死ぬまでに行きたい海
岸本 佐知子
〝鬼〟がつくほどの出不精を自称する著者が、かねてより行きたかった場所に行ってみた体験をつづったエッセイ。
といってもそこはさすが岸本さん、有名観光地や名刹古刹でもなければ、おもしろスポットでもない。「過去に働いていた会社があった街」だったり「かつて住んでいたけど嫌な思い出ばかりの土地」だったりで、岸本さん本人以外にとってはかなりどうでもいい場所だ。
必然的に岸本さんが過ごした東京近郊が多く、この本に載っている目的地のうち、関西で生まれ育ったぼくが行ったことがあるのは丹波篠山だけだ。
でも、行ったことのない土地の話ばかりなのに、このエッセイを読んでいてなんだか妙になつかしさを感じた。それは「岸本さんにとっての印象的な土地」のようなものがぼくにもあるからだ。忘れていた記憶を刺激してくれる文章。
たとえばこの本で紹介されている「YRP野比駅」。京浜急行の駅だ。
岸本さんは、この駅のことをまったくといっていいほど知らない。過去に行ったこともない。けれど気になる。なぜなら、変わった駅名だからだ。
その独特の名前からあれこれ妄想をくりひろげる岸本さん。そしてついにその駅に降りたつ。「変な名前の駅の周辺には変な世界が広がっているのではないか」という妄想を確かめるため。
ぼくにとってのYRP野比駅は、〝京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅〟だ。
この駅はずいぶん数奇な運命をたどっており、2006年に「ポートアイランド南駅」として誕生して以来、
「ポートアイランド南」
→「ポートアイランド南 花鳥園前」
→「京コンピュータ前」
→「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国」
→「計算科学センター 神戸どうぶつ王国・「富岳」前」
と、めまぐるしく駅名を変更されている。たった15年で5回も新しい名前をつけられた駅はそうあるまい。
ぼくが行ったのは、「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」時代だった。仕事で近くに行く用事があり、ついでに寄ってみたのだ。なぜなら変な名前だったから。
京コンピュータという未来っぽさと、神戸どうぶつ王国というレトロ感。そのアンバランスさがなんとも興味をそそった。マザーコンピュータが動物たちを操縦して人間たちに叛逆を企てる王国を建国、それが「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」。そんな想像もふくらんだ。
だが行ってみると「京コンピュータ前 神戸どうぶつ王国駅」には、駅前に閑散とした小さい動植物園がある以外は何にもない駅だった。大きなオフィスや研究施設が点在していて、通りには誰も歩いていない。住宅もなければ飲食店もない。コンビニすらない。そのあまりに無機質な感じが未来っぽくて最初はおもしろかったのだが、二分も歩くとすぐに飽きてしまった。だって何もないんだもの。
こういうのは、じっさいに行ってみるんじゃなくて、心の中で「いつか行ってみたい」とおもうぐらいが楽しいのかもしれない。
ぼくが気になる地名は、奈良県の「京終(きょうばて)」と滋賀県の「朽木村(くつきむら)」と和歌山県の「すさみ町」だ。どれも行ったことがないが、終末感が漂っていて味わい深い。
京が終わると書いて京終。平城京のはずれにあったからだそうだ。しかし「終」が含まれる地名は全国でも相当めずらしいんじゃないだろうか。世界の終わりみたいな感じがする。
朽木村のほうは平成の大合併により今は存在しない。昔、バス停で「朽木村行き」という案内を見つけ、就活で疲れていたこともあり、おもわず飛び乗ってしまいそうになった。金田一耕助の事件の舞台になりそうな名前だ、朽木村。あのときバスに飛び乗っていたら殺人事件に巻きこまれて帰らぬ人となっていたかもしれない。
すさみ町もネーミングがいい。てっきり「人々の生活が荒(すさ)んでいるからすさみ町」かとおもったら、そうではなく(あたりまえか)由来は周参見という地名らしい。だったら漢字のままでいいのに、なぜわざわざひらがなにしてしまうのか。さらにすさみ町には「ソビエト」と呼ばれる小島がある。地元の人が「ソビエト」と呼んでいるそうだが、なぜそう呼ばれるようになったかは不明らしく、なんとも気になる存在だ。誰か、すさみ町のソビエトの由来を解き明かすSF小説を書いてくれ。
特に共感したのは「世田谷代田」の章だ。
ぼくにとっての世田谷代田は、阪急中津駅だ。
阪急ユーザーならわかるだろう。中津は昔から不遇をかこっている。
じっさいのところは中津駅の乗降客数はそこそこいる。決して多いとは言えないが、中津よりも利用されない駅はたくさんある。
じゃあなんで中津が不憫なのかというと、梅田と十三という大きな駅の間に挟まれていて、「通る電車の数はものすごく多いのに止まる電車は少ない」という状況にあるからだ。
なにしろ、中津駅は特急や急行が止まらないのはもちろんのこと、なんと普通電車の一部も止まらないのだ。梅田と十三の間には宝塚線・神戸線・京都線という三つの路線が走っているが、京都線は中津駅を通るのに決して止まらない。すべて素通りだ。こんなひどいことがあるだろうか。
なぜ普通電車すら中津駅に止まらないかというと、止まる場所がないからだ。中津駅はめちゃくちゃ狭い。だからこれ以上電車が止まれないのだ。
中津駅のホーム Wikipedia「中津駅」より |
どう、このホームの狭さ。ホームでは「白線の内側にお下がりください」というアナウンスが流れるが、中津駅では白線の内側に一人やっと立てるぐらいのスペースしかない。車いすやベビーカーの人なんかは、白線の内側に下がったまますれちがうのは不可能だろう。
だから、阪急沿線に住んでいるほとんどの人にとっては、中津駅は「素通りするためだけにある駅」なのだ。不憫であり、不憫であるがゆえにちょっぴり愛おしい。
ぼくは一度だけ近くの病院に行くために中津駅を利用したことがあって「ついにあの中津駅に降りたっている……!」とふしぎな感動をおぼえたことを記憶している。
ふつうは紀行文というと見知らぬ土地をテーマにするのだろうが『死ぬまでに行きたい海』で訪れる土地は、岸本さんの見知った土地が多い。
ぼくも出不精なので、この気持ちはわかる。見ず知らずの土地に行くよりも、どっちかというとなつかしい場所に行きたい。
そういや唐突におもいだしたんだけど、高校のときに好きだった女の子と話していて、ふたりとも生まれた場所が同じだということを知った。三つほど隣の市だ。ぼくは半ば強引に「生まれた場所を見にいこう!」と彼女を誘った。これがぼくの初デートだ。
もっとも、そこで五歳まで育ったぼくのほうはかすかに覚えている場所もあったけど、二歳までしか住んでいなかった彼女のほうはまったく記憶がないらしく(あたりまえだ)、退屈そうにしていた。
言うまでもないが、二度目のデートはなかった。
岸本さんの過去エッセイの、いつのまにか異次元に連れていかれる文章とはちょっとちがって現実よりだが、それでもどこか浮世離れした語り口は健在。
名文だなあ、これ。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿