2023年3月9日木曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

このエントリーをはてなブックマークに追加

 歴史人口学の世界

速水 融

内容(e-honより)
近代的な「国勢調査」以前の社会において、その基層をなす人びと、家族といった身近な存在から人口を推計し、社会全体の動態を分析する「歴史人口学」。現代世界が抱える最大課題である人口問題(少子化・高齢化から人口爆発まで)にも重要な示唆を与える。その先駆的第一人者が平易に語り下ろした入門的概説書の決定版。


 あまりなじみのない「歴史人口学」なる学問の日本における第一人者による、歴史人口学入門書。

 人口、世帯、出産、死亡、転入転出などの時代ごとの変遷を追う学問だそうだ。

 今の日本は、人口に関する問題に直面している。人口減、少子化、高齢化、働き手の不足、都市への人口集中、社会福祉費の増大。そんな問題解決への糸口に、ひょっとしたら歴史人口学がなってくれるかもしれない。




 江戸時代の中期以降はほとんど人口が増えなかった、という話を聞いたことがある。江戸時代は人口の面では停滞期にあった、というのが一般的な認識だが、細かく見るとそんなことはないそうだ。

 たしかに十八世紀の日本の人口は大きな増減はない。だがそれはあくまで日本全体の話であって、地域ごとに見るとダイナミックな変化が見えてくる。

 なんとなく「江戸時代、町人はいい暮らしをしていて、農村は貧しさにあえいでいたのだろう」とおもっていたが、実態はむしろ逆で、都市部のほうが死亡率が高かったのだそうだ。農村は乳幼児と老人は死ぬが、若い人はそんなに死んでいない。都市のほうがばたばた死ぬ。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』にも書いてあったが、人口密度が高まると伝染病の流行率がぐっとはねあがるのだ。江戸時代の都市は住環境も悪かっただろうし。


 それでも、地方の若者(次男坊、三男坊)は都市(江戸、京都、大坂)に出てくる。だって田畑がないもの。都市は若者が増える。だが都市の死亡率は高く、結婚・出産の数も地方より少ない。都市は死亡が多くて誕生が少ないので自然人口減になるが、地方からの流入によって人口が保たれる。地方は出産数が多いが若者が都市に流出するのでこちらも大きな人口の増減はない。

 現代日本と同じことが江戸時代から起こっていたのだ。今も昔も、都市は出産・育児をするのに適した場所ではなかったわけだ。

 細かいミクロの史料の検討のところで、実際の数字を出して説明しますが、歴史人口学では、すでに都市墓場説とか、都市蟻地獄説と呼ばれる考え方が唱えられています。都市墓場説というのは、ヨーロッパの都市の人口史研究をしている人たちが言い出したことであり、蟻地獄説というのはじつは私の造語です。期せずして同じことを発見したのです。つまり都市というのはたくさん農村から人を引きつける。そして高い死亡率で多くの人を殺してしまうのです。
 そうすると、江戸時代の都市では、人間いつ死んでもおかしくなかったことになります。農村のように、齢をとったから死ぬ、というわけではなくて、いつでも死ぬのです。江戸時代の文化はよく都市の文化、町人の文化だといわれます。その都市に住んでいる人たちは、いつ死ぬかもわからないという状況で生活していたのです。その人たちが持っている人生観とか死生観は、農村住民の場合と違っていたのではないだろうかという疑問が湧いてきます。これは、今後解明していかなければならない問題ですが、こういうように死亡のパターンに非常にちがいがあるということは、今までよくわからなかったことなのです。これもやはり宗門改帳を使った研究の成果の一つといえるでしょう。

 なんとなく、江戸時代の農村で生まれたら、家と田畑を継いで、死ぬまでずっとその村の中で生きていくのかとおもっていた。

 でもそんなのは長男だけ(そして江戸時代はきょうだいが多いので長男が今よりずっと少なかった)。若者の三分の一ぐらいが村の外に出ていた、というケースもあったようだ。奉公、出稼ぎ、身売りなどで男女問わずけっこう他の村や都市へ移動していたようだ。

 また、都会に働きに出た経験のある女ほど結婚・出産の年齢が遅く、生涯に産む子どもの数が少なかったそうだ。このへんも今とおんなじ。

「地方には若者が就く仕事がないから都会に出る」「都会に出てきた若者は結婚が遅く、子どもも作らない傾向にある」ってのはここ数十年の話ではなく、数百年間にわたってずっとくりかえされてきたことなのだ。

 今も昔も、都市の生活は多くの人々の犠牲の上に成り立っている。




 現代の日本においては、世代や個人による人生観の差はあれど、地域による差はさほどないんじゃないかとおもっている。北海道から沖縄まで同じ教科書で学び、同じものを読み、同じテレビ番組や同じウェブサイトを見ているから、大きな差は生まれにくそうだ。

 でも江戸時代は、地域によって考え方がぜんぜんちがったのではないかと著者は書く。


 この小さい島国に、社会の基本となる家族の規範について、なぜこのような違いがあるのでしょうか。筆者は、これは日本に住むようになった人びとが持ってきた慣習と関係があるのではないか、と思っています。日本列島には、北から下りてきた人たち、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人たち、南から島伝いに来た人たち、と大別して三つの移住の波があったように言われています。日本人は、よく一民族一言語、といって、その同一性が強調されるのですが、決して一色ではないのです。比較的早い時代に、政治的には統一され、構成民族間の闘争こそありませんでしたが、構成民族のもとをただせば、多種多様で、むしろよく統一が保たれたものだ、とさえ思われます。
 その中で、北からやって来た人びとは、基本的には狩猟民で、縄文文化の担い手だったと思われます。狩猟民は、生計を採取によりますから、非常に密度依存的です。ある規模以上に人口を増やさないようにする力が働くのです。このことが慣習となって、持っている生活規範の中にビルトインされていたのではないでしょうか。そして、弥生文化の担い手である第二の渡来民が、農耕をもたらし、次第に第一の集団を本州の東北部に追いつめます。そこに定住するようになった元狩猟民たちは、農耕を始めますが、過酷な自然環境も手伝い、ビルトインされた価値観を変えませんでした。それが、東北日本の早婚と出生制限の存在という、矛盾した規範を両立させる理由となった、というのが筆者の解釈です。
 これに対して、中央日本には、農耕民が渡来し、弥生文化そして古代律令制国家を造り上げました。相対的に高い生産性に裏打ちされて、この古代国家は、比較的短期間のうちに日本の国家統一を果たします。この農耕社会では、耕地を広げたり、工夫をして土地の生産性を上げることができれば、扶養可能な人口は増やせますから、東北日本のように、人口制限を価値観のなかにビルトインさせる必要はなかったのです。もちろん、だからといって、中央日本で、無制限的に人口が増えたわけではありませんが、この地に住む人びとにとって、人口規模は、東北日本に住む人びとのように、ある範囲に抑えなければならない性質のものではなかった、というのが筆者の見解です。

 東北では早く結婚・出産をおこない、けれどひとり当たりの出産数は少ない傾向にあった。逆に西日本では晩婚の傾向があり、東北ほど産児制限をしている様子はなかった。そして南から来た人は家族規範から自由で、人口制限もさらに少なかった。そんな傾向が江戸時代の資料から読みとれるそうだ。

 まだ「日本人」という意識もなかった時代。今の日本人がおもうよりずっと、当時の日本人は地方によって異なる生活をしていたんだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】河合 雅司『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿