2025年10月7日火曜日

【読書感想文】片野 ゆか『ゼロ! 熊本市動物愛護センター10年の闘い』 / 人間のすばらしい部分とクズな部分

ゼロ!

熊本市動物愛護センター10年の闘い

片野 ゆか

内容(e-honより)
飼い主に見捨てられ、行き場をなくした犬や猫が、保健所で悲惨な死をむかえる―。ペットブームにひそむ現状を「しかたがない」で終わらせず、「殺処分ゼロ」を目標に立ち上がった熊本市動物愛護センター。無責任な飼い主に対する職員たちの奮闘が始まった。決して夢物語ではないことを十年がかりで証明した、彼ら独自の取り組みとは?“闘う公務員”たちを追う、リアルストーリー。

 熊本市動物管理センター(後に熊本市動物愛護センターに名称変更)が動物の殺処分ゼロを目指して取り組んだ活動を記載したルポ。

 同センターでは、2000年には1002頭の犬を保護・引き取りし、そのうち693頭が殺処分されていた。2009年には保護・引き取りが453頭、殺処分は1頭。「殺処分ゼロ」でこそないが、以前の数字と比べれば飛躍的な成果だ。

 そこには、職員、ボランティア、協力団体による絶え間ない努力があった。




 保健所では保護犬や保護猫を殺処分するわけだが、当然ながら職員だって殺したくて殺しているわけではない。それが職務だから、そして処分しないといけない理由があるからこそやむなく処分している。

 そんなあたりまえのことすら想像ができない人がいる。

「所長、お電話が入っとるのですが」
 職員のひとりがデスク越しに声をかけてきた。市民からの問い合わせで、どうしても所長に話したいことがあるという。淵邉が電話をひきついだとたん、ヒステリックな声が耳をつらぬいた。 「殺処分を今すぐやめなさい!」
 声の主は名乗ることもなく怒鳴り続けた。
 あまりの剣幕に口を挟む暇もない。淵邉は受話器を握りながら、センターの仕事のほとんどは苦情処理だと、異動前に耳にしたことを思い出した。気持ちを落ち着けて応対を試みるものの、何が苦情の原因になっているのか、いっこうに見えてこない。相手は「今すぐやめろ」を連呼するばかりだった。
 それでも役所としては、何かしら説明をしなければならない。行政でやっていることは法律で定められていることで、そしてこの施設が抱える現状をあわせて説明した。だがそれはかえって火に油を注ぐ結果になってしまった。 「努力が足りんのよ。ドイツは絶対に動物を殺さんの知っとっと? 行政はもう少し勉強したらよか!」
 相手はしゃべればしゃべるほどヒートアップした。日本の動物愛護のお粗末さには我慢がならない。もっと欧米を見習え。話はいつのまにか熊本市のことだけではおさまらなくなっていた。
 殺処分をやめろと言われて、「はい、わかりました」と返事ができればどんなにいいか。そう思いながら淵邉は、相手が話し疲れるまで三十分以上も受話器を手ばなすことができないのだった。
 こうした電話は多いのだろうか。とりついだ職員に訊ねると、声の主は県内で動物愛護団体を主宰する女性で、数か月ごとに電話をかけてくる常連だという。ほかにも名乗らないが、あきらかにリピーターと思われる者が数名いるようだ。やれやれ、こんな電話がこれからも度々あるのか。そう考えると淵邉は、もはやため息しか出てこなかった。

 ただでさえ精神的負担の大きい仕事なのに、こんなアホの相手もしなくちゃならないなんて大変だ……。

 人里に下りてきたクマを銃殺した役所に文句を言う連中と同程度のアホだ。自分で全野良犬とクマを飼えばいいのに。

 こういう犬以下の知能の市民がひとりふたりではなく、野良犬を保護していると「犬殺し」などという言葉をぶつけられることも少なくないという。

 こんなクレームの相手をすればするほど、職員が犬や猫のために使える時間が減ることがわからないのだろうか。わからないんだろうな。




 殺処分ゼロを目指し、職員や協力団体の人たちはあらゆる手を尽くす。

 譲渡会の開催、不妊手術の実施、市民への啓蒙活動、飼育環境の整備(保護している動物が健康できれいになるほど引き取られる率も高まる)。

 そして、安易に引き取りを求めてくる市民に対する説得。これは骨が折れるだろうなあ……。なにしろ「もう飼えなくなったから保健所で引き取ってくれ」って言ってくるやつなんだもん。そんな人間に比べたら、犬や猫のほうがずっと意思疎通ができるとおもうわ。


 ぼくの実家でも犬を飼っていた。一匹は野良犬だったのを保護。もう一匹は動物保護団体からもらってきたものだ。もちろん毎日散歩に連れていき、遊んでやり、毎年予防接種をし、具合が悪ければ病院にも連れていき、最期は歩けなくなっても家族みんなで世話をした。

 そういう家で育ったから「もう飼えないから引き取ってほしい」と保健所にペットを連れていく神経が理解できない。家族内の大人が全員突然死した、ぐらいの事情でもないかぎりは「もう飼えない」なんてことにはならないだろうとおもう。転勤とかで連れていけないような人は飼っちゃいけない。

 もっといえばペットショップで犬を買うやつは動物好きじゃないとおもっている。動物が好きなら保健所の犬猫がゼロになってから買えよ。「他の動物が殺されてもいいから見た目がいいやつを買いたい」という意思があるんならべつにいいけど。

 ほんとにもう飼えないとおもうのならせめて自分で殺せよな。その覚悟もないやつの「もう飼えない」なんて嘘だろ。


 失礼を承知で言うけど、ぼくは保健所では働きたくない。誰かがやらなくちゃいけない仕事だということはわかってる上で言うけど。すごく身勝手だけど。

 もちろん犬や猫を殺処分するのもイヤだが、それ以上に嫌なのが「アホのしりぬぐいをする仕事」だということだ。最期まで面倒を見る覚悟も想像力もないようなアホのしりぬぐいを押しつけられる仕事だとおもうと、とてもがんばる気にならない。やればやるほどアホがよりアホになるだけじゃないか、とおもってしまう。




 自分がぜったいにやりたくないとおもう仕事だからこそ、そこに従事していて、かつ状況を改善している人たちをすごいとおもう。

 こんなこと言うとあれだけど、愛護センターの職員は公務員なんだから、殺処分件数を減らしたところで給与がすごく増えるわけじゃないとおもうんだよね。だったら前例を踏襲して任期をまっとうすればいいか、って考えるのが多数派だとおもう。そりゃあ殺処分を減らせるなら減らしたいけど、そのために(給与すえおきで)自分の負担が増えてもいいかって言われると、うーん、二の足を踏んでしまう。

 それでも熊本市動物愛護センターの職員やその協力者たちは、負担が増えることもわかった上で、殺処分を減らすために改革をおこなう険しい道を選んだ。すごいなあ。


 高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』を読んだときにもおもったんだけど、地方自治体の職員って「とにかく前例踏襲主義で与えられた仕事をやる」ってイメージだけど(実際そういう人も多いけど)、行動力のある人にとってはかなり自由に改革をおこなうことのできる仕事なんだろう。もちろん公務員といってもいろんな種類があるわけだけど。

「さほど採算を気にしなくていい」という公務員の特権を、私腹を肥やすことに使う政治家や公務員もいれば、世のため人のために使う人もいる。




 さて、職員やボランティアのたゆまぬ努力によって殺処分を減らした熊本市だったが、2009年を境にまた殺処分が増加に転じる。

 その理由がなんともやるせない。

 新年度になってから、不自然な捨て犬や捨て猫が増えていた。この道路を挟んでこちら側は熊本市、反対側の緑地帯は隣接市の管轄だ。確信は持てないが、捨てた人間の作意が感じられた。
 熊本市内で遺棄された動物が見つかれば、かならずこの動物愛護センターに保護される。ここなら殺処分される心配はないし、さらに新しい飼い主を見つけてもらうこともできる。つまり飼い主としては罪の意識に苦しむこともないし、自分の手をわずらわせることもなく面倒事から解放される。職員にとって腹立たしいのは、そんな飼い主の意図が透けて見えることだった。無責任な人間は、どこまでも無責任なのだ。
 どんな業界も有名になるほどメリットとデメリットが生じるが、それは動物愛護の世界も例外ではない。
 日本には団体やグループ、個人で、動物愛護活動を続ける多くの人がいる。インターネットを通じて保護や譲渡情報の発信、活動報告をおこなっていて、地道な活動を長く続けるうちに名前が知られるようになり、多くの賛同者を集めるケースも多い。しかし、いずれも簡単に所在地がわからないよう注意を払っている。活動場所が広く知られると、心ない飼い主の格好のターゲットになってしまうからだ。

 愛護センターなどの取り組みが広く知られるようになったことは、活動の協力者や引き取りたいという人を増やす一方、「熊本市になら捨ててもなんとかしてくれる」と考える心ない人間をも生むこととなる。

 うーん……。クズってやつはとことんクズだなあ……。殺処分の多い市ではなく殺処分の少ない市に犬猫を捨てることで、良心の呵責から逃れようとするなんて。捨てるなら捨てるで、「自分は犬猫の命を捨てたひどい人間だ」という意識を背負って生きろよな!


 いいルポルタージュだったが、人間のすばらしい部分と人間のどうしようもないクズさの両方を存分に見せつけられて、その両極端の間でなんだか船酔いしたような気分になってしまった。


【関連記事】

驚異の行動力をもった公務員/高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』【読書感想】

【読書感想文】村田 らむ『人怖 人の狂気に潜む本当の恐怖』



 その他の読書感想文はこちら


2025年10月3日金曜日

【読書感想文】荻原 浩『神様からひと言』 / すべてがほどよい

神様からひと言

荻原 浩

内容(e-honより)
大手広告代理店を辞め、「珠川食品」に再就職した佐倉凉平。入社早々、販売会議でトラブルを起こし、リストラ要員収容所と恐れられる「お客様相談室」へ異動となった。クレーム処理に奔走する凉平。実は、プライベートでも半年前に女に逃げられていた。ハードな日々を生きる彼の奮闘を、神様は見てくれているやいなや…。サラリーマンに元気をくれる傑作長編小説。

 2002年刊行。

 社内政治に明け暮れる会社のやり方になじめずトラブルを起こしたことがきっかけで閑職にまわされた主人公。そこは社内の問題児だらけのひどい部署だったが、徐々に仕事のおもしろさを感じられるようになり、仕事に励んでいたら周囲からも認められるようになり、最後は不正をしていたやつらを成敗してめでたしめでたし……とサラリーマン小説のお手本のようなお話。

 正直、似たような話を何度も読んだことがある。古くは源氏鶏太(昭和のサラリーマン小説の第一人者)から連綿と続く王道パターンだ。

 最近は女性作家、女性主人公が多いよね。この手の“ザ・お仕事小説”。ほどほどに業界知識も散りばめられていて、適度なユーモアがあって、それなりの爽快感もあって、すべてが“ほどよい”。

 豚の生姜焼き定食みたいなもの。どこで食べてもいつ食べてもそこそこおいしい。安心感がある。


 ただやっぱり感覚が古いというか、いや20年以上前の小説を今読んで古いというのもおかしいんだけど、でも今の感覚で読むと「会社に属しすぎ」とおもってしまう。嫌な職場なら辞めればいいじゃん、とおもっちゃうんだよねえ。当時の会社員の大半は「会社を辞めてはいけない」がまず前提にあって、そこから考えてるんだよなあ。




 ぼくも大人なので、納得いかないとおもいながら謝罪をしたことも幾度かあるけど、何度やっても慣れない。ついつい顔に出ちゃうんだよね、「なんで俺が」感が。

 そこで謝罪のプロのセリフ。

「まぁ、そうだな、他人がやったことで自分には無関係なんて顔で謝ると反感を買うし。といって全部自分の責任って顔するのもしらじらしいし。先方と一緒になって悪口を言ったりするのはもってのほか。身内をかばうのも禁物。適度な距離感が大切だな。そう、俺はね、こうしてるのよ」
 篠崎はひとさし指を突き立て、それをひたいに押し当てた。
「誰かを頭の中で思い浮かべるといいんだ。代わりに謝らなくちゃしょうがない人間。腹は立つけど自分が謝ってやらなくちゃならない人間。そういうやつが何かやらかした時のことを想像して、代わりにドロをかぶるつもりになってみる。たとえそれがどろどろの泥でもさ。たとえば自分の親父が酔って物を壊した店に謝りに行くとか、喧嘩して怪我させた相手に詫びを入れるとか、借金こさえて雲隠れしてるのを取り立て屋にいい訳するとか。謝罪の言葉のあとに、心の中だけでそういう人間の名前をつけくわえると、案外、すんなり謝れるんだよ。本当にすいません――うちの馬鹿親父が――てな感じでさ」
 ずいぶんリアルな譬え話だった。

 なるほどね。ぼくだったら自分の子どもかな。子どもがよその人に迷惑をかけたとおもえば、自分が悪くなくてもすんなり謝れる。これは使えるテクニックかもしれない。

 ただ問題は、自分が部下の代わりに頭下げるような状況ならともかく、上司の代わりに謝らなくちゃいけないような場面で「子どもの代わりに謝ってるんだ」とおもえるかってことだよな……。


【関連記事】

【読書感想文】荻原 浩『海の見える理髪店』 / めちゃくちゃうまい人のビリヤードみたい

【読書感想文】津村 記久子『この世にたやすい仕事はない』 / やりがいがあってもなくてもイヤだ



 その他の読書感想文はこちら


令和に読むアラレちゃん

 小学6年生の長女が1年生の次女に「誕生日何がほしい?」と訊いた。次女は少し考えてから「『アラレちゃん』のマンガ」と答えた。

 なんでアラレちゃん知ってるの? と訊くと、学童保育に1冊だけ単行本があるのだという。

 なるほど。『アラレちゃん』はぼくも子どもの頃にテレビアニメの再放送を観ていた。低学年でも楽しめそうなギャグマンガだ。


 数日後、長女が本屋に『アラレちゃん』を買いに行った。

「買えた?」

「ううん、なかった」

「えっ、○○書店でしょ? あそこは漫画がかなり充実してるけどなあ。店員さんに訊いてみた?」

「店員さんには訊いてないけど、検索機があったから調べてみた。でもヒットしなかった」

「そうかー。前に行ったときにあったような気がしたけどな」


 その翌週。ぼくと長女がその書店に行ったときに探してみると、『ドラゴンボール』の隣にちゃんと『アラレちゃん』が全巻置いてある。

 なんだ置いてあるじゃないか、検索にヒットしなかったとか言ってたのに。

 だがすぐに長女が『アラレちゃん』を見つけられなかった理由がわかった。


 そうだった。『アラレちゃん』のタイトルは『アラレちゃん』じゃなかった! 『Dr.スランプ』だった。テレビアニメ版では『Dr.スランプ アラレちゃん』だが、漫画版のタイトルは『Dr.スランプ』だけだ。

 そりゃあ検索で引っかからないわけだ。これはむずかしい。入手難度G(グリードアイランドと同等)レベルだ。


 というわけで、長女は無事に『Dr.スランプ』を買うことができ、次女にプレゼントした。1巻から5巻まで。

 次女はむさぼるように読んで、2日で5巻を読んでしまった。おもしろかったらしく、さっそく「んちゃ!」などと言っている。


 ぼくも読んでみた。

 なるほど、これは子どもにとってはおもしろいだろうな。

 奥付を見ると1巻が刊行されたのは1980年だった。今から45年前。でもぜんぜん古くない(今では通用しなくなったネタも多いが)。絵が古びていないし、デフォルメがうまいので読みやすい。テンポもいい。今のギャグマンガよりもテンポがいいぐらいだ。

 残念なのはフォント。すべてのセリフが細めのフォントで書かれている。ボケセリフとか強めのツッコミとかも全部細めのフォント。なんかすごく白々しい。今のマンガだったら太字にしたり手書きにしたりするところだ。フォントって大事なんだなあ。

 あと驚いたのは、ほとんどルビがないこと。ふりがながふってあるのは、中学以上で習うであろう漢字ぐらい。

 ということは小学高学年ぐらいが想定読者だったのだろうか。でも内容的にはウンコとかパンツとかそんなレベルだしなあ。

 でも1年生の次女もふつうに読んでいる。たぶん読めない漢字もいっぱいあるだろうけど、だいたいで読んでいる。そういえばぼくも子どもの頃、習っていない漢字を読めることで大人から驚かれた。あれもマンガから得られたものだった。

 漢字は表意文字だが表音文字の要素も持つ(たとえば「鉱」という字を知らなくても「広」を「コウ」と読むことを知っていれば「コウ」と読める)ので、初歩的な知識があればそこそこ読めてしまうのだ。読めなくても文脈から推測してだいたいの意味を察することはできる。小説だと文章しか手掛かりがないがマンガだと前後の文章+絵がヒントになっているのでより読解しやすい。ダイナマイトを手にしている絵の横で「やめろー爆発するぞー」と書いてあれば、「爆発」の漢字を知らなくても「ばくはつ」にたどりつくのは難しくない。

 最近の子ども向けマンガはほぼすべての漢字にルビが振ってあるが、もうちょっとルビが少ないほうが勉強になっていいのかもしれないな。


『Dr.スランプ』を読んでいちばんおもしろかったのが、本編ではなく、間に挟まれていたおまけマンガ。

 鳥山明氏がどんな感じで仕事をしていたのかが描かれているのだが、愛知県の実家に住んでいたため

「まずラフ原稿を描き、コピーを取って空港に行く。航空便でコピーを編集部に郵送。するとその夜編集者(あの有名なマシリト氏)から電話がかかってきて、修正の指示がある。それを踏まえて修正し、アシスタントに手伝ってもらってペン入れをし、再び空港に行って航空便で送る」

というやり方をとっていたそうだ。

 そうかー。メールはおろかFAXもなかった時代、遠方の人に急いで絵を見てもらおうとおもったら空港に行かないといけなかったのか……。これを毎週やっていたなんてたいへんだ。


 しかしこのやり方だと、修正は一回しかできないだろう。それ以上だと週刊誌連載には間に合わない。たった一回の修正(それも電話での指示)だけであの完成度の高い漫画を毎週仕上げていたのがすごい。

 とはいえ漫画家の立場だったら何度も修正を命じられるよりも、一回だけの修正と決まってるほうがやりやすいかもしれない。あらゆることに言えるけど、チェックが増えるとミスは増える。

 修正が少ないと自由に描けるし。極端なことをいえば、編集部からの修正の指示をまったく無視して原稿を完成させたとしても、よほどのことがない限り編集部としてはその原稿を掲載するしかなかっただろう。

『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』のあのいきあたりばったりなおもしろさ(読者には先の展開が読めない。なぜなら作者にもわかっていないから)は、鳥山明氏が愛知県に住んでいたからこそ生まれたものなのかもしれない。