ごはんのことばかり100話とちょっと
よしもとばなな
食事や料理に関するエッセイ集。
ものすごくゆるーいエッセイで、意外な事実もないしオチもないし笑いどころもない。
もともと発表するために書いていたものではないそうだ。
だからつまらないかというとそんなこともなく、書かれている内容にはあっている。
毎日のやさしい家庭のごはんのような味わいの文章。
おもしろさはないけど、毎日読んでも飽きない文章。
吉本ばなな(2005年からペンネームが「吉本ばなな」になったそうです)の食に対する姿勢は、力が抜けている。
外食も好き、作るのも好き、おいしいのは好きだけどテキトーなのもいい、かたくるしくなくていい、健康には気をつけるけどたまには手を抜いてもいい。そんな感じ。
小さい子どもを育てている人ならではの境地、という気がする。
若いころは「おいしいものをつくらなきゃ!」「おいしいものを食べたい!」という気持ちになりがちだけど、子どもにごはんを食べさせないといけない人はそんなこと言ってられないもんね。
どんなにがんばってつくっても子どもは平気で残すし皿ごとひっくりかえすこともある。
だけどとにかく毎食毎食作って食べさせなきゃいけない。
「子どもが食べてくれる」が最優先。その次が栄養。味とか盛り付けとかは二の次三の次。
そういう心境がエッセイのふしぶしから感じられる。
ぼくの家にも六歳と一歳の娘がいるので、この心境はすごく共感できる。
(といってもうちで料理をするのはもっぱら妻なんだけど)
何年か前に、吉本ばななさんのエッセイが何度かネットで炎上していた。
ほじくりかえすようで恐縮だけど、
「タトゥーを入れていることを理由に公衆浴場への入場を断られたので叱ってやった」
「居酒屋にワインを持ち込んで飲んでいたら持ち込みはやめてくれと言われた。ちょっとぐらいいいじゃないかと言ったのに融通を利かせてくれなかった。店側は商売というものをわかっていない」
みたいなことを書いて、「それはおまえが悪い」と非難されていた。
タトゥーについてはさておき(そもそもタトゥーを入れる人の気持ちがぼくには理解できないので)、ワインの持ち込みについてはどっちの気持ちもわかる。
自分が客の立場だったら「ちょっとぐらいは目をつぶってくれてもいいじゃない。その分他でお金使うし」とおもうだろうし、店員の立場だったら「常連だからって許してたら他の客が真似をしたときに注意できなくなる」とおもう。
(まあ吉本ばななさんが炎上していたのは、持ち込み云々よりも「私のような有名人には融通利かせてくれたっていいじゃない」的なことを書いたことが大きいんだけど)
この『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読んでいても、吉本ばななさんが「おおらか」を求めているのが伝わってくる。
細かいこというなよ、マニュアルに一から十まで縛られたくない、臨機応変に対応してほしい、常連客はちょっとだけ特別扱いしてほしい、という考えだ。
そういう考え方も理解はできる。
こっちが主流の国もあるとおもう。
五十年前の日本でもそういう考えが多数派だったんじゃないかな。
「奥さん、いいキャベツ入ってるよ。奥さんいつもきれいだからオマケしとくよ!」
みたいな世界だ。
吉本ばななさんにとってはこのほうが居心地がいいんだろう。
でもぼくなんかは「常連になってもそっけない態度をとってくる店」のほうが居心地がいい。
「あれ、最近来てなかったね。どうしたの?」なんて言われたら、もうその店には二度と行きたくない。
ビジネスライクな付き合いをしてほしい。
八百屋さんと仲良くなったら安く買える社会より、どれだけ不愛想でも同じお金を出せば同じサービスを享受できる社会のほうが居心地がいい。
たぶんこっちのほうが今は主流派だ。
常連客だけを相手にしているスナックとかを除けば、「常連さんを優遇して一見さんには厳しく」で商売をやっていくのはむずかしい。
二十一世紀の日本では、あまり受け入れられない価値観だろう。
たぶん吉本ばななさんの炎上エッセイも、もっとおおらかな国だったら共感を持って受け入れられたんだろうね。
とはいえ。
「おおらかでありたい」とおもうのはいいんだけど、吉本ばななさんの考えはどっちかっていったら「みんなもおおらかであってほしい」なんだよな。
「わたしは一見も常連も同じ対応のチェーンの居酒屋よりも、常連だけ特別扱いしてくれるスナックのほうが好き」
っていうのは自由だけど、
「あのスナックは常連を特別扱いしてくれるんだからこの居酒屋も常連を優遇してよ!」
ってのはさすがに通用しないだろう。
おおらかでない人に対して「おおらかになれ!」というのはおおらかじゃない。
料理における「引き算」について。
ああ、わかるなあ……。
ぼくは、典型的な「足し算で失敗するタイプ」だ。
これだけだとちょっと寂しいかも。
冷蔵庫になんかないかな。
これたしてみよう。おいしいものにおいしいものを入れたらもっとおいしくなるはず。
で、あれもこれもと入れて毎回似たようなごった煮料理になってしまう。
デザインなんかでも「足す」より「抑える」「削る」ほうがむずかしいっていうもんなあ。
「ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考え」、これは肝に銘じておこう。
このエピソードから「どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ」という教訓を引きだすのはちょっと無理がある気がするが、なんだかおもしろエピソードだな。
どんなに飢えても嫌いなものは食べたくない、ってのは合理的でないような気もするけど、種の保存という点で見ればもしかしたら理にかなっているのかもしれない。
飢饉のときにみんなが新種のキノコを食べて飢えをしのいだら、もしそのキノコが毒を持っていたときに全滅しちゃうもんね。
そこで「いやおれは腹が減ってもキノコは食べない」って人がいれば、毒にあたらなくて済む上に、ライバルが減って(毒キノコで死んでいるので)食糧にありつける可能性も増える。
って考えると、どれだけ困窮してもきゅうりを食べない人の話は、「人間らしいエピソード」ではなく「遺伝子の乗り物らしいエピソード」ってことになるよね。
その他の読書感想文はこちら
面白かったです。
返信削除よしもとばななさんのワインの件はあれはゴリ押しでダメだけど、あの人の守りたいものはわかるよ。
おおらかでない人に対して、おおらかであってほしいと言うおおらかではない人に、私はおおらかでありたい、ええよって言いたい。贔屓して贔屓されて気分良くなるのが人間やしね。
他者から他者への働きかけってもともとはそういうものだったよなと思うこともあるのです。
そうする前に、あなたはあなた、私は私、関わらないで切断する思考ばかりが目立ちますね。
ビジネスライクに疲れて冷え切って、つけっぱなしのマスクの向こうで愚痴らせてもらいました。
お元気で。
コメントありがとうございます
削除どっちもわかるんですけどね。特別扱いしてほしいときもあるし、してほしくないときもあるし。自分以外が優遇されてたら悔しいし。