2020年6月22日月曜日

【読書感想文】尿瓶に対する感覚の違い / 高島 幸次『上方落語史観』

このエントリーをはてなブックマークに追加

上方落語史観

高島 幸次

内容(e-honより)
上方落語は笑わせてなんぼ。ならばその中身はウソばかり?いやいや、幕末から明治初期にかけて創作された古典落語は、当時の歴史風土や人々の生活習慣が色濃く反映されている。つまり、歴史を学ぶための手がかりが溢れた「教科書」なのだ。昔の人たちの笑い声が聞こえてくる、リアルな大阪の歴史を紐解きます。

大阪の近世史の研究者が、上方落語の時代背景について書いた本。

落語まわりの蘊蓄を披露、という感じだが、落語を楽しむ上での役に立つことはあまりない。
あまり知識がなくても楽しめるのが大衆芸能である落語だし、噺家は昔の噺が現代でも通用するようにいろいろ工夫してくれているし。
今ふつうに高座にかかっている噺で、歴史の知識がないと楽しめない噺というのは、つまり演者のチョイスか話し方に問題があるのだ。

なので落語を聴いて楽しむ人向けじゃなくて、研究対象として楽しみたい人向けかな。

あと著者がウケを狙いにいってるところはことごとく上滑りしている。“イタい落語ファン”という感じがして、読んでいてつらい。

堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』のほうが、読み物としても雑学本としてもずっとおもしろかったな。



落語といえばカミシモ(顔を左右にふりわける)というイメージもあるが、必ずしも必須ではないという話。
 その意味では、落語はスクリーンもなく、ただ言葉だけで人物や風景を表現できる芸なのですから、これはすごいことです。「言葉だけで」というと反論があるかもしれません。落語家さんは、上下(カミシモ)をふって(顔を左右にふり分けて)登場人物を区別しているじゃないか、扇子を箸やキセルに見立て、科を作り女性を演じるじゃないか、という反論が予想されます。
 たしかにその通りで、落語家さんの所作が言葉を補って余りある効果を持っていることは否定しません。しかし、その所作がなければ成り立たないかというとそれは違います。だって、落語はCDやラジオでも楽しめるのですから。ラジオでは上下が見えないからわかりにくい、といった不満は聞いたことがありません(あるとしたら、聞き手の知覚力の欠如か、落語家さんの力不足のせいか、どちらかですね)。箸に見立てた扇子が見えなくても、うどんをすする擬音だけで、ダシの熱さを感じ、湯気までもが見えてくる、落語の芸とはそういうものです。
たしかに。
ぼくが小学生のころ、三代目桂米朝さんのカセットテープを買ってもらって寝る前に何度も聴いていた。
田舎だったので気軽に寄席に行くことができなかったのだ。
今は場所的にも経済的にも生の落語を聴きにいきやすくなったが、そうはいっても小さい子どもがいるとなかなか「ちょっと寄席に行ってくるわ」とも言いづらく、寄席に行くのは数年に一回だ。
もっぱらYouTubeで楽しんでいる。

でもそれで十分だ。
Eテレでやっている落語の番組を毎週録画して観ていたことがあるが、すぐにやめてしまった。集中して観るのは疲れるのだ。
寝物語としてYouTubeで聴くのがちょうどいい(ただ聴いている途中に眠ってしまい、最後のお囃子で起こされるのが困るが)。



「尿瓶(しびん)」について。
落語にはときどき尿瓶が出てくる。
当時も今も尿瓶の用途はいっしょ。おしっこを入れる容器だ。

でも尿瓶に対するイメージは今とはずいぶんちがったようだ。
しかし、十八世紀にもなると尿瓶はかなり普及しました。しかも、それは現代のような介護用というよりは、日常的な用途に供せられたのです。
 特に長屋の住人には、屋外の共同便所を避けて室内で用をたすための必需品だったようです。江戸時代の大坂は、借家率が高く住民の六割以上が長屋住まいでしたから、大坂は「尿瓶率」全国第一位だった可能性が高いのです。たしかに、極寒の夜に家を出て長屋の端っこのトイレに突っ立ってジョンジョロリンはつらい。温かい寝床で用を済ませられるならそれに越したことはない。
 落語〈宿屋仇〉では、清八が宿屋の部屋を出ようとすると、宿屋の伊八に止められます。清八が「いや、ちょっ、ちょっ、ちょっとお手水(便所)」と答えると、伊八は「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」と答える場面があります。伊八は清八を部屋から出せない事情があるのですが、それはともかく、この会話は、尿瓶の使用が病人だけではなかったことを窺わせます。
今はどの家にもトイレがあるのがあたりまえだけど、長屋には便所がなかった。
たしかにトイレのたびに毎回外に出なきゃいけないのはつらい。冬の夜や朝方だったらなおさらだろう。
大用ならともかく、小用なら尿瓶に済ませてしまいたくなるだろう。どうせ昔の長屋なんてすきまだらけだし、いろんなにおいが漂っていただろうし。

だから現代人の感覚だと
「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」
と聞くと
「部屋を出させないために尿瓶だなんてそんな大げさな。病人じゃあるまいし」
とおもってギャグになるけど、江戸時代の感覚だと大げさでもなんでもないことなのだろう。
「腹が減ったから飯食ってくる」「だったらコンビニでなんか買ってきてやるよ」ぐらいの感覚なんだろう。きっと。

これはちょっと役に立つ知識だった。



落語を聴いていていちばん理解できないのはお金の感覚。
江戸時代の噺なら「一両」、明治時代の噺なら「十円」とか出てくるが、どれぐらいの価値があるのかがぴんとこないのだ。
「金」の単位は「両・分・朱」です。これが十進法ではなく四進法だから厄介なのです。一両=四分=十六朱となります。
「銀」の単位は「貫・匁・分」です。一貫=千匁、一匁=十分というように十進法と千進法が混じります。留意しておかねばならないのは、匁の一の位がゼロの場合は「匁」ではなく「目」になること。つまり、九匁、十目、十一匁、という具合です。文楽の床本に「二百匁などは誰ぞ落としそうなものじゃ」(『女殺油地獄』)と書いてあっても、太夫さんは「二百もんめ」ではなく、ちゃんと「二百め」と語りはります。さすがの口承芸能です。
「銭」の単位は「文」です。銭千文=一貫文、銀でも銭でも「貫」は千の意味なのです。穴空きの銭千枚を紐で貫いたことに由来するようです。
四進法の金と十進法の銀と千進法の銭があり、しかもそれぞれが交換されることもある……。
おまけに一文銭を九十六枚束にしたものは百文の価値があった……。

ややこしすぎる……。
よしっ、これを理解するのはあきらめた!

【関連記事】

堀井 憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿