2018年5月28日月曜日

アメリカの病、日本の病

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今年の2月、アメリカ・フロリダ州のハイスクールで銃乱射事件があった。多くの生徒が犠牲になった痛ましい事件だが、申し訳ないがニュースを目にしたぼくの感想は「またか」だった。それよりさっき床に落としてしまった食パンのほうが悲しい。
正直いって、アメリカじゃあよくあることだよね、ぐらいにしか思えない。アメリカ名物銃乱射事件。

アメリカでは年間一万五千人以上が銃によって殺されているそうだ。事故死、死に至らない怪我など含めればずっと多くの死傷者が出ていることになる。
アメリカでは精神疾患患者でも銃を購入できる。十八歳でもライフルを買える(拳銃は買えない)。
銃は「アメリカの病」と言われている。

「銃の所持を規制すればいいのに」と思う。大半の日本人はそうだろう。日本にはいろん考えの人がいるが、「日本もアメリカ並みの銃社会になればいいのに」と主張する人は男子中学生を除けばほとんどいない。男も女も年寄りも若者も右翼も左翼も、銃社会なんてろくなもんじゃないと知っているのだ。
そんな誰でも知っている「ろくなもんじゃない銃社会」を、アメリカは維持しつづけている。

なぜこんな愚策をとりつづけているのか、ふしぎで仕方がない。
小さな島の民族が銃を携帯していても「ふーん、まあ世の中にはいろんな村があるからね」としか思わないが、愚策をとっているのは軍事力、経済力、科学力どれをとっても世界ナンバーワンの大国USAだ。そこが解せない。
四流大学が「総合未来グローバル環境システム福祉学部」を新設したら「ふーんまあ好きにしたら?」と思うけど、東大に「東京大学総合未来グローバル環境システム福祉学部」ができたら、東大と一切関係ない人ですら「おいおいそんなばかなことしたらだめだろ」と言いたくなる。そんな気持ちだ。



じっさいのところ、アメリカ人って銃についてどう思ってるんだろう。
「なくせたらいいけど現実的にはなくせないからしょうがないよね。あったほうがいいこともあるし」として受け入れているのだろうか。日本における暴力団と同じように「必要悪」扱いなんだろうか。

いつ撃たれるかわからない社会でびくびくしながら暮らすのってすごいストレスなんじゃないかと思う。
でも日本だって殺そうと思えば車ではねとばしたり電車のホームからつきとばしたりすれば殺せるわけで、銃を規制しても他の手段での殺人に代わるだけで案外殺人そのものは減らないのかもしれない。

とはいえ暴発による事故は確実に減るだろうから、それだけでもやる価値はあると思うけど。



アメリカ人が銃を手放さない理由としてよく言われるのは、「アメリカが銃と民主主義で独立を成し遂げたから」という説明だ。
ぼくはこの説には納得できない。仮にはじめはそうだったとしても、数百年も同じやりかたを続ける理由にはならないだろう。日本だってとっくの昔に刀を捨てた。いくらなんでも「祖先のDNA説」は無理がある。

堤 未果氏の『(株)貧困大国アメリカ』 では、全米ライフル協会がロビー活動をがんばってるから規制が進まない、と書いてあった。

『週間ニューズウィーク日本版2018年3月13日号』の特集『アメリカが銃を捨てる日』にもこんな記述があった。

 適切な銃規制が行われれば、銃犯罪 が大幅に減る可能性は高い。コネティカット州では、95年に拳銃の購入に免 許取得を義務付けたところ、05年までの10年間で拳銃絡みの殺人事件が40%減ったとされる。銃が手に入りにくくなれば、銃を使った自殺も減るだろう(アメリカでは銃絡みの死亡事件の3分の2が自殺だ)。
 アメリカの一般市民の大多数は、銃規制に賛成している。銃を所有する家庭でさえ、93%が銃購入者の経歴調査の厳格化を、89%が精神疾患者の銃所有禁止を支持している。
 それなのになぜ、アメリカの銃規制は恐ろしく緩いのか。それは政治家(圧倒的に共和党議員が多い)が、NRAから献金をたっぷりもらっているからだ。ドナルド・トランプ大統領も、3000万ドルの献金を得ている。だから学校で乱射事件が起きても、政治家は犠牲者のために祈りをささげるだけで、何の行動も起こさないというお決まりのパターンが繰り返されてきた。

NRAとは全米ライフル協会のことだ。
アメリカの選挙は金がかかる、全米ライフル協会は巨額の支援をしている。特に共和党に対してはそうだし、賭けにはずれて大負けしないように民主党にもBETしている。だから民主党政権になったとしても銃規制は進まない。
金がほしいから規制しない。いたってシンプルだ。そして「祖先のDNA説」よりずっと説得力がある。



ぼくらの多くは「人命はすべてのことに優先する」「金より人の命のほうが大事」と思っているし、じっさいその原則に従って行動する。
でもぼくらが大事にするのは「自分の命」や「よく知る人の命」であって「どこかの誰かの命」ではない。
「どこかの誰かの命」の価値はすごく低い。日本でも過労死増加確実と言われている高度プロフェッショナル制度が通されるが、あれに賛成している議員だって「過労死を増やしてやろう」と考えているわけではないだろう。「どこかの誰かの命」に対する想像力をはたらかせていないだけなのだ。想像力の欠如か、あえて考えないようにしているのかはわからないけど。
「あなたの子どもに高度プロフェッショナル制度を適用してもいいですか?」だったほとんどの議員が反対にまわるだろう。


リチャード・マシスンという作家の短篇に『死を招くボタン・ゲーム』という作品がある。
ある夫婦の元にボタンのついた箱が届けられる。見知らぬ男が現れて「そのボタンを押せば大金を差し上げます。そのかわり世界のどこかであなたたちの知らない誰かが死にます」と言ってきた……。
という話だ。

有名な話なので、作者名は知らなくてもオチを知っている人は多いだろう。
この夫婦はボタンを押すわけだが、彼らが極端に利己的というわけではない。「ボタンを押すと隣の家の人が死にます」だったら押さなかっただろう。ただ「どこかの誰かの命」は「目の前の金」よりもずっと価値が低くなってしまうのだ。

えらそうなことを書いているけど、銃乱射事件のニュースを見て「またか」と思ったぼくも同じだ。「どこかの誰かの命」に対しては食パン一枚ほどの価値も感じていない。

銃が「アメリカの病」なら、過重労働は「日本の病」だ。でもそれは症状であって病因ではない。
病の原因は全人類に共通する「どこかの誰かの命を軽視してしまう」という性質だ。


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