2020年4月2日木曜日

【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』

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保守と立憲

世界によって私が変えられないために

中島 岳志

内容(e-honより)
保守こそリベラル。なぜ立憲主義なのか。「リベラル保守」を掲げる政治思想家が示す、右対左ではない、改憲か護憲かではない、二元論を乗り越える新しい世の中の見取り図。これからの私たちの生き方。

刊行は2018年2月。発売後すぐ買ったのだが、2年間も積読していたので内容は古くなっていることが多い(当時ホットだった希望の党は消滅し、当時リベラルの星だった立憲民主党もその勢いを失った)。
とはいえすごく刺激的でおもしろい本だった。

特にオルテガ『大衆の反逆』を紹介しているあたりはおもしろかったな。
100分 de 名著のオルテガ『大衆の反逆』を買っちゃったよ。オルテガなんて名前も知らなかったけど。



 安倍内閣が「一隻の船」だとしましょう。この船は徐々に傾き、沈んでいっている。しかし、乗り移るべき別の船が見当たらない。あっちに移れば大丈夫という安心感や希望を与えてくれる代わりの船が見当たらない。仕方がないので、ズブズブと沈んで行く船にしがみついている。そんな状況が、最近の多くの国民のあり方なのではないでしょうか。
 従来の構図で言えば、右派政権に対抗するのは左派ということになるでしょう。しかし、彼らの一部は教条的で、時に実現可能性やリアリズムを無視した反対意見を振りかざします。その態度はしばしば強硬で、何か自分たちが「絶対的な正しさ」を所有しているような雰囲気を醸し出しています。
 多くの庶民は、その姿に違和感と嫌悪感を抱いてきたのだと思います。一部の左派の主張や行動には、「自分たちは間違えていない」という思い上がりが多分に含まれていました。生活世界の良識を大切にしてきた庶民にとって、その独断的でドグマ的な態度は、修正の余地を残さない「上から目線」と捉えられ、忌避されてきたのでしょう。
この文章は現状をよく表しているとおもう(書かれたのは数年前だけど)。
国民の九割以上は「安倍内閣は問題だらけだ」と気づいている。たぶん自民党支持者ですら大半は気づいている(だよね?)。
政治ニュースを見ている人で、この政権最高! とおもっている人は、よほど利権に与っている人以外にはいないだろう。この船がいずれ沈むことも知っている(もしくは安倍政権という船が他の船を全部沈ませるか)。

でも、全員が船を捨てようとはおもっているわけではない。
「あっちの船のほうがまだマシだ」「いやあっちはこっちより早く沈みそうだ」で揉めている。

ぼくは個人的には政権交代してほしいとおもっている。もっといい船はたくさんあるとおもっている。
だからといって、政権およびその支持者に対して何を言ってもいいとはおもわない。

昨年の参院選前、こんなことを書いた。





ここに書いたことには少しウソがあって、ほんとは「安倍辞めろ」とおもっている。でもそれをおおっぴらに言うことはフェアではない。

それは野球のゲームで無得点に抑えられているからって「相手のピッチャーひっこめ!」ってヤジるようなものだ。見苦しいだけだ。
ちゃんとルールにのっとってヒットを重ねることで、マウンドから引きずりおろさなければならない。
(とはいえ現状は相手ピッチャーがドーピングしまくっているのに審判が見てみぬふりしている状態なので言いたくなる気持ちはよくわかる。だとしても抗議する相手は相手ピッチャーではなく審判やコミッショナーであるべきだ。検察仕事しろ。)

「安倍辞めろ!」の人たちは、「安倍さん万歳! 安倍さんなら何をやっても許す!」の人たちと同じレベルでものを言っているということに気づいていないのだろうか。



過酷な労働環境で苦しんでいる人がいるとする。
長時間労働、低賃金、パワハラ。
客観的に見たら「そんな職場辞めたらいいのに」とおもう。

だからといって「そんな仕事してるやつはばかだよ。何も考えてないんだね。おれはよく考えてるからこっちの正しい仕事をするけどね」と言えばいいってもんじゃない。そんな言葉で相手が転職を検討するとはおもえない。
そんなこと言われたら相手は「何もわかってないくせに気楽なこといいやがって。たしかにきつい仕事かもしれないけどやりがいはあるしそれなりに楽しさだってあるんだよ。だいたい辞めたからってもっといい職場が見つかるとはかぎらないだろ。もっと悪くなるかもしれないし」と反発したくなるだろう。もしかすると余計に意固地になって仕事を続けるかもしれない。

必要なのは相手や組織の否定ではなく「こんな仕事もあるよ。あなたのスキルならこれぐらいの給料もらえるよ。そりゃこっちの会社だって完璧ではないだろうけど、転職することで状況が良くなる可能性が高いんじゃない?」という別の求人を提示することだ。

多くの「自称リベラル」がやっているのは、まさに相手や組織を否定することだ。「安倍やめろ」の人たちなんかまさしく。これでは仲間は増えない。
(ただ「野党は文句ばっかりで具体的な案を示さない」という批判も的外れだけどね。示してるのにおまえが不勉強なだけだ。)


ぼくは、政治家の仕事は究極をいえば「ビジョンを示すこと」だけだとおもっている。その他の仕事は官僚のほうが百倍優秀にできるわけだからそっちに任せたほうがいい。
政治家は理想論者でもいいとおもっている。
だから上から目線で政敵を批判するのではなく、ビジョンを示してほしい。それも二十年先とか五十年先とかそういうスパンの。
与党も野党もそういうの語ってくれないでしょ。五十年後に向けてこうしていきますとか。田中角栄は語ってたけど。
みんな目先の消費税の話とかばっかりで。
べつにまちがってもいいんだよ。五十年先なんか誰にもわからないんだから。でも方向性だけでも示してほしい。
それすらわからないから、消費をせずに金を貯めるし、子どもも増やせないんだよなあ。



この人の提唱する「保守リベラル」という思想は、ぼくの政治スタンスとほぼぴったり一致する。
そうそう、これがぼくの言いたかったことなんだよ! という感じ。
今日からぼくも「リベラル保守」だ!(でも世間一般のイメージの保守派とおもわれたくないので大っぴらにはいわないけど)。

政治的な視界がすごくクリアになった。

今「保守」というと、靖国参拝だとか戦前回帰みたいなイメージで語られることが多い。ぼくもそういう人だとおもっていた。要は日本会議の人たちのイメージ。

でも本来の保守はまったくべつのものだと筆者は語る。
保守は人間の理性を疑う。長年の間に蓄積されたシステムを信用する。だから激変を嫌う。「教育勅語を現代日本に!」なんてもってのほかだ。
ただし変わらないということではない。保守のためには絶えず変わりつづけることが必要だ。一気に変えるのではなく、漸進的に変えていくのが保守のスタンスだ。

憲法をラディカルに変えるのは保守ではないし、護憲を掲げ何十年も同じ憲法を使いつづけるのももちろん保守ではない。
たしかにねえ。
この本の枝野幸男氏との対談の中でも語られているけど、「憲法改正に賛成ですか?」ってほんとに無意味な問いだよねえ。
「ある人が転職を考えています。したほうがいいですか?」みたいなことだもんね。それだけじゃなんともいえない。その人のスキル、今の仕事、次の仕事を知らずに判断することなんかできるわけがない。

 懐疑主義的な人間観に依拠する保守は、常にバランス感覚を重視します。私が尊敬する保守政治家・大平正芳は「政治に満点を求めてはいけない。六十点であればよい」と述べています。大平は、自己に対する懐疑の念を強く持っていた政治家でした。自分は間違えているかも知れない。自分が見落としている論点があるかもしれない。そう考えた大平は、「満点」をとってはいけないと、自己をいさめました。
「満点」をとるということは、「正しさ」を所有することになります。また、異なる他者の意見に耳を傾けるということも忌避します。大平は、可能な限り野党の意見を聞き、そこに正当性がある場合には、自分の考えに修正を加えながら合意形成を進めていきました。これが六十点主義を重んじたリベラル保守政治家の姿でした。
すばらしいなあ。
今の国政にこういう政治家いるかなあ。いないんじゃないかなあ。いても目立たないだろうなあ。メディアは過激な発言をしてくれる人にしか注目しないから。

でも、こういう人こそが政治家に向いている。
自分はまちがってるかもしれない、相手のほうが正しいかもしれない、だから大変革ではなくいろんな人の話を聞いて微調整しながら漸進的に物事を進めていきましょう、って人が。
舌鋒鋭く敵を攻撃する人じゃなくてさ(そもそも他の政治家や国民を敵と認識している人に政治家をやってほしくない)。

大平正芳氏はスピーチが流暢ではなかったため(あと風貌のために)「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」とも呼ばれていたが、実際は知識量も多く、謙虚で思索的な人柄だったらしい。
「六十点を目指す」ってのはほんとに頭がいい人じゃないと言えないことだよ。バカはすぐ「自分はぜったいに正しい! 反対するやつはまちがってる!」って言うからね。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、未来の不確定な出来事を正確に予測する能力の高い人は、「自分の考えは誤っているかもしれない」と常に自省的である人だそうだ。
うーん。今国会議員をやっている〇〇氏や○○大臣とは真逆だねえ。

自分は百点だとおもっている人間じゃなくて六十点かもしれないと疑いつづけている人に政治家をやってほしいなあ。



ギルバート・キース・チェスタトン(イギリスの作家)の思想の紹介。
 ひとつの観念に固執する人間を、チェスタトンは「狂人」と見なす。狂人は常に明快で、一直線に論争相手を論破しようとする。正気の人間は、狂人との議論に勝つことができない。なぜなら、正気の人間には常に「躊躇」や「曖昧さ」がつきまとうからである。一方、狂人は過度に自己を信用するがあまり、社会生活を支えている良識や人間性を喪失している。

(中略)

「正気の人間の感情」を持つ人間は、自己に対する懐疑の念を有している。そのため、異なる他者の主張に耳を傾け、常に自己の論理を問い直す。「正しさ」を振り回すことを慎重に避け、対立する他者との合意形成を重視する。
 そこでは対話を支えるルールやマナー、エチケットが重要な意味を持つ。他者を罵倒し、一方的な論理を投げ付ける行為は、「理性以外のあらゆる物を失った人」のなせる業である。彼らは先人たちが社会秩序を維持する中で構築してきた歴史的経験知を、いとも簡単に足蹴にする。彼らがいかに「保守的」な言説を吐いていても、それは保守思想から最も遠い狂人の姿にほかならない。

子どもの頃のぼくは弁が立つガキだった。
口喧嘩ならまず負けなかった(と自分ではおもっていた)。
いくらでも言葉は出てくるし、比喩や極端な例を持ち出して相手が言葉に窮すまで追いつめることができた。教師相手でも負けていなかった。

今にしておもうと、当時のぼくはチェスタトンのいう「狂人」の姿そのままだったのだ。
自分は正しい、相手はまちがっている、だから相手が黙りこむまで徹底的に言葉を重ねる。
論戦に勝つか負けるかしかないとおもっていた。
相手が黙りこんでいたのは論戦に負けたからではなく、狂人であるぼくに愛想を尽かしたからだったのだろう。

今ではさすがにそこまでやりあうことはなくなったけど(妻とは口喧嘩をすることはあるが妻をやりこめても長期的に見れば損しかないのでほどほどにするよう気を付けている)、特にネット上の論戦なんかを見ているとこの手の「狂人」であふれかえっている。姿が見えないと余計にエスカレートしやすいのかもしれない(どんなに相手を怒らせてもぶん殴られる心配がないからね)。

さっきの例でいうと「安倍辞めろ!」の人は「安倍さん万歳!」の人たちと同じく狂人だ。自己の正しさについて疑いを持っていたらそんな発言にはならないだろう。

かくいうぼく自身も、正しさを振りまわす「狂人」になってしまうことがある。
自省しないとね。



すごく新しいことや過激なことを書いているわけではないが、いやだからこそ、染み入る内容だった。あたりまえのことを丁寧に言うだけでいいんだよ。こういうのを読みたいんだ(刺激的な文章も読みたいけど)。
著者が選挙に出馬したらぼくはまちがいなく票を入れるね。

特に一章『保守と立憲』、二章『死者の立憲主義』、三章の枝野幸男氏との対談『リベラルな現実主義』はおもしろかったな。

中盤以降はいろんな雑誌にいろんなテーマで書いた短文の寄せ集めなので、一冊の本として読むとぜんぜんまとまりがない。
後半は……個人的にはいらなかったな。

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