2023年4月5日水曜日

【読書感想文】笹沢 左保『人喰い』 / タイトルだけが期待はずれ。

人喰い

笹沢 左保

内容(e-honより)
熾烈な労働争議が続く「本多銃砲火薬店」の工場に勤務する、花城佐紀子の姉・由記子が、遺書を残して失踪した。社長の一人息子の本多昭一と心中するという。失踪から二日後、昭一の遺体は発見されたが、由記子の行方はわからない。殺人犯として指名手配を受けた姉を追い、由記子の同僚でもある恋人の豊島とともに佐紀子は必死の捜索を続けるが、工場でさらなる事件が起こる。第14回日本推理作家協会賞を受賞した傑作長編ミステリー。


 さほど古い本ではないのに、内容や文体が妙に古い。奥付を見ると、2008年刊。あれ? それにしちゃあ登場人物の考えや行動が古すぎるぞ? 銃砲店とか労働組合とか、あらゆる小道具が現代的じゃない。

 調べてみると、1960年刊行の本の復刊だった。あー、どうりで。




 1960年というと、今から60年以上昔かー。うわー、古典だなー。

 60年って長いよね。明治維新から昭和のはじまりまでがおよそ60年。ちょんまげ結ったお侍さんが歩いてた時代から、洋服着て映画館行って洋食食べる時代になるぐらいのスパンだ。とんでもなく長い。

 でありながら『人喰い』は今読んでもちゃんとおもしろい。使われているトリックも、推理の道筋も、ほとんど現代でも有効なものばかりだ。今だと無理があるのは「ライターがあるのにマッチを使うはずがない!」という推理ぐらいかな。

 まあ交際を反対された男女が心中するとか、会社と第一組合と第二組合が三つ巴でいがみあっているとかは今の感覚では理解しがたいけど。でもそれはそれで当時の人々の人生観をうかがい知れるものとしておもしろい。




 意外性のあるトリック、ほどよく意外な真犯人、論理的な謎解き、丁寧な心中描写など上質な本格ミステリ。まあトリックはかなり無理があるというか「いくら疑われないためとはいえそこまでやらんだろ……」という感じではあるのだが。また、かなり難しい連続した犯行をほぼノーミスでやり遂げているところも都合がよい気はするが、まあそれは小説なのでしかたがない。

 いちばん引っかかったのは、タイトル『人喰い』。一応最後でタイトルの意味が明かされるけど、あまりピンとこない。もっと猟奇的なストーリーを想像しただけに、肩透かしを食らった気分。『人喰い』だけに人を食ったようながっかりタイトルだった。


 ところどころ穴は目立つが、総じていえばちゃんとおもしろいミステリでした。60年以上前の小説ってことで期待せずに読んだのだけど、いい意味で裏切られた。


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2023年4月3日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ愛のプレゼント計画』『ズッコケ三人組の卒業式』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十七弾。

 今回は49・50作目の感想。ついにこれでおしまい!


『ズッコケ愛のプレゼント計画』(2004年)

 バレンタインデーが近づき、今年こそは女子からたくさんチョコレートをもらいたいともくろむハチベエ。そんな折、ケーキ屋がチョコレート作りの講習会とコンテストをやるので審査員をハチベエにお願いしたいと依頼する。意気揚々と審査員を引き受けたハチベエだったが、おもわぬハプニングが……。


 五十作のズッコケシリーズの中で恋愛をテーマにした作品は意外にも少なく、『ズッコケ㊙大作戦』ぐらいしかない(『結婚相談所』は恋愛というより家族の話だし、『修学旅行』などでもエッセンス的に使われているけどメインテーマではない)。『㊙大作戦』がすばらしい作品だったので、あれを超えるものはもう書けないとおもったのかもしれない。

『愛のプレゼント計画』はひさしぶりに恋愛がテーマかとおもいきや、タイトルに反して恋愛要素は皆無。ハチベエの頭にあるのは「モテたい」「女の子たちからチョコレートをもらいたい」という欲望だけで、特定の異性と交際したいなんて発想はまるでない。六年生にしては幼稚すぎないか? 子どもは子どもらしくあるべし、性愛に興味を持つなんてとんでもない、みたいなお行儀のよい思想に立ち向かっていたのが初期のズッコケシリーズの魅力だったのに、『愛のプレゼント計画』でのハチベエたちはすっかり「大人が理想とする子ども」になってしまっている。なっさけない。今にはじまったことではなく、三十作目ぐらいからはずっとそうだけど。

 この作品に関しては、三人組が「大人が理想とする子ども」になっているだけでなく、女子たちが「男子が理想とする少女」になっていて、二重にしょうもない。かわいくて、頭からっぽで自我なんてなくて、男の子に優しいというエロ漫画に出てくる少女そのものだ。ただただ都合がいいだけの存在。

 その子たちが、わけもなくハチベエをちやほやする。ハチベエがいいところを見せることもなく、裏に少女たちのたくらみがあるということもない。ただただわけもなくハチベエに好意を寄せる。人間らしさというものがまるでない。

『結婚相談所』でハチベエにひどいいたずらをしかけたり、『占い百科』で嫉妬からクラスメイトに嫌がらせをしかけたりしていた少女たちのほうがずっと魅力的だったぜ。

 中盤以降は少女たちの出番は減り、講習会で出会ったお金持ちのおばあさんが実は認知症で……と話がシフトしてゆく(この頃は認知症という呼び名は一般的でなかったので痴呆と呼んでいる)。なんだそりゃ。いや、べつに認知症をテーマにしたっていいんだけど、なぜバレンタインデーと認知症なんだ。ものすごく相性の悪い取り合わせ。

 ほとんど見どころのない作品だった。


『ズッコケ三人組の卒業式』(2004年)

 卒業を前に、クラスみんなで埋めるタイムカプセルとは別に、三人だけのタイムカプセルを校内に埋めることにしたハチベエ・ハカセ・モーちゃん。穴を掘っていると先人の埋めたタイムカプセルが見つかり、中には古い演歌のCDが。だがそのCDをハチベエが持ち出したことで思わぬ事態が発生し……。


 二十六年続いたズッコケシリーズもこれにて完結。

 序盤には「二十六年ぐらい小学生をやっていたような気がする」「六年生の夏休みが何度もあったように感じる」なんてメタなギャグを入れたり、過去作品に言及したりとちょっとしたファンサービスが準備されてはいるが、基本的にはいつものズッコケシリーズ。最終巻だからといって特にいつもと変わらない。

 ここまで五十作読んできた人間からすると、もうちょっと最終巻らしい内容でもよかったなーとおもう。過去の冒険をふりかえるとか、なつかしい人(マコとか若林先生とか浩介とか)が再登場するとか。

 一応「六年生たちの卒業にあわせて宅和先生が教師をやめる」というストーリーが今作中で語られるけど、それどうでもよくない? だって六年生からしたら、卒業したらどうせ会わなくなるわけでしょ。だったら教師を続けようがやめようが教育委員会に行こうが、どうでもいいじゃない。作者自身の姿を宅和先生に重ねたかったんだろうけど、どうでもいいことにページを割いてるなあという印象(それにしても、この頃は六十手前で仕事をやめてのんびり余生を過ごせた時代だったんだねえ)。

 どうでもいいといえば、「卒業式は国歌斉唱は君が代だけでなく、いろんなルーツを持つ生徒たちを尊重して諸外国の国歌も歌う」という作者の政治的なメッセージがしつこく語られること。主張自体には反対しないけど、それをむりやり作品の中にねじこむなよ……。


 あと気になったのは、三人組の性格がいつもとちがう。それも悪いほうに。これは最終巻だからなのか?

 くだらないことで喧嘩をするし(ハチベエはともかくモーちゃんがこんな些細なことでいらつくのは過去にない)、トラブルが起こったときに自分たちだけで解決しようとするんじゃなくて校長先生に相談するし、これまで読者を楽しませてくれた三人組がどこかにいってしまったよう。卒業って「もうおれたち仲良く冒険するような歳じゃないぜ」ってこと? そんな卒業のしかたはひどすぎる。

 最後でハチベエが誘拐されるという事件が起きるが、犯人の「何の準備もなくおもいつきで誘拐して身代金を要求する」という場当たり犯行が愚かすぎる。犯人との知恵比べにもならない。当然ながらすぐ警察に捕まって三人組が活躍する間もない。


 宅和先生が教師をやめる際に「今の時代の教師にふさわしくなくなった」という台詞を吐く。これはたぶん作者の心情そのものだろう。じっさいその通り。時代がどうこうというより、作者が子どもから遠ざかりすぎたんだとおもう。


 ということで、ズッコケシリーズ(小学生篇)をすべて読了!

 シリーズすべてのふりかえりはまた今度別記事で書きます。


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2023年3月31日金曜日

大阪人の大阪観光だらだら日記

 大阪人だが、小学生三人を連れて大阪観光をしてきた。


 うちは共働きなので、夏休みだ春休みだといっても娘は学童に行かせていた。せっかくの休みなのに毎日学童。しかもコロナ禍のため「弁当はひとりで黙って食べる」「おしゃべり禁止」「室内で遊ぶときはひとりで」など、厳しく対策がとられていた。子どもにとって楽しいはずがない。

 そんなわけで娘にとって夏休みや春休みというのは楽しいものではなく、日々「早く授業はじまらないかなー」とぼやいていた。

 せっかくの休みなのに毎日学童ではかわいそう、たまにはおもいっきり遊ばせてやろう、とおもい、毎年夏休みや春休みには有給休暇をとって「朝から晩までめいっぱい遊ぶ日」をつくることにしている。

 といっても「娘の友だちといっしょにプールに連れていく」とか「ファミレスに連れていって好きなものをおもいっきり食べさせる」とか「いっしょに好きなだけボードゲームをする」とかで、そこまで特別なことをするわけではないのだが。


 さて、今年の春休み。

 京都に住む姪が小学校を卒業したので卒業祝いも兼ねて、長女(9)、姪(12)、甥(8)を連れて大阪観光をすることにした(次女(4)は申し訳ないが保育園に預けた)。

 姉夫婦ともに仕事が忙しく、うちのところ以上に遊びに連れていく時間がないという。そこで「子どもたちだけで大阪までおいで。駅まで迎えに行くから」と言い、大阪を連れまわすことにした。

 聞けば、姪は吉本新喜劇が大好きで毎週録画して観ているという。甥は吉本新喜劇にはあまり興味がないが身体を動かすことが大好きだ。

 そこで、なんばで吉本新喜劇鑑賞 → 天王寺で串カツ → てんしばでボルダリング → 新世界で街歩き というプランを立てた。夢の大阪満喫コースだ。


 というわけで三月某日。長女を連れて日本橋に行き、姪と甥を待つ。

 ちゃんと時間通りに現れる姪と甥。彼らのおむつを取り替えていた叔父としては、おお、あの子らが電車を乗り継いで京都から大阪まで来られるようになったか……と感無量。

 時間まで少し時間があったので周辺をぶらぶら歩いてたこ焼きを食う。こういう大阪らしいこともしとかないとね。

 で、笑いの殿堂なんばグランド花月へ。ここの向かいにあったワッハホールや、かつて存在した心斎橋筋二丁目劇場には行ったことがあったけど、なんばグランド花月はぼくも初めて足を踏み入れる。立派な劇場だなあ。

 まずは漫才。出番は、囲碁将棋、ぼる塾、ゆにばーす、2丁拳銃、まるむし商店、大木こだま・ひびき、プラスマイナス。

 さすが、みんなおもしろい(まるむし商店は滑舌が衰えていて聞き取れない箇所が多かったが)。テレビで観るのとはちがい、観客にアンケートをとったり、拍手を要求したりして盛り上げてくれる。舞台上と客席との一体感。これぞライブの楽しさ。

 中でも出色だったのは2丁拳銃。この日いちばん笑いをとっていたし、小学生たちも笑いころげていた。老若男女を笑わせるすばらしい漫才だった。絵描き歌や童謡などわかりやすい題材だったから、というのもあるんだろうけど。

 童謡ネタ部分については二十年以上前からやっているネタだけど、今観ても同じように笑える。やはり2丁拳銃は漫才師なのだ。彼らが東京へ行かずにずっと大阪で漫才を続けていたら今頃大阪を代表する大漫才師になっていたのかもしれないな……と実現しなかった未来について想像してしまう。


 漫才の後は新喜劇。こちらもおもしろかった。子どもたちも大笑い。漫才よりもコントのほうが子どもにはわかりやすいよね。

 ぼくが感心したのは内場勝則さんの動き。ずっとキビキビ動いていて、遠くから見ても動きがわかりやすい。自分がメインのときだけでなく、他の出演者が話したりボケたりしているときもずっとキレのある動きをしていた。さすがはベテラン。舞台人だなあ。

 こういうのはテレビではわからないので、内場さんの動きの良さを発見できただけでも観にきた甲斐があった。


 劇場を出て、天王寺へ。串カツを食う。某・テーブルに油があって串カツを自分で揚げられるチェーン店だ。本格的な串カツ屋より、子どもにはこっちのほうがいいのだ。チョコレートフォンデュやソフトクリームも食べ放題だからね!

 食後はてんしば(天王寺公園)のPANZAへ。ここでボルダリングに挑戦。三人とも、本格的なボルダリングはほぼ初挑戦。ぼくは十年ぐらい前にやったことがあるが、そのときは生身で登るものでせいぜい三メートルぐらい。今回は命綱をつけて登るので、七~八メートルはあるだろうか。いちばん上まで行くと二階建て住宅の屋根ぐらいの高さになる。

 子どもたちははじめてのボルダリングなのでおそるおそる登ってゆく。こわい、こわいと言いながら中ほどでリタイア。

 どれ、おっさんがお手本を見せてやろうと壁にしがみつくと、ふくらはぎに嫌な感覚。やばい、脚がつりそう。若くないんだからちゃんとストレッチするべきだった。

 それでもなんとかしがみつくが、壁がぬるぬるすべる。前の人の汗が残っているのだ。こえー。以前にボルダリングをやったとき、近くにいた女性がおりるのに失敗して膝を強打し救急車で運ばれていたことをおもいだす。とにかく怪我だけは避けたい。

 ということでぼくも八分目でリタイア。体力や握力の衰え以上に、「八分目までいったけど万一怪我をしたらいやだからリタイア」という選択をするようになった自分に年齢を感じる。

 子どもたちは徐々に慣れてきて、すいすい登るように。たまたま最初に登ったのがむずかしいコースだったようで、他のコースはわりとクリアしていく。特に八歳の甥はサルのように身軽で、ぱっと壁にとりつくとひょいひょいひょい、っと登ってゆく。いけるかいけないかギリギリ、みたいなところでも退却という選択をせずに果敢に上を目指すところが若さだ。見ているとはらはらするが。

 ぼくは数回登っただけで、あとはカメラマンに専念。おっさんなので自分がやるよりも子どもの撮影をするほうが楽しいのだ。


 ボルダリングの後は、芝生で休憩をして、新世界へ。そろそろ子どもたちを帰らせないといけないので、ぶらぶら歩いて射的だけさせる。

 新世界は観光客向けの店が多く、飲食店以外にも、ゲームセンター、射的、弓道体験、輪投げなどいろんな遊技場がある。姪は「なんかお祭りみたいやなー」と物めずらしそうにきょろきょろしている。「ここは一年中こんな感じやで」と教えると「一年中お祭りやってるなんてすごい!!」と目を輝かせていた。

 そうかそうか、と連れてきたおっちゃんとしても満足そうに歩いていたのだが、ふと姪が顔をしかめて「そういや大阪ってタバコ吸う人めちゃめちゃ多いな」と漏らした。

 いや、このあたりが特にそういうところなのであって、決して大阪全体がそういう街ではないんだよ……と言い訳がましく説明する叔父さんなのであった。


〝そういうところ〟を歩く子どもたち


2023年3月30日木曜日

【読書感想文】堀本 裕樹『桜木杏、俳句はじめてみました』 / 小説部分が蛇足な小説

桜木杏、俳句はじめてみました

堀本 裕樹

内容(e-honより)
母親に連れられて初めて句会に参加した、大学生・桜木杏。俳句といっても、五・七・五で季語を入れればいい、くらいしか知らなかった杏だが、挑戦してみると難しいけど面白い。句会のメンバーも個性豊かな人ばかりで、とりわけ気になるのは爽やかなイケメン・昴さん。四季折々の句会で俳句の奥深さを知るとともに、杏は次第に恋心を募らせて…。


 俳句啓蒙小説。

 以前読んだ某歌人の「短歌啓蒙小説」がひどい出来だったので嫌な予感もあったのだが、予感が的中してしまった。


 キャラクターがとにかくダサい。

 特に主人公。いかにも〝おっさんが描いた女の子〟って感じだ。

 イケメンが大好きで、でも誰にでも優しくて、元気で明るくて前向きで、ちょっとしたことにドキドキして、親に対する感謝の気持ちを忘れなくて、おっちょこちょいで、感受性豊かで、好きな人に対してひたむきで……と、とにかく人間としてつまんない。朝ドラのヒロインみたいでまるで人間味がない。

 そのほかの登場人物も、つまらない冗談ばかり飛ばすおっさんとか、クセの強い銀行員とか、必ず語尾を伸ばす話し方でずけずけとものを言うギャルとか、かっこいい俳人先生におネツのおばちゃんとか、ザ・ステレオタイプ。

 俳句は言葉の選択が大事だ、なんて登場人物に言わせてるくせに、あつかましいおっさんには「〜でんな」「〜でっせ」なんてオーサカ弁(本物の大阪弁ではなくフィクションの世界にしか存在しない嘘の方言)を使わせるのはどうなのよ。言葉を大事にしなさいよ。

 俳句のおもしろさを伝えようとしてるんだけど、俳句やってるのってこんな感性の人なのか、とおもってしまう。逆に俳句を貶めてるんじゃないの?


 登場人物だけでなく、ストーリーも退屈。

 すべてのストーリー、すべての台詞が「俳句の楽しさを伝えるためだけ」に用意されたものなんだもの。説明台詞ばっかり。句会だけじゃなく、他の場面でも何かあれば「これは俳句の世界では~」「この季語は~」といちいち説明する。

 そういや昔、友人がパチスロにドハマリしてて、何の話をしても「そういやパチスロでも~」「それってパチスロでいうところの~」とパチスロの話ばっかりしてた。それまではちゃんと他人の話に耳を傾けるやつだったので、人の話を聞かないというよりパチスロのことしか考えられなくなってたんだろうな。それといっしょ。

 こんなやつが現実にいたら嫌われるだろうなあー。


 これは小説じゃなくて教科書だね。教科書にもおもしろいものとそうでないものがあるけど、これは後者。




 俳句の話はたしかに勉強になることも多かったので、それだけに小説部分のつまらなさが目立ってしまった。小説部分が完全に邪魔。

 ふつうに俳句の教科書を書いてくれたほうがよかったな。


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2023年3月28日火曜日

本人が言うんだからまちがいない

「本人が言うんだからまちがいない」について。


 たとえば小説家Aの作品について、読者や評論家が議論を交わしている。これは○○を暗喩している、いやこれは××のモチーフだ、と。

 そこへ、当の作者A本人がやってきて言う。
「いやこれは△△だ。本人が言うんだからまちがいない!」


 すると、他の人たちは黙らざるをえない。誰よりもよく知ってる作者本人が言ってるんだからまちがいないよね、と。

 だが、はたしてそうだろうか。

「本人が言うんだからまちがいない」はまちがいないのだろうか。


 ぼくはそうはおもわない。むしろ、本人ほど信用ならないものはない。

 作者本人は、自分にとって都合のよい証言をするに決まってる。

「それはなーんも考えずに書いたんだよね。そしたら評論家たちが勝手に深い意味を見いだしてくれたの」

「ここの箇所は、電車の中でたまたま耳にした話をそのまま書いたの。要はパクリ」

なんてことは言わないだろう。


 言ってみれば作者なんてのはいちばんの利害関係者だ。その証言はまったくあてにならない。

 死体が見つかった。その部屋には死体と、Xという人物だけがいた。もちろんXは最有力容疑者だ。

 そのXが「おれは殺したが正当防衛だった。証拠もなければ目撃者もいないが、殺した本人が言うんだからまちがいない」と言った場合、それをそのまま信じますか?