事にしていたら、表現をつきつめるあまりそっちの道に突き進んでいたかもしれない。


 あー、表現者にならなくてよかったー(完全なる負け惜しみ)。


【関連記事】

【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』



このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿