2021年10月12日火曜日

【読書感想文】下川 裕治『歩くアジア』

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歩くアジア

下川 裕治

内容(e-honより)
旅は広さが、一平方メートルにも満たない僕の机の上から生まれた。「飛行機を使わずに、東京からイスタンブールまで陸路の旅はできるだろうか」と思い描いたのがはじまりだった。マイナス20度の寒さに震え、気温50度の暑さにあえぎ、アジアの西端をめざす旅はつづく―。

 1995〜1997年におこなわれた「飛行機を使わずに東京からトルコのイスタンブールまで行く旅」を書いたエッセイ。一度にイスタンブールまで行くのではなく、途中で東京に帰って、中断地点まで飛行機で行って改めて「飛行機を使わない旅」を再開するというツアー。雑誌の企画なのでしかたないとはいえ、ちょっとずるい気もする。

 まあお遍路も中断をはさみながらやってもいいらしいので(「区切り打ち」っていうんだって)まあいいか。


 大学生のときに下川裕治さんの旅エッセイを読んだことがあって、そのときは「なんておもしろそうな旅なんだ!」とあこがれたものだが、すっかり中年になった今ではあんまり魅力的に見えなくなってしまったな。「しんどそ……」という感想が先に来てしまう。老いたなあ。


 あと、2021年の今読むと「やたらと上からアジアを見下しているな」という気になる。
 いやこれは下川さんがえらそうという気はぜんぜんなくて、日本全体が変わったんだとおもう。

 どういうことかというと「先進国の日本から見た、途上国であるアジア諸国」という意識がずっと漂ってるんだよね。

「実にアジア人らしいのんびりさだ」とか「人々もいかにもアジアの素朴でいい顔をしている」みたいな表現が頻出するわけよ。

 国籍も人種も言語も宗教も文化もなにもかもちがう国々を「アジア」でひとくくりにして、おまけに日本だってアジアなのに「私はアジア人じゃありませんよ」みたいなスタンスで一方的に「古き良き純朴さを持った人々」みたいな書き方をするのがあまりにも傲慢だ。

 でも、改めて書くけど、下川さん個人がアジアの国を見下してるってわけじゃないのよ。20年以上前の日本人はほぼ全員こういう感覚だった。むしろ下川さんは現地に足を運んでいる分、平均的日本人よりもずっとニュートラルにものを見ているといっていい。

 90年代後半の日本といえば、バブルははじけたとはいえまだまだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の意識をひきずっていて、アメリカには負けるけど世界第2位の経済力の国だという自負があって、ヨーロッパ諸国ならともかくアジアの国々なんて経済的には比較の対象にすらならないとおもっていたわけよ。まさか中国に追いつかれるどころか追い越されてあっという間に大きく水を空けられるなんて想像すらしていなかった。

 だからこのエッセイにも「アジアをはるか下に見ている傲慢な日本人」の感覚が存分にあふれている。著者の意識というより、読者である日本人全員の意識かもしれない。


 全体的に「アジアっていいよね」ってスタンスなんだけど、それは他者の文化を尊重しているからのものではなく、むしろずっと下に見ているからこその優しさに感じられる。

「三歳の子って何も知らなくてかわいいよね」
「猫は悩みがなさそうでいいよな」
みたいな「かわいがる」感覚に近いかもしれない。

 近いうちに追いつき追い越されるかもしれないとおもっていたらとても出てこない「圧倒的下位者に対する優しい目」なのだ。
 ぼくも含めて、二十数年前のほとんどの日本人はこういう意識を持っていた。




 ぼくは「海外旅行行きたいなあ」とおもいつつなんのかんのと理由をつけて行かない(つまりほとんどの人と同じ)タイプの人間なので、誰かの旅行記を読むのは楽しい。読んだだけで行った気になってしまう。

 ぼくが海外に行ったのは五回。香港、中国、中国、イタリア、ベトナム。香港は小学生のときの家族旅行だったし、イタリアは新婚旅行、ベトナムも夫婦での旅行なのでほとんど観光地しかまわっていない。一度目の中国は留学だったので大学のまわり(北京)をうろうろしただけだ。
 だから自分で何から何まで決める海外旅行に行ったのは一度だけだ。友人とともに船で天津に渡り、北京ー桂林ー広州ー上海と旅した。ほんとは桂林から昆明に移動し、そこからベトナムに行くつもりだった。

 だが、土砂崩れで当初予定していたルートが使えなくなったのと、電車の切符が買えなかっただめにベトナム行きは断念したのだった。

手がひとつ入ればいっぱいになるような窓の前にできた長い列に三十分、一時間と並び、窓口近くでは横入りするセコい中国人と押しあいへしあいを繰り返して、ようやく小さな窓に手を突っ込んで、行き先、日時、座席のクラスなどを漢字で書いた紙をさしだす。しかし、窓口の服務員は、
「没有(そんなものはない)」
 と紙をつっ返してくる。ねばるとその紙に何番窓口へ行け、というようなことを書いてくる。そして再び長い列に並び、ようやく窓口に辿り着いたかと思うと、再び、
「没有」
 万策つきて切符売り場にたむろするダフ屋から、高い切符を買ったこともある。

 日本じゃ考えられないが(中国でも今はなくなったのかもしれないが)、中国では電車の切符が買えないことがよくあったのだ。日本でも長期休みなどはチケットが手に入りにくいことはあるが、中国では季節を問わず一年中買えないのだ。電車は走っているのに。特に、途中駅(始発駅以外)からの切符を買うのはほぼ不可能と言われていた。

 しかし電車は毎日何本も走っているわけだし、乗っている人がいるからにはどこかしらで切符を売っているはず。行けばなんとかなるだろうと行ってみたが、ほんとに買えない。旅行会社(ほぼダフ屋)が先に抑えてしまうらしい。

 しかたなく旅行会社に足を運び、手付金を払って切符を予約した。翌日、旅行会社を再訪すると「買えなかった」と言われた。
 旅行会社でも買えないのか、買えなかったのならしかたないとおもって手付金を返してもらおうとすると旅行会社の社員は「買えなかったが、あと○元出せば買えるとおもう」と言う。
 そんなわけあるかい。あからさまに足下を見てふっかけてきているのだ。
 正直「あと○元」は当時の中国の物価からするとそこまで高い金ではなかった。日本円にして数千円だったか。
 だが「足元を見られてぼったくられる」ことに我慢がならなかったので「だったらいらんわ!」と言いのこして、手付金を取り返して旅行会社を後にしたのだった。

 事前にこの本を読んで知識があれば、もうちょっとうまくやれたかもなあ。


 あれでいろいろと予定が狂ったので腹も立ったが、今となってはいい思い出だ。
 ベトナム行きの予定がポシャったので、桂林のホテルに十日間ほど滞在した。田舎町なので、いくつかある観光スポットを見てしまえばあとはもうやることがない。
 男三人で、朝はホテルで点心を食い、近くの商店街をうろうろし、昼は屋台で汗だくになって丼を食い、ホテルに戻って海外チャンネルを見ながら昼寝。夕方涼しくなるとまた近所をぶらぶらし、食堂に行って飯を食ってビールを飲むという怠惰な日々を過ごした。
 あんなにのんびり過ごした十日間は人生において他にない。ストレスフリーな生活で、まさにバカンスという感じだった。




 香港にある重慶マンションというビル群の話。

 当初はふつうのマンションだったのだが、観光客が増えるとゲストハウス(今でいう民泊のようなものか)だらけになったそうだ。

 僕がはじめて重慶マンションに足を踏み入れたのもそんな時期だった。もちろん目的は中国のビザだった。あの頃、ウェルカムゲストハウスには、いつもビザの申請用紙が用意されていた。そこに必要事項を書き込み、パスポートと写真を用意すると、中国国際旅行社のスタッフが回収にきた。そう、あの頃、ウェルカムゲストハウスだけで毎日二十人ちかい旅行者がビザを申請していたように思う。もうゲストハウスというより、ビザの申し込み所と化していたのである。その後、中国の個人用ビザは日本でもとれるようになった。それは欧米でも同じことで、重慶マンションのビザセンターの役割は終わるのだが、今度はインド人、パキスタン人、バングラデシュ人などが姿を見せるようになってきた。重慶マンションの一、二階には、彼らのための土産屋、カレー屋、軽食屋などが並び、インド線香の匂いがたちこめている。さながらリトルインドなのである。最近ではそこにアフリカ勢も加わって、独得の雰囲気をかもしだしている。彼らは旅などというものにいっさい関心はなく、中国へ行くことなど考えてもいない。彼らは狭い香港というこの街で、わけのわからぬ商売にいそしんでいる。そんな長逗留組がゲストハウスを埋めるようになってきたのだ。香港が中国に返還されれば、今度は貧しい中国人がこの老朽化したビルの住人にとって代わっていくかもしれない。重慶マンションは、いつも本流からちょっとはずれた人々に支えられて生きのびてきた。

 すごいなあ。居住用マンションがゲストハウスになり、ビザの申し込み所でもあり、インドやアフリカの人が増え、彼らを相手にした商売が店を出す。

 生きてるマンションって感じだなあ。マンションというよりひとつの街だな。街だったら時代の流れとともに成長したり姿を変えたりするもんな。

 ちなみに今でも重慶マンションはショッピングモールや飲食店が入っている「街」として生きているらしい。




 ラオスの高速船に乗ったときの話。

 彼らはポケットからボロボロになったキップの紙幣をだすのだが、それがどう考えても少なすぎるのである。僕らは四百バーツ、ラオスのキップにして一万五千キップほどを払う客なのだが、途中から乗った客が差しだす金は百キップにも満たないのだ。僕はとんでもなくボラれたのかと思ったが、実は違った。それが彼らの持ち金のすべてなのだった。船頭は困ったような面持ちで、
「これだけじゃとても足りないよ」
 という。客は戸惑ったような頼りない笑みを浮かべて、ポケットをまさぐるのだがそこから金がでてくるわけがない。そのうちに船頭の方が、
「まあ、いいか」
 と諦めてしまうのである。乗客全員が少額のラオスキップしか払えないのなら、むしろ話は簡単なのかもしれない。ラオスの貧しさとか、そのなかでこんな船を走らせてしまったいいかげんさを嗤えばいいのだが、困ったことにちゃんとしたキップ単位の運賃を払う奴がいるから話がややこしくなってしまうのだ。まあ、正規の運賃を払う乗客がいるから、この船も運航しているのだが、つまりは金のある奴は払って、ない奴は持っているだけ払えばそれはそれでなにも問題もなく動いていってしまう社会というのが僕はよくわからないのである。(中略)しかしひとたびラオスに入ると、突然、僕らが当然のものとして受け入れている貨幣経済の骨が抜かれてしまうような茫漠とした感覚にとらわれてしまうのである。この船の乗客たちは、船の運賃というものをどう理解しているのだろうか。支払った運賃でガソリンを買い、船の口ーンを払っていくという、日本の小学生でもわかっていそうな貨幣経済のカラクリを彼らは知っているのだろうか。僕はにわかにわからなくなってしまうのである。

 ふつう(現代日本におけるふつう)は、お金がない人は安い運賃で乗る、なんてのは許されない。
 これを許すと「だったらおれも安くしろ」という客や、金を持ってるのにないふりをする客が現れたら、正直者が馬鹿を見ることになってしまうからだ。

 この理屈はわかる。

 でもよくよく考えてみれば「お金がない人は〝あるだけ〟でいいんじゃないの?」という気もする。
 食堂で飯を食うのならともかく、船の場合は客が十人であろうが十一人であろうが船頭の手間はほとんど変わらない。多少はガソリンを余計に使うだろうが、微々たるものだ。
 だから「お金がないやつはあるだけでいいよ」でも、実は船頭はこまらないわけだ。

 全員が正直で、他者に対して寛容であれば「あるやつだけ払う」制度で問題ない。
 今の日本や他の多くの国が「フリーライダー(ただ乗り)は許しません」という制度をとっているのは、お金があるのにないふりをする不正直者や、「他者の得」に不寛容な人がいるせいだ。


 そう考えると、ラオスの船の「お金がない人はあるだけでいい」は、原始的でありながらすごく進歩的な制度なのかもしれない。

 仏教国かつ社会主義国のラオスだから許されるんだろうか。

 どの国もこうなったらいいのに。理想の世の中だよね。

 ま、ぼくは「あいつだけ少ない運賃で乗せてもらってずるい!」とおもっちゃう側の人間なんだけど。

 

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