2018年11月7日水曜日
まゆ毛っていらないよな
こないだテレビで、美容整形手術で乳首をとる男性がいるという話をやっていた。
不要なものだからとりたい、という人がそこそこいるらしい。
気持ちはわからなくもない。
乳首をとりたいと思ったことはないが、同じような気持ちを抱いたことはある。
小学校一年生ぐらいのとき、ふと「まゆ毛っていらないよな」と思った。
なんでこんなものがあるんだろうと思った。鏡で自分のまゆ毛を見てみる。
なんだこれ。中途半端なところに生えている。髪の毛はまだわかる。人間にとって大切な頭部を守るのだろう。しかしまゆ毛があるのは眼とひたいの間。ぜんぜん大事じゃない。
生えてる場所も半端なら、長さも半端。うっすらと生えているだけで生命力を感じない。
つくづく不要なものに思える。
引っぱって抜いてみた。ぜんぜん痛くない。髪の毛を抜くと痛いのに、まゆ毛はちっとも痛くない。やっぱりいらないものなんだ。ほんとに必要なものだったら抜くときに痛みを感じるはずだもの。
途中で母親から止められたおかげで全部抜くことはなかったが、当時の写真を見るとまゆ毛が薄くて人相が悪い。
中学三年生のとき、ふいに自分の下くちびるが気持ち悪くなった。
なんだこのぼってりしたやつ。こんなにぶあつい必要あるか? ものを食べるために使うには、この半分でも十分だろ。
当時は思春期まっさかり。この気持ち悪い下くちびるで人前に出ることが急に恥ずかしくなった。
幸い下くちびるは、口の中に隠すことができる。下くちびるをぐっと口の中に押しこみ、上くちびるでふたをする。
鏡を見てみる。こっちのほうがずっといい。きりっとして見える。下くちびるはだらしない印象を与えるようだ。
ちょうどその頃、卒業アルバムをつくるために写真屋さんが学校に来ていた。ひとりずつ座って写真を撮る。
ぼくは下くちびるをしっかりと口の中に隠す。
写真屋さんは云った。「口をぎゅっとしないで、ふつうにして」
ちがうんです、これがぼくのふつうなんです。下くちびるを全部見せているのはだらしなくしているときだけで、下くちびるを隠しているこの状態こそが本来のぼくの顔なんです。心の中で弁解する。
ぼくはほんの少しだけ下くちびるを外に出す。
写真屋のおじさんは云う。「そうじゃなくて、もっと自然にして」
かなりいらいらした口調だ。この後何十枚も撮らないといけないのだ。
ぼくは下くちびるを隠しつづけた。やがて写真屋のおじさんは諦めて「この写真が残るけどいいねんな?」と確認して、シャッターを切った。
卒業アルバムに写ったぼくの顔は、ぎゅっと下くちびるを噛んで、まるで悔しさを押し殺しているように見える。じっさいぼくは悔しかったのだ。不必要にぶあつい下くちびるが自分の口についていることが。
あれから数十年。
今ぼくはまゆ毛をじゃまに思うことはないし、自分の下くちびるを無駄にぶあついと思うこともない。ごくごくふつうのまゆ毛、ふつうの下くちびるだと思う。
血迷ってカッターナイフで下くちびるを切りとったりしなくて本当によかった。
美容整形手術で乳首をとってしまった男性は、数年後に後悔したりしないのだろうか。
それともやはり切除してよかったと思っているのだろうか。
もしくは、乳首をとってすっきりしたことで、またべつのものを不要に思うのかもしれない。
このへそ、何の役にも立ってないなとか。なんでこんなところにくるぶしみたいなでっぱりがあるんだろうとか。鼻なんて穴だけあればいいじゃないかとか。背中を使うことないなとか。
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