「自分はよくわかっている」時代になった。
昔は情報に触れるにはそれなりのコストを要した。
選択的にある分野の知識を入手しようと思うと、ほとんど本を買うか新聞を購読するかしかなかった。テレビやラジオでは、与えられる情報を受け取ることしかできなかった。
「本も新聞も読まない」ということは「身のまわりのこととテレビやラジオから得られる情報しか身につけていない」のとほぼ同じだった。
ひるがえって現代、インターネットのおかげで、どんな分野の知識でも浅い範囲であれば(場合によっては深い範囲まで)ほとんどゼロに近いコストで入手できるようになった。
すばらしいことだ。
だが、それによってぼくらは「よくわかった気になる」ことがすごく上手になった。
三権分立の仕組みすら知らないような人でも政治の情報にかんたんにアクセスできる。誰かの書いたことをそのまま口にすれば、ひとかどの人物っぽく見える。
素人に毛が生えたぐらいの人が(毛も生えてない人も多い)、「世界の真実風の情報」を誰にでもわかる言葉で提示してくれている。
昔だってトンデモ本の類はあったが、「わざわざ金を出して本を買って活字の本を読む」ことをできる程度の教養と知的好奇心のある人しか読まなかったから、デマに引っかかる人はそう多くなかった。
でも、タダでかんたんに拡散できるようになった今、デマは「デマに引っかかりやすい人」のところにかんたんに届くようになった。
「将棋のプロ棋士ふたりと対戦して、少なくとも一勝する方法」がある。
Aとは先手指し、Bとは後手指しで対局する。Bが差した手を、そのままAに指す。次にAが打った手を今度はBに指す……ということをくりかえしていけば、一勝一敗になるはずだ(もしくは両方引き分けになるか)。
AとBが対局しているのと同じだからだ。
インターネットでは、これと同じようなことをやっている人がいる。A氏に対してB氏の意見をぶつける。C氏がしていた批判をD氏にする。
とてもお手軽に、賢くなった気になれる。
これをずっとやっていれば、たぶん「他人の意見をそのまま言っている」意識すらなくなるだろう。自分が考えた意見だと信じこむようになる。
まともに議論をすればすぐにボロは出るが、インターネット上の議論には「自分の言いたいことだけ言いやすい」「どんなめちゃくちゃな意見でも支持してくれる人が世の中には一定数いる」「形勢不利になったら逃げやすい」という特徴があるので、ボロが出にくい。というかボロが出ていることに自分では気づきにくい。
ぼくは大学生のとき、ゼミがすごく嫌だった。
ぼくは田舎の市内でいちばんの進学校に通っていて、そこでずっとトップの成績だった。相当天狗になっていて「自分は頭がいい」と思っていた。
大学に入ってゼミに出て、自分よりずっと頭が良くて、ずっとたくさんのことを知っていて、ずっと理路整然に議論を戦わす人たちを見て、すっかり自信を失った。ここに参加していくのが怖い、と思った。否定される、ばかにされる、笑われる、訂正される、論理の粗を突かれる。怖くてたまらなかった。
じっさい学部レベルのゼミなんて大した議論はしていないし、少々稚拙な意見を述べたところで厳しく突っ込んでくる人もそんなにいなかったのだが、それでも教授や院生とも対等に議論をしないといけないのが怖かった。自分の無知、不勉強、浅薄さを理解できる程度にはぼくは頭がいいつもりだったから。
やがてゼミの空気にも慣れてところどころ議論に参加できるようになったが、それでも「いつか衆人環視の中で叩きのめされるんじゃないか」という緊張感はずっとあった。
その経験に比べれば、インターネット上での議論なんて楽すぎる(あんまり参加しないようにしてるけど)。
何の準備もいらない。わからなければ黙っていればいい。突然意見を求められることもない。いいことを言った人の意見に乗っかっていればいい。形勢不利だと思ったらブラウザのタブを閉じればいい。
議論に勝った気になることはあっても負けることはない。負ける前に逃げだせるから。
ふと気づくと、「ぼくはものを知らないなあ」と思うことが少なくなった。
ぼくが歳をとったせいもあるだろうし、じっさいに昔より知識が増えたこともちょっとはあるんだろうけど、それ以上に「知識で叩きのめされる」ことがほとんどなくなったせいもあるのだろう。
自分がバカだと自覚しにく世の中になっちまったな。
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